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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夢でいいから、もう一度

作者: 淡園オリハ

 深夜に飲むコーヒーと、昼下がりに飲むコーヒー。どちらが美味しいだろう。

 私は深夜に飲むコーヒーを推す派なのだけれど、この質問にどう答えるかでその人が昼型か夜型かを知れるのではないか。無論私は夜型だ。

 深夜二時をまわり、すっかり静かになった街を眺めるためにベランダに出ていた。

 まだ二月だから冷えるけれど、オーバーヒート気味の頭を冬の夜風に当てて冷やしたかったからちょうどいい。

 遠くに見える東京タワーはすでに明かりが落ちている。街も眠るんだなあ、なんてロマンチックな妄想。

 それでも、完全に眠らないのが大都会東京らしい。ところどころビルの窓から光がのぞいていた。

 私は眠れない人々に向けて、大真面目に敬礼のポーズを取る。


「お仕事、お疲れ様です」


 と、そこで自分も仕事中であったことに気付いて、自分にツッコんだ。お前もじゃん。

 仕事といえば、もうそろそろ締切が近い。

 原稿の催促に来て、進捗が遅れていると報告したら決まって「いやぁ、参っちゃいますよぉ」と汗をぬぐう担当さんの表情を思い出して、今度は吹き出した。

 担当のノグニさんはずっと変わらない。私が高校生の頃から、ずっと。

 思えば、父は作家としてハードワークをこなせなくなり、母もそれに沿うようにして家にいることが多くなった。私が高校生の頃は、まだふたりとも元気に執筆やパートに出かけていたんだけれど、時間の流れはあらゆるものを風化させてしまう。

 遠い昔にあったことは、どんなに重大な事件でも忘れていくし、それは仕方がないことだ。だけど、それでも忘れたくないことが、生きていれば増えていく。まともに青春時代を送っていない私にも、人並みにはそんな記憶に縋りたくなる夜はあった。

 例えば、今のように無性に寂しい深夜のベランダなどは、感傷にひたるのにもってこいの場所だ。

 ひとつひとつ、楽しいことより辛いことのほうが多かった若き過ちの数々を拾い上げていると、不意にあの子の命日が近いことを思い出した。

 私が小説家を志すに至った、あの事件の日。

 そうか、もう来週に迫っていたなんて。

 慌ててノグニさんへメールを打つ。来週休暇を入れたいという連絡。

 私が夜型であることを知っているから、夜にメールが来てもノグニさんは怒らない。けれど休みたいという申し出に関しては、「参っちゃいますよぉ」と優しい非難を浴びせてくるだろうけど。

 ノグニさんへ送るメールを綴りながら、私は今執筆している小説の構想を思い返す。

 小説と呼べるのかすら分からない、もはや感情を吐露するためだけに書かれるような物語。過去を葬るためだけの小説。

 けれど、その話は確かに書かれるべき物語なのだと、私は確信をもって言える。

 そうでなければ、あの子が浮かばれない。そう思った。



 * * *



 父が締め切りに追われて、ノグニさんから「参っちゃいますよぉ」と詰められている光景を朝から目撃し、母の作った朝食が並ぶ食卓へ座る。

 正直、あまり食欲はなかったけれど、早くから起きて用意してくれた母の気持ちを考えると、食べずに学校へ行くことなどできなかった。気力で詰め込む。

 結局、半分ほどしか食べきれずに家を出た。

 母には「お腹空くよ?」と言われたけれど、今日は職員会議で午前放課だから、お腹は空かない。

 それに、学校は食欲がわくような場所ではなかった。私にとって。


 父が小説家というだけで、ある程度の偏見はある。

 けれど、私がこの世界に適合できないと思ったのは、それが原因ではない。むしろ、逆。私がこの世界に適合したくないと思った理由は、父だ。

 父、というのも語弊がある。正しく伝えるならば、私は小説という世界、物語に出会って変わってしまった。

 幼いころから本だけは無数に散らばる家庭だったから、いつでも好きな本が読めた。寝る前は必ず本を読んでから眠ることにしていたし、そうすることで夢を見た時、小説の世界に入り込めるのが楽しかった。

 問題はそのあと。目覚めた後だ。私は、小学二年生の春の日、目覚めたくないと思ってしまった。

 今でこそ春はあけぼの、なんて言葉を知っているけれど、当時の私からしてみればそんな七文字で表せる心境ではない。とてつもない絶望だった。

 夢の世界、空疎の世界の方が刺激的で楽しいことを知ってから、私は現実の世界が嫌いになっていった。クラスメイトは大して面白くもないことで笑い転げるし、男子は頭が悪い。女子も似たようなものだったけれど、特に女子が嫌いだった。どうしても横でつながっていなければ不安になる彼女たちのことが心配に思えるほどだった。

 いつからか、つながらない私はいじめの標的となっていた。今思えば、それも仕方がないことだったのだと思う。

 私は学校でも物語の世界のことばかりを考えていたし、休み時間のチャイムが鳴ると同時に本を開いていた。昼休みは必ず図書館へ直行していたし、登下校も本を読みながら歩いていた。

 気が付くと、友人はいなかったし、それを特におかしなことだとも思わなかった。

 当時の私にとって、小説が最良の友人で、登場人物がよき理解者であった。それに、不満を抱いたことなど一度としてなかったのだった。そんな不気味な小学生を、迫害することで安心を得ようとする幼い防衛策を今更責める気など毛頭ない。

 私が今辟易しているのは、こうして高校に上がってもいまだに小学生じみた防衛策を取りたがる人間の多さについてだった。

 ものがなくなるのは日常茶飯事だったし、机は落書きだらけだったけれど、本だけは盗まれないように肌身離さず持ち歩く、そんな高校生活を送っている。私はそれに不満を抱いてはいなかったけれど、やはりそんな女子高生は不気味らしい。

 クラスメイト達の幼稚な防衛策が今日も私の読書を妨げることが、私はうんざりするほどに嫌だった。


 今日は、雪の降らないこの街に、珍しく雪が降った。

 冷え込んだ空気は身を凍えさせたけれど、私はなんだか嫌いじゃないと思った。蒸し暑い夏よりも、よほど過ごしやすい。夏は男も女も盛るしやかましい雰囲気が街に漂う。その空気は、例えば私のように静かに過ごしたい人間を仲間外れにする。けれど冬の静かでつつましやかな雰囲気の中でなら、私は仲間外れにされていないように思える。

