アリが死んだ日
暑い。
だけど私は行かなければならない。
駅で一人、備え付けのベンチに座って電車を待つ。待合室なんてない。
駅裏の家に生えている木で、セミが鳴いている。うるさいくらいに。もちろん一匹ではない。姿は見えないが、他の木にもいるはずだ。
セミだけではない。ハチやチョウやいろいろな虫が飛び回っている。
視線を落とすと私の前を一匹のアリが横切ろうとしている。あっちに行ったりこっちに来たり、食料を探して歩き回っているのだろう。いや、もしかしたら走り回っているのかもしれない。どっちにしても私には小さすぎてわからない。
とにかく頑張っているのだとは思う。
だけど、アリは突然動かなくなった。死んだのだ。体を丸めるようにして小さな黒い点になった。
原因は明らかだった。誰かがアリを踏んだのだ。
ヒールの赤い靴だった。彼女は何も知らないだろう。
彼女のかかとが地についた瞬間、あのヒールの先に全体重がかかったとする。彼女の体重が50キログラムと仮定すると、アリは全身でその重さを感じたことになる。アリの体重なんてせいぜい数グラムだろう。もっと軽い、ミリグラムのオーダーかもしれない。
大きさも重さも、自分の何万倍もある生き物に踏み潰される。そんな恐怖、私にはない。
駅にアナウンスが流れた。時間通りに電車がやって来る。
ああ、なにも変わらない。
アリが一匹死んだくらいで、世の中何も変わらない。
当たり前だ。そんな小さなことにかまっていられるほど、人は暇じゃない。
あのアリは、私以外の誰にも気づかれることなく、もっと小さな生物に分解されるか同胞に運ばれエサになり消えていくのだろう。
これが日常だ。
濁流のように激しく流れる日々の中で、静かに消えていくものがある。それに気づくことなく、発見以外の変化を知らずにここまで流れてきたのだろう。
それでいい。終わりほど私の恐れるものはないのだから、静かで、いい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ひねくれた性格の私なので、メッセージを込めて書いたつもりでもそれを隠しすぎてしまい、いつも何が何だかわからなくなってしまいます。今回はできるだけ素直に書いたつもりなのですが……。正解なんかはございません。あなたの頃に『何か』が残れば幸いです。