鎌倉のクリスマス
遠い東の海に浮かぶ日本という島国ではかねてから自然を愛する風潮があった。川のせせらぎや空模様、月の満ち欠けまでもが鑑賞に値するものとして広く愛でられた。ことに彼らは四季の変化にたいそう敏感であり、貴族から庶民にいたるまでもがその巡りゆく季節の内にみえる自然の変化を通して遊興に浸った。だが、一寸注意して今に残された古典を紐解いてみると秋と呼ばれるその季節には一切の絢爛といったものが見当たらない。他の季節には、桜や椿といった花々が彼らの書き留めた和歌のうちに織り込まれているのだが、どうもこの秋という季節にはこれといってそういった花が見受けられない。それもそのはずで、ひとつこの季節に山中を歩いてみてもそういった花は一つも見当たらない。そればかりか