 すべて被害妄想だと言われればそれまでなのだけれど、私は本気でそう思っているのだし、せっかく自分が納得できる理由を否定される義理もない。だから、私が冬を好きな理由なんて、風が吹けば飛んでいくような軽さでいい。

 久しぶりに、すこしだけ自信をもって歩道を歩いていると、気分が良くなってきた。

 そうだ、少しだけ寄り道をしよう。そんなことを思い立った。

 職員会議で午前放課、その上、小春日和の昼下がりに散歩をしない手はない。私は家へ直帰するルートを少し外れて、住宅街へ向かわない道を選んだ。

 寂れた旧国道に沿って、大通りを歩く。

 ファストフード店や大きな家具屋を通り過ぎ、途中にある大型のスーパーでホットコーヒーと菓子パンを二つ購入、食べながら歩いた。こんな気分のいい日には、買い食いだってしたくなる。

 コーヒーの甘い香りも連れて、歩道わきの生け垣や路肩に少し雪の残る道をのんびりと歩いた。

 近距離で連続して置かれているコンビニを三つ通り過ぎて、私鉄の通る高架下に差し掛かった時だった。

 暗がりに、何か異質なものが落ちているのを見つけた。

 少し歩調を早めて近寄る。

 どうやら薄汚れた段ボールが歩道に放置されているらしい。

 もしや、と思って段ボールをのぞき込むと、案の定、独特の鳴き声が聞こえてきた。


「……こねこ、かな」


 返事をするように「にゃおぅ」とふてぶてしい鳴き声が響く。

 寒空の下、段ボールの中に敷かれたぼろい毛布だけでは身体が冷えているのではないか、そう思って身体にそっと触れてみる。

 ……あれ、あたたかい。

 ふわふわとした猫の体毛が指に伝わり、なんだか止められず、そのままたっぷり二分ほど撫で回した。

 ハッと気づいて手を離すと、子猫はもっと撫でろと言わんばかりに「なぁ、ご」と不機嫌な声で鳴いた。

 非難される覚えはない。けれど勝手に撫でまわして自分だけが満足してしまったことも事実だったので、お詫びに先ほどスーパーで買っていた菓子パンを与えようと思った。そうして、はたと気づく。

 この添加物や調味料がたっぷりのパンを与えて大丈夫なのだろうか。

 聞いたことがある。猫や犬は人間の食べ物を食べると塩分や砂糖が多すぎて身体を壊してしまう、果ては死んでしまうこともあるのだとか。

 だから、犬猫用に味の薄いケーキを用意したりする専門のお店があるのだと、以前父が教えてくれた。


「ごめんね、ちょっと待ってて」


「なぁ、ご」


 何だお前、みたいな顔で見られてしまった。断腸の思いでその視線に背を向けて立ち上がる。

 先ほど通り過ぎた三つのコンビニのうち、一番手前にある店舗へ向かった。

 自動ドアが開き切る前に身体を店内へ侵入させたので、右肩が自動ドアにぶつかってそこそこ大きい音が出た。恥ずかしさをこらえて、カゴを手に取り商品棚を覗く。 とりあえずミルクと魚肉ソーセージをカゴへ放り込んだ。

 猫といえば、このあたりが妥当じゃないかな。他にも何か必要なものは……と店内を見て回ろうかと思った矢先、不意にふてぶてしい段ボールの住人を思い返す。

 先ほどまでは気にしていなかったけれど、捨て猫だけあってあの子猫、とてもやせ細っていたような気がする。

 こんな風に、離れたとたん、嫌な想像をしてしまうのは私だけではないかもしれない。取り越し苦労になってしまうことは分かっているけれど、心配せずにはいられなかった。

 もし、この数瞬の差で、もしあの子猫が餓死してしまったら?

 もし、いたずらで不良どもに襲われて、万が一殺されてしまったら?

 もし、車が事故を起こして歩道へ突っ込んだ先に薄汚れた段ボールがあったら?

 もし、もし、もし……。

 脳内が真っ赤に染まった段ボールで埋め尽くされたとき、私はすでにレジで会計を済ませていた。そのまま袋をもらわず、慌てて店を出た。

「あ、ちょ、お客さ……」という声が自動ドアの向こうから聞こえてきたが、私は振り向かなかった。顔も覚えていない店員さんの目に、私はどう映ったのだろう。

 ”魚肉ソーセージと牛乳ジャンキーのイカれた女子高生”に映っただろうか。間違っても、子猫のためにコンビニまで駆けてくる心優しい子には見えなかっただろう。そういうのはもっとかわいくてふわふわしている世間一般の共通認識の上に成り立つ「女子高生」という生き物に付与されるべきイメージだ。

 ほんの数百メートルの距離を走っただけだというのに、高架下へ戻ってきたときの私は息も絶え絶え、命からがらといった状況で、久しぶりに己の運動不足を痛感した。

 やはり、薄汚れた段ボールは真っ赤に染まってなどおらず、依然そこにふてぶてしく居座る子猫も健在だった。


「なぁ、ご」


 何だお前、みたいな顔で再度見られてしまった。

 確かに、私が逆の立場だったとしてもそう思うだろうし、「なぁ、ご」と鳴いただろう。「なんなんだ、この人間、腹でも痛いのか?」みたいな。


「ごめんね、驚かせちゃった?」


 息を整えてから、段ボールの横に座り込んで商品の包装を破る。

 まずは魚肉ソーセージから与えてみた。

 数秒は鼻を近づけて匂いを嗅いでいた子猫だったが、次の瞬間には一心不乱にピンク色のソーセージにかぶりついていた。


「どうよ、うまい?」


 応答はない。

 けれど、こうしてがっついている姿を見ると、やはりお腹を空かしていたらしい。

 私はなんだか微笑ましくなって、まあ実際に微笑んでいたんだけれど、それでもなんだか、奇妙な感覚を覚えていた。この感覚は、そう。

 私は今、この瞬間、感動していた。

 ああ、懸命に生きようとしているんだなあ。なんて柄にもなく感動してしまっていた。

 きっと、今日は特別気分がいいからだろう。そういうことにしておきたかった。

 私はそもそも、この世界に興味も好意も持っていないはずだった。そうして、色んなつながりを絶ってきたはずだった。諦めてきたはずだった。

 それが、ほんの数分撫でただけの捨て猫に覆されようとしている。

 一心不乱に食事にありつく子猫を見て、今、私はこの世界に満足している。

 由々しき事態、そう思った。

 たった一匹、それも高架下に捨てられた汚い野良猫に、私の世界が覆されてしまうなんて、癪だ。

 私のこれまでがただの強がりだったと証明されてしまうような気がした。

 依然として子猫はソーセージに夢中だった。そっと小さな頭を撫でながら、陸橋のコンクリートにもたれかかった。

 ヒヤリと冷たい感覚。頭も預けさせると、次第に脳内がクリアになっていった。

 日陰からのぞく明るい世界は光に満ちていて、何もかもが活動的に見える。

 ああ、美しい。そう、思ってしまった。

 深呼吸すると、真っ白に冷えた新鮮な空気が肺を満たす。

 ゆっくり吐き出すと、私の身体から強張った感情たちが漏れ出ていった。肩の力が抜けていく。これまで片意地を張って突っぱねてきた善意や、それと同じくらいの悪意が、私の中から放出されていくようだった。


「なぁ、なぁーご」


「……ん、どしたの?」


 どうやら完食したらしい。

 子猫はどこか満足げな表情をしてこちらを見上げていた。

 意識してゆっくりと頭をなでてやる。

 子猫はうっとりと目を閉じ、喉を鳴らした。調子のいいやつだな。まったく。

 子猫を撫でながら、頬をくすぐる風に目を閉じる。春の香りが入り混じった空気でもう一度深呼吸。

 目を開けると、もう肩の力は完全に抜けていて、これまで一体何をこらえていたのか分からなくなっていた。

 世界はこんなに優しくて、気持ちよくて、晴れやかだったことを初めて知った。

 はじめから物語の世界しか見ていなかった私には、気づくはずもなかった世界。それを気づかせてくれたこのふてぶてしい子猫が、たまらなく愛おしかった。そのまま撫でていたかったけれど、お尻が冷えて痛くなってきていたから、名残惜しいけれど右手を離して立ち上がる。牛乳は、また次の機会におあずけしよう。

 高架下の日陰から、日向へと歩き出す。

 いつもは憎らしくて恨めしい太陽が、今は物足りなく感じた。もっと照らしてくれてもいいのに、なんて。

 少しだけ、春が、夏が、待ち遠しく感じられた。



 翌日、私はまた高架下へ向かっていた。

 そう、案外早く次の機会は訪れてしまった。

 登校時に牛乳を持参する女子高生は恐らく私くらいのものだろう。勿論、帰りにあいつに飲ませてやるために持参したのだけれど、まあ、冬場だし衛生的にも問題はないだろう。

 今日は普通に一日授業だったけれど、そんなことは関係なかった。

 足取りは軽く、曇天の下でも変わらず気分は晴れやか。あいつの鳴き声を想像して、にやけそうになる頬を何とか押しとどめる。

 はやくあいつに会いたかったけれど、流石にお土産が牛乳だけというのは寂しい気もしたので、ソーセージも買うことにした。

 昨日と同じコンビニへ入る。今度はぶつからないように、慎重に自動ドアをくぐる。


「いらっしゃいま……せぇー」


 いらっしゃいませー、という普段なら機械的に響くはずのあいさつが不自然なところで切れたことに違和感を覚えて、声がしたレジへ目線を向ける。男性の店員と目が合い、三秒ほど見つめあった。

 なんだろう、私の顔に何かついていただろうか。

 もしかして、頬を制御しきれずに笑いながら入店してくるおかしな女子高生に見えただろうか。それは困る。

 ただでさえ私は”魚肉ソーセージと牛乳ジャンキーのイカれた女子高生”という烙印を押されているかもしれないのに、これ以上変な評判が広まってほしくはない。もうこのコンビニに来れなくなったら、もう一つ向こうのコンビニへ行くことになる。

 不審者としてのランクアップを恐れていると、男性店員はレジから出てこちらへ歩み寄ってきた。

 私が身構えると、彼は小さく笑って口を開いた。エクボが印象的な、茶髪の店員。


「なあ、昨日も来てたよね?」


「え……っと」


 なんでこんなに馴れ馴れしいのだろう。まるで友人同士のようなフランクさで話しかけてくるこのスタンスが、セブンイレブンの接客方針だったのだろうか。そんなわけはない。だとすれば、本当に友人同士なのだろうか?

 しかし、私がこんなチャラそうな人と仲良くなるはずもない。そもそも、友人などいないはずだった。


「サガミもこの辺に住んでんの?」


「あ、あの、なんで私の名前を知ってるの?」


「……は?」


 呆けた表情で私を見返す彼の口はあんぐりと開いて、その間抜けな顔がなんだか面白くて。私はなんだか笑いそうになってしまった。

 けれど、ここは笑うところではないはずだと思い、何とかこらえた。

 だというのに、目前の彼は勤務中であることも忘れて大きな声で笑い出した。

 私はびっくりして、肩を震わせる。

 彼は「ごめんごめん」と謝りながら続けた。


「俺、一応同じクラスなんだけど。イチシーのカタオカだよ。名前も知らないか?」


 イチシー、と言うのはクラスの名称だ。一年C組。通称イチシー。

 しかし、私の記憶が正しければカタオカという同級生と会話した覚えはない。

 というか、クラスの誰とも会話をした覚えはない。

 恐る恐る聞いてみることにした。


「あ、っと……ごめん、だって、話したことないよね……?」

 

 カタオカは腕組みをして頷きながら、うなった。


「んー、確かにな。話したことはない。けど、ほら、サガミ有名人だし。こっちが一方的に知ってるだけで話しかけちまった。ごめんな」


「あ……それは、ぜんぜん……」


「そっか」


「……うん」


 そのまま、とても居心地の悪い沈黙が場を支配した。

 店内放送の音以外には何も聞こえない。それなりに大きな道に面しているのに、私のほかにお客はひとりもいなかった。

 私はこういう沈黙が何よりも恐ろしい。

 というのも、私が沈黙を嫌っているわけではなく、相手がこの沈黙を迷惑に思っているのではないかと考えてしまうのだ。そう思ったとたん、消えてしまいたくなって、私などと会話させてしまって申し訳ないな、と心から思ってしまう。相手を楽しませることが出来ない私に、会話相手はつとまらないのではないか。

 そうなると、もうだめだ。私は俯いて、背を向けて、その場を退散する。

 いつだって、そうやって関係を作れないまま逃げ続けてきた。今回も、そうするつもりだった。

 慣れた動作。俯いて、背を向けたところで、イレギュラーが起こった。

 カタオカが声をかけてきた。

 それも、無理に呼び止めるような声音ではない。先ほどと何ら変わらない態度としゃべり方で会話を継続してきた。

 私はびっくりして足を止めて振り向いた。普通はここで会話が終わるはずなのだ。


「サガミは、どうしてこの店に来たの? しかも、昨日だいぶ慌ててたし」


「…………もしかして、昨日って」


「ははは、牛乳と、魚肉ソーセージ?」


 顔が一気に熱くなる。ゆでダコの様になっているだろう。そんな自分を想像してさらに顔を熱くしながら、なんとか弁明を試みる。

 なんとか不審者と思われずにこの場をやり過ごしたかった。


「その、それはね、その、違うの。私じゃないの」


 しどろもどろ、とはこのことを言うのだろう。

 誤解を解きたくて言葉を探すけれど、順序立てて言葉を組み合わせられない。

 わたわたしていると、カタオカがまた小さく笑って、優し気な口調で言った。


「知ってる。近くの子猫にあげたんだろ? 高架下のあいつ」


 私は呆けた顔をしていたと思う。

 口を閉じられないまま、カタオカの笑顔に向かって問いかけた。


「なんで、それを?」


 カタオカは右手で後頭部をかき、目をそらした。


「俺の家向こうでさ。高架下、通るんだよ。俺もバイトで廃棄とか出た日にはあいつが食えるもんもらって帰るんだ。で、餌付けしてんの」


 素直にご飯をあげている、とは言えないのが男心なのだろうか。恥ずかしいのだろうか。

 けれど気持ちは私にもよくわかった。なんだか、素直に猫をかわいがるのが恥ずかしいと思える気持ちは、私も持ち合わせている。

 かわいいものを大げさに「カワイイ~」などと持て囃して、自らの株を上げようという考えは微塵も持ち合わせていない。カタオカが恥ずかしそうにしていたから、なんだかフェアじゃない気がして、私は素直に気持ちを伝えた。


「カタオカ、優しいんだね。私、昨日初めてあの子に会ったの。カタオカはいつからあの子と知り合いなの?」


「俺は一週間くらい前からだよ。毎日通ってるけど、あそこにあいつがいるのを見つけたのもそのくらいだから、たぶん捨てられて一週間くらいだと思う」


「そうなんだ、それじゃ……」


 それから、お客さんが来るまで、私たちは子猫について語り合った。

 どこをなでられると気持ち良いのか、鳴き声で言っていることが分かるか、確認していないがオスかメスか、好きな食べ物はなんなのか、拾い主は現れるかどうか、など。

 結局話は進み、今日バイト終わりに一緒に子猫を見に行くという予定が生まれるに至ってしまった。

 私はもともとあいつに会いに行く予定だったから構わなかったし、カタオカもあと二時間ほどでバイトが終わるから、もしよければ待っててくれということだった。面倒だったら帰ってくれてもいいと言われたが、あいつをなでて二時間ほど待つのも悪くないなと思った。

 そして、カタオカは、とても話しやすい人間だと思った。

 話し続けることがコミュニケーションの必須要素だと思っていたけれど、カタオカを見ていてそれは過ちだと気づいた。

 たぶん、大切なのは聞く技術だ。

 私の投げた話題を膨らませて返してくれるカタオカは、私の話をちゃんと聞いてくれている。だから、どう膨らませば話の本筋をそれずに盛り上がる会話ができるのかを理解している。頭でわかってもこれができないから会話は難しいのだけれど、カタオカは難なくそれをやってのけた。

 私のような人間と話すのはそれなりに大変だと思うのだが、そんなことはおくびにも出さずに私と会話を続けている。

 それでも気になったので、何故私に話しかけたのか聞いてみた。

 カタオカ曰く


「サガミさんと話してみたかったんだ。どんな人か、全然わかんなかったから知りたくて」


 とのことだった。 

 私のような存在にも好奇心が沸いてくるなんて、カタオカの日常はよほどつまらないのだろうか。円周率の八十七桁目の数字ですら興味津々で調べだしてしまうほど好奇心旺盛なのだろうか。

 そう試しに言ってみたら、カタオカは目に涙を浮かべるほどに笑い転げていた。

 私が言えたことではないのだろうが、おかしなやつだと思った。

 なにより家族以外の人間と話して楽しい気分になったのは、初めての経験だったかもしれない。


 ――だから、私は来客に対する反応が少し遅れてしまったんだ。


 ピロロン、という機械音とともに開かれた自動ドアから、人影が入店してくる。

 一拍遅れてカタオカが振り返る。

 私も目を向けると、そこには私と同じ制服に身を包んだ女子が立っていた。


「いらっしゃいま……せぇー」


 私はその子の名前が分からなかったけれど、カタオカは私が入店した時と同じ、少しおかしなあいさつで迎え入れた。

 つまり、カタオカの知り合い。制服からしても私の同級生である可能性が高かった。

 なんとなく、私はその場をそそくさと離れた。この場をあまり見られてはいけない気がした。

 カタオカは離れる私を傍目に見て、止めようとはしなかった。

 心の中で感謝を述べて、歩きながらさり気なく魚肉ソーセージを手に取る。

 その時、ちょうどカタオカの声が響いた。


「コバヤカワさん、いらっしゃい」


「こんにちは、カタオカくん。さっき話していた人は、同級生?」


「そうそう。なんと、なんとだよ。あのサガミさんと話してたんだぜー。いいだろ」


 おどけるようにカタオカはそう言ったのだけれど、むしろコバヤカワさんは冷ややかな声音で返した。


「そう。知らないわ、興味ないし。……それより、今日は何時までバイトなの?」


「え……ああ、八時まで、だけど……」


「それじゃ、終わったら少し時間もらえない?」


「えーっと……その」


 私は急いでレジへ向かった。

 魚肉ソーセージをレジの上において、カタオカが慌てて駆けてくるのを眺める。

 沈痛な面持ちでバーコードを読み取るカタオカに袋の不要を伝えて、さらに小声で付け加えた。


「いいから、そっちを優先して。私これあげたら帰るから」


 精算を終えたソーセージを指差し、そう告げる。


「……でも」


「いいから。女の子を八時過ぎまで高架下に待たせるなんてプランがハナからどうかしてるの」


「……それも、そうだな。ほんとに、ごめん。今度何か埋め合わせするから」


「それは私じゃなくてあいつにしてあげて」


 あいつ、とはもちろん子猫のことだったのだけれど、いつの間にか背後に立っていたコバヤカワさんはそう聞き取れなかったようだった。

 まっすぐに私を射抜く視線と同じく、真っ黒の髪や姿勢もまっすぐに伸びている。けれど、その顔立ちは整いすぎていて、人工物を想起させた。

 なんというか、不自然なほどに全てがまっすぐで、無理やり型に流し込められて固められた剣のような禍々しさを感じてしまう。

 冷ややかな目つきで私を見て……いや、睨んでいる。

 なぜ私は見知らぬ人に睨まれねばならないのか、面倒事に巻き込まれたくもなかったので、私はそそくさと前を横切って自動ドアへ向かう。

 ちらと顔を盗み見たけれど、やはり見覚えのない顔だった。

 自動ドアをくぐって外に出た後も、私は振り返れなかった。

 もう大通りに出たあとも背中に視線を感じていたのは、きっと気のせいじゃない。


「なぁーご」

 どうした、お前。みたいなふてぶてしい顔を向ける高架下の主に手土産を奉納する。

 またもや無言でかぶりつく子猫をなでながら、隣に座り込む。

 今日は昨日よりも気温が低いせいか、お尻がすぐに冷たくなった。身体が冷える。

 そういえば、もう日が暮れかけているんだった。

「うまいか?」

 応答はない。

 けれどその方が今の私には丁度良い。人間を相手取って会話すると沈黙が気になるけれど、こうして動物と会話することはストレスがかからないくていい。

 そもそも沈黙がデフォルトのようなものだ。意味のないことを口走って、沈黙に恐れて、うつむく必要のない会話。なんとすばらしいことか。


「今日はな、もう一つお土産があるんだぞー」


「なっ、にゃぁっ」


「ふはは、そう焦るな焦るな」


「むにゃぁぁ」


「ほうら、牛乳だぞう。ごちそうだなー、おまえー」


「なぁぁぁご」


 言いながら撫で回してやると、されるがままといった様子でゴロンと寝転がってしまった。

 喜んでいるようにも聞こえる鳴き声は、確実に私と会話している。本気でそんな風に思えてきた。

 高架下の暗がりで段ボールに向かって話しかけている今の私は、通報されてもおかしくない不審っぷりだろう。

 おまけに頬は緩みっぱなしだし、声もいつもより少し高い。

 ソーセージを食べ終えたタイミングを見計らって、牛乳の口を開けた。

 そうして、気づく。


「このままじゃ、あげられないね」


「んにゃぁぁあ」


 なにしてんだ、お前。みたいな非難の声を上げられてしまった。

 今回ばかりは私のミスだ。

 牛乳パックそのままでどうやって飲ませようと思っていたのだろう。このあたりに皿になるものもないし、もう一度コンビニへ戻り皿を買ってこなくてはならない。


「ごめん、ちょっと、すぐ戻ってくるから」


「んにゃ」


 うっす。みたいな声を上げて寝転んだ主を見届けて、私は元来た道を全力で駆けた。

 日は暮れて、すでに建物や道路は黒に染まっている。

 まだ冬のなので日が暮れると冷え込む。

 走るほどに指先が冷えていき、肺を刺すような冷気が体力を奪っていく。一人の女子高生とすれ違ったとき、不意に足がもつれた。

 二日連続の全力疾走が原因になったのか分からないけれど、小さな段差に躓いたらしい。そのまま受け身も取れずに前へ倒れ込んだ。

 膝と手のひらから血が流れている。

 痛いというよりも、懐かしいと思った。

 外で走り回って転んだ記憶は、全くと言っていいほどなかった。

 だから、いつの記憶を引っ張り出して懐かしいと言ってるのかは分からなかったけれど、先程まで自分の中に流れていた深紅の液体を眺めて、そう思った。

 なんだか一気に若返った気がして、幼い子供のようにまた走った。

 アドレナリンが出ているのかもしれない。

 すでに痛みは引いていて、今はなんだか無性に走りたかった。あいつに牛乳を飲ませることが、こんなに楽しみに思えるなんて。

 ほどなくして到着したコンビニに入ると、カタオカがぎょっとした表情でこちらに駆け寄ってきた。

 相変わらずお客さんはいないらしい。アルバイトもカタオカ一人だけらしく、このお店は儲かっていないのかな、なんてどうでもいいことが気にかかった。

 カタオカが詰め寄ってきて、言う。


「おいおいサガミ! その傷……ばんそうこう買わないと……あ、でもその前に消毒……」


 今度はカタオカがあたふたしている。

 私は意識して落ち着いた声を出した。


「大丈夫だよ、このくらい。それより、お皿を買いに来たの」


「……お皿? どうしてまた」


「昨日牛乳を買って行ったでしょ? でも、紙パックのままだとあいつ飲めないなって気付いて、それで走って買いにきたの」


 そこまで告げると、カタオカは先程までのエクボが印象的な表情に戻った。


「…………それで、焦りすぎて転んだ、と」


「ふふ、当たり」


 カタオカはまた涙を流して笑った。

 よく笑う人だな、と思う。

 けれど、カタオカという人間の魅力はそういう喜怒哀楽がはっきりしているところなんじゃないかと思う。私は彼のことをまだ全然知らないけれど、そう思う。きっと私がそうなれないから、羨ましいと思っている部分があるのかもしれない。

 人は自分が手にできないものを羨ましいと思ってしまう。妬ましいと思ってしまう。そこで拍手を送れる人間に、私はなりたいと思っている。


 そういえば、先ほどまでいた人物の姿が見えない。

 気になって、訊ねた。


「コバヤカワさんは? もう帰ったの?」


 先ほどの口ぶりからして、カタオカのバイトが終わるまでコンビニで待っているのかと思ったけれど。イートインのスペースにもだれもいないようだし、どこかへ行って時間を潰しているのだろうか?

 カタオカは困惑したような表情を浮かべて、それがさ、と口を開いた。


「あの後、しつこく聞かれたんだよ。サガミが言ってた『あいつ』って誰のこと? 私? って」


「あれは本当にごめん、誤解させちゃったよね、きっと」


 もっと背後にも気を配るべきだった。

 久しぶりに他人と会話したから、少し浮ついていたのかもしれない。


「そうなんだ。だから、言いたくなかったけど、コバヤカワさんじゃなくて子猫のことなんだって話したんだよ。高架下に最近捨てられてる子猫のことだって。そうしたら、すっと無表情になって、俺も何も言えなかったんだけど……――」


 カタオカはそこで言葉を切った。

 私が「それで?」と先を促して、やっと口を開く。


「突然…………その、文具コーナーに行って、カ、カッターを……」


「カッター? どうして、急にそんなもの…………」


 そこまで考えて、私はある結論に至った。

 とても確率の高い最悪の推論。

 同時に、ひどく現実離れしている最悪な推論。

 昨日、子猫に会うまでの私なら、迷わずその最悪の推論を信じていただろう。

 実際に昨日の私は”魚肉ソーセージと牛乳ジャンキーのイカれた女子高生”にも見紛う立ち居振る舞いで買い物を済ませ、あいつの元へ駆けた。

 私はずっと世界を信じてなどいなかったから、いつだって世の中の物事は私を苦しめる方向へ動くのだと認識していた。


”もし、この数瞬の差で、もしあの子猫が餓死してしまったら?”

”もし、いたずらで不良どもに襲われて、万が一殺されてしまったら?”

”もし、車が事故を起こして歩道へ突っ込んだ先に薄汚れた段ボールがあったら?”

”もし、もし、もし……。”

 

 そんな最悪の推論が現実に起こった時のことを考えて、私は居ても立っても居られなくなったのだ。

 けれど、昨日見たあいつのふてぶてしい顔と、懸命に生きようとする姿。

 私の認識は変えられてしまっていた。

 世界は美しいのだと、思ってしまっていた。

 だから、カタオカが心配そうな顔をしていることだって、些末な出来事なんだって、思ってしまった。

 浮ついていると言われれば、そうなのかも知れなかった。

 耳触りがいいだけだと分かっていながら、私は心の上澄みから言葉をすくって、こぼした。


「大丈夫。きっと勉強かなにかで使うんだよ。コバヤカワさん、なんか勉強できそうな雰囲気だったし、新聞の切り抜き、とか?」


「……コバヤカワさん、買っていかなかったんだ」


 意味の分からない言葉が発せられたので、理解に苦しんだ。

 カタオカの言葉が冗談でないことは、切迫した表情から伝わってきた。私は上澄みの言葉を吐いたことを後悔した。


「じゃあ、万引きでもしたって?」


 最悪の想定を口にした。否定されるべき言葉は否定されないまま、カタオカは黙って頷く。

 声のトーンを落として、神妙な面持ちで口を開いた。


「……文具売り場をうろついてて、気づいたら、ドアの向こうに消えて行くコバヤカワさんの背中が見えたんだ。文具コーナーに、破かれたカッターの包装が捨てられてた」


 うつむいて、続ける。


「最近、よくコバヤカワさんが店に来るんだ。俺がシフトの日に限って、終わりの時間帯を見計らって」


 ぞくり、とした。

 圧倒的な、悪い予感。

 目の届かないところで、何かが進んでしまっているような、言い表せない不安感が私の脳を埋め尽くした。


 ――――真っ赤に染まった、段ボール。


 かぶりを振る。イメージを吹き飛ばす。あるわけがない。そんなこと。

 そう言い聞かせるけれど、ふてぶてしいあいつの顔をイメージするたび、なんだか上手く想像できなくなっていった。

 上澄みも澱みもかなぐり捨てて、私は身を翻していた。


「カタオカ、私戻る」


「え、ちょ、おい!」


 振り向かないまま、私は夜の闇に飛び出した。

 この不安感は、きっと夜のせいだ。

 そう、夜だから。こんなに悪いことばかりを想像してしまうんだ。

 この夜闇のように冷たいコバヤカワさんの視線を思い出す。

 彼女のピンとのびた姿勢や、視線、黒髪…………え?

 ひとつ、この最悪な推論を固める要素を思い出す。

 人通りの少ない旧国道。客の少ないコンビニエンスストア。カタオカ。私。子猫。私が転んだ時にすれ違った女子高生。

 あの子、スカート丈も、背格好も、色合いも。

 

 コバヤカワさんに、そっくりだった。


 まずい、まずい、まずい。

 脳内がアラートを発し続けている。

 こんなことが、本当に起こるものか。

 事実は小説より奇なりなんて言葉、信じていなかった。いつだって小説のほうが刺激的で残虐で、最後には救いがあったんだ。

 でも、この世界で、小説のようなことが怒ってしまったとしたら、きっと救いなんて訪れないままだ。

 私はさらに息を切らせて走った。

 途右足首を捻ったけれど、転ばないように無理やり体重を移動して持ち直した。

 くるぶしが腫れて、一歩踏み出すだけで激痛が走る。

 先程転倒した時の傷がどれほど生易しいものだったのかを思い知る。

 歯を食いしばって走り続け、ついに見慣れた高架下へたどり着いた。

 息を整えることすらせず、一心不乱に段ボールへと近づく。覗き込む。


「ちょっと、無事!?」


「…………」


 いた。そこに、まだ子猫はいた。

 声こそ聞こえないが、どうやら丸まって寝ているらしい。

 私は胸を撫で下ろしてその場にへたり込み、遅れて激痛が走りだした右足を抱えた。

 声が出ないほどの痛みの波を耐えること数分、ようやく少しずつ痛みが引いてきた。

 そう言えば、お皿を貰ってくるのを忘れていた。これじゃあ骨折り損のくたびれ儲けじゃないか。

 まあでも、本当に骨が折れていたら、そのときは笑い話になるかもしれない。

 呼吸も整ったので、改めて主を眺める。

 とりあえず、生きていてくれてよかっ――――


 違和感。


 声を上げないどころか、息をする音が聞こえない。

 眠っているにしても、上下するはずの身体が身動きひとつとらない。

 頭が真っ白になる。

 体毛に触れると、冷気よりもヒヤリと冷たい温度が指先に伝わる。

 頭部から背中にかけて指を移動させると、途中、どろりとしたものが指に付着した。

 指を離し、顔に近づける。


 まっ赤。


 暗闇の中でもわかる、これは血液だ。

 どろりと生臭い香りが鼻につく。

 私のひざや手のひらから流れているものより粘っこい液体が、指先に絡まる。視界が滲んだ。

 子猫の小さな口元に手をやるが、反応はない。

 かかるはずの寝息が指先にかからない。

 目をうつろに開いたまま、口を開けて横たわっている物体は、先ほどまで「猫」としてこの世界に存在していたのに。

 両手を段ボールの中にそっと差し込み、抱き上げる。

 ぼろい毛布は大量の血液を吸って真っ赤に染まり、車が通るたびにヘッドライトが私と死体を照らす。

 太ももの上に背中を乗せて、ゆっくりと身体を反転させる。

 お腹の真ん中あたりに深々と何かが突き刺さっているのが見えた。

 カッターの刃だった。

 銀色に光る鋭い刃が、無遠慮に柔らかいお腹の体毛が少ない部分を抉っている。

 三か所ほど同じように、腹側を狙って刃が刺さっていた。

 おそらく、一度刺すごとに刃を折り、三度目で残った長い刃の深さ全てで子猫の身体を貫いたのだろう。

 驚くほどに軽い身体を抱いて、しかし私は涙が流れない自分に驚いていた。

 いつの間にか、納得していた。この世界で起こりうる最悪が、一つ起こっただけなのだと、納得してしまっていた。

 悲しくないわけではない。けれど、この悲しさを誰しもが内包して生きている。

 そういう世界なのだと、私はずっと理解して生きてきていたのだと、思い出した。


 昨日、この子を撫でながら見た世界は、美しかったけれど。

 今日、この子を抱きながら見る世界は、こんなにも醜いのだと。

 世界はそれほどに残酷なのだと分かっていたから、私は小説の世界に逃げ込んだのだった。救いの訪れる小説の世界に。

 なのに今私は猛烈に悲しんでいる。怒りを抱いている。

 どうしても、殺したい人間がいる。

 この世界に干渉したくなっている。救いのない世界に、自己満足的な救いをもたらしたくて仕方がない。

 背後に誰かが立った。高架下に反響する足音を追うように、振り返る。

 いつからいたのだろう。

 コバヤカワさんが、そこにいた。相変わらず、まっすぐな姿勢で。


「ああ、サガミ、さん?」


「……ねえ、あなた……あなたが、したの?」


「さあ、私は何も。今来たところだから」


「…………そう。そうなの」


「ええ、そうなの」


 愉快そうにコバヤカワがそう言った言葉すら、もう私の耳には届かない。

 届いているけれど、シャットアウトしている。

 そう。ここは小説の世界。物語の中だから、意識なんていらない。

 足元に転がる汚い猫の死体に突き刺さっている刃を手でつかみ、一気に引き抜く。

 空気の抜けるような音とともに血が噴き出した。猫の身体がだらんと正反対に折れ曲がる。

 はは、猫は身体が柔らかいって、本当だったんだ。


「……あ、あなた、何をしているの? 血が……」


「……血?」


 コバヤカワが指さしているのは、私の右手だ。

 今日は転んだり捻ったりして満身創痍だけれど、比べ物にならないほどに深い傷が親指と人差し指の間に深々とついていた。

 刃を引き抜くときに切り裂いたのだろう。ピンク色の肉が裂けて、とめどなく血があふれている。

 止まらないや、これ。

 もともとカッターに付着していた汚い猫の血と、私の血が混ざって、銀色だった刃が真っ赤に染まっている。いや、もうどす黒いか。

 けどどうでもいい、そんな細かいこと。

 いつか読んだ小説を思い出す。包丁で人間を刺し殺すときには、普段使う方向で持ってはいけないのだそう。殺傷能力が下がってしまうから。という理由らしいけれど、じゃあどう持つのかと言えば逆さまにして持つのが正解なんだって。刃を上にして峰が下。その方がすっと皮膚を切り裂いて肉まで到達できるらしい。

 カッターも、そうした方がいいのかな? わからない。

 …………そうだ、どっちも試してみればいい。

 そうして、刺さりやすかった方向で、小説を書くんだ。

 事実は小説よりも奇なり。

 だったら、小説の元になる経験は、事実から得なくちゃいけないね。


「ひ、や、こっちに来ないで……ちょっと、警察、呼ぶわよ!」


「ついでに救急車も呼んじゃおうか。あ、霊柩車もあると手間が省けるかもね」


「な、なにを、言って……」


「………………黙れよ」


「――――っがぅ!」


 尻餅をついて後ずさるものだから、上半身が遠い。

 仕方なく一番狙いやすい太ももを一突き。刺した衝撃で私の手も出血したけど、もう痛みを感じなくなってきちゃった。アドレナリンが今日は大活躍。

 なんか叫んでるけど、もう何も聞こえない。ここは小説の中。意識はシャットアウト。

 引き抜いた刃を、今度は横から殴りつけるように二の腕に突き刺す。悲鳴。

 刃から手を離して、ムエタイ選手のようにステップ。コバヤカワはこちらに意識を向けていないから、上手く決まりそう。

 タイミングよく刺さったままの刃に向かって回し蹴りを放つと…………ビンゴ。

 さらに奥までぐさりと刺さって、コバヤカワは静かになった。うれしい。うるさいのは嫌いだから、静かな方がいい。

 なんだか臭いなと思って足元を見たら、コバヤカワのスカートがびしょびしょに濡れていて、街灯が黄色の漏れ出た液体を照らしている。あらら、おしっこを漏らしちゃったみたい。

 あはは、子供みたい、面白い。

 あはは。

 あはは、はは、は、はぁ~あ……。

 つまらない。

 小説だったら、ここでイベントが起こるのに、何も起こらない。

 私にとって嫌なことしか起こらない。

 現実は、つまらない。

 ここが現実だってこと、分かっている。どれほど小説を読んだって、書いたって、この世界からは逃れられないってこと、分かっている。

 でも、こんな、こんなつらいことばかりが起こる世界に生きていくことなんて、私には、もう。


 耐えられない。


 そう、例えばここで三つの命が消えたらどうだろう。

 捨て猫と、女子高生の二人組。なんてドラマチックな組み合わせだろう。

 彼女が猫を殺して、かたき討ちで私が彼女を殺して、最後に絶望した私が死ぬ。最高、最高の話が作れそう!

 うっふふ、さっそく試してみなきゃ。

 二の腕に突き刺さっているカッターの刃を引き抜く。

 かたい。かなり深く刺さっているみたい。

 もっと強く力を入れようとしたその時、私の身体は後ろに倒れ込んだ。

 力を入れすぎて尻餅をついたのかと思ったけど、そうじゃないらしい。気が付くと周囲は騒がしくなっていて、赤いランプがいくつも目に留まる。

 一瞬、彼女が警察と救急車と、霊柩車を呼んだのかと思ったけど、彼女はぐったりして救急車に運ばれて行ってしまったから、誰が呼んだのか事実は分からなかった。

 私は警察の男の人に両手を掴まれる。一瞬私が血だらけなことにびっくりして手を離したけど、今度は少し優しく肩を抱かれて、救急車の中へ連れていかれた。私はおとなしく従った。

 乗り込んでから外を見ると、街灯に照らされてこちらを見つめるカタオカの姿が見えた。バイト先の制服のまま佇むカタオカは、目を白黒させて私を見つめている。

 私は彼に謝りたかった。たぶん、私が気分良くこんなところまで来なければ、あの子は死なずに済んだんだ。カタオカからバイト終わりの癒やしを奪ったのは、紛れもない私。

 ああ、それでも、つい数時間前まで彼と楽しく話していた世界は、本当に美しかったな、なんて。

 私とカタオカが目をあわせたまま、救急車は発進した。右手や関係のない怪我を負っていた膝を応急処置で手当してもらっている間も、私はずっとカタオカを見つめている。

 だんだん離れていって、小さくなっても、カタオカはまだそこに立っていた。

 私はもう、あそこには戻れないだろうなと思った。


 とりあえず私は病院へと搬送され、消毒や包帯といった手当を一通り受けた。そのどれもが大した傷ではないらしく、一日入院して退院する運びとなった。

 むしろ重傷だったのはコバヤカワさんのほうで、傷はそれほど深くなかったが、心傷を負ったとのことで精神的な治療を施されているらしかった。無理もないか、なんて他人事に考えていたのも束の間、すぐさま飛んできた両親によって私は全ての事情を話す羽目になり、この件は少しばかり大事になってしまった。

 といっても私もコバヤカワさんもまだ未成年。更に被害者だと思っていたコバヤカワさんが先に万引きしたカッターで猫を惨殺し、それに対して激昂した私が切りかかったという事実の裏付けが取れたため、むしろ私への責任追及というよりはコバヤカワさんの精神的な問題に焦点が当てられることとなった。

 私はもう学校へ行く気を完全になくしていて、両親も理由を知ってからは何も言わなくなった。通信制の高校へ入り直し、昼間はアルバイトと小説の執筆に時間を費やすようになった。

 アルバイトは社会経験のためにはじめた。

 小説執筆は、父とドライブに出かけた時、この世界との付き合い方を考えて、救いのないものに救いをもたらしたいと思っていると話した際に勧められたのだった。


「世の中はね、救いようのないことでいっぱいだ。お前も経験したろうが、そんな風なことが盛り沢山なんだ。そしてかわりに、奇跡は本当に一握りの人間にしか訪れない。気まぐれだ。けれど人間は愚かだからね、その気まぐれが自分には訪れるはずだと信じて疑わない。パチンコと同じさ。自分には必ず当たりが来ると信じて座り続ける。でも次第に当たらないことが分かってくると、不満がたまる。その不満をそうそうに除去しようとして、人はいろんな行動を取るよね。どんなことをすると思う?」


「さあ、なんだろう。台を叩くとか、席を立つとか、店員に難癖をつけるとか……あと最近の店舗はATMがあるって言うから、お金をおろしたりするんじゃない?」


「その通りだね。不満に対する行動は人によってほんとうに様々だ。この世界には都合の良い救いなんて訪れない。そう理解した時が、本当の生き方を選び取る瞬間なんだ。コバヤカワさんの場合は、カッターだったね」


「カッターを手にとることは、間違いだった?」


「さあな、それは手に取った本人にしか分からないことさ。お前も一度は手に取ったんだろう? どうだった?」


「…………私には合わないかなって、思ったよ。救急車で運ばれていく時、私を見つめる同級生をずっと見ていたんだ。私はその時に気づいてた。ううん、もっと前に気づいていたのかもしれない。私は、この世界にずっと期待しているの。さっき奇跡は気まぐれだって言ったけど、その気まぐれに、賭け続けたいの。ナイフも拳銃も、カッターも、手に取りたくない」


「それじゃあ、お前は、何を手に取る?」


「……ペンを、握りたい。ペンを握って、可能性を綴って、待ち続けたい。事実は小説より奇なりって言葉を、いい意味で使える瞬間を、待ち続けるの」


 父は何も言わなかった。

 ただ、まっすぐ前を見つめてハンドルを握っていた。

 父は一体何を思って小説家になったのだろう。それが、今はとても気になっていた。

 私はこの日から、小説を書き始めた。



 * * *



 執筆にあたり決めていたことはひとつ。脚色はしないということだった。

 オチで猫は生き返らないし、主人公はしっかり法で裁かれるし、カタオカは猫の死体を見て強いショックを受けるし、コバヤカワはPTSDを患うし。

 どこまでも救いのない話を書きたかった。けれど、それでも、私は作家なんだ。

 昔のように、現実と小説の狭間に揺れる少女ではない。揺れてはいけない職業に就いたんだ。

 ノグニさんへのメールを書き終えて、デスクチェアへ体重を預ける。お尻がヒヤリと冷たい。頭を預けると、いつかの日のように頭がクリアになっていく。

 右手を広げて眺める。生々しい傷跡が親指と人差指の間に残っている。指でそっと撫でると、あの日の感触が今でも蘇ってくるようだった。鮮明に思い出せる、あの日の思い出。

 スリープモードのパソコンを操作し、書きかけの原稿に向き合う。

 脚色はしないと決めていたけれど、それでも、私はやはりこう望まずにはいられない。

 過ちを犯した身として、過ちを犯させてしまった身として、小説家として、願わずにはいられない。

 世界に不満を持ち、世界を変えたいと願い、そのときに手に取るものは、どうかナイフや拳銃でないことを。間違っても、カッターの刃でないことを。その怒りの矛先を、なんの罪もない存在に向けないことを。

 願わずには、いられない。


 だから私は、脚色はしないけれども、この小説の語り部として最大限の権力を行使させてもらいたい。

 この小説の中で語られる主人公には、正しい世界との向き合い方を。

 この小説の中で語られる敵対者には、正しい怒りの処理の仕方を。

 この小説の中で語られる優柔不断な存在には、芯の通った生き方がもたらす恩恵の数々を。

 この小説の中で語られる悲惨な運命の被害者には、一生忘れないという誓いを。祈りを。

 それぞれに送り届けることで、この小説は終わらせよう。

 私はタイピング作業に没頭した。


 原稿を終わらせたところで、ちょうどノグニさんから返信があった。彼にしては珍しく、深夜帯に起きている。


【To先生】「参っちゃいますよぉ、お父様に似て突発的な行動が多いんですから。しかし理由はわかりました。気をつけて行ってきてくださいね」


 メールの文面にまで口癖が出るとは、さすがノグニさん。

 ……さて、原稿も仕上げた。もうすぐ日の出だ。コーヒーは冷めたし、もう眠ることにしよう。

 今でも眠る前には、小説を読むことにしている。幼い頃からこの癖は変わらないし、直す気もなかった。

 今日は、久しぶりに自分の小説を読みながら眠りたい気分だ。

 そうだ。今書き上げたばかりの、この小説を読みながら眠ろう。

 あのふてぶてしい高架下の主に、夢の中で会えるならば、これ以上の幸せはない。

 土産には勿論、魚肉ソーセージと牛乳を。

 長い長いお話でした。

 お読み頂きありがとうございます。

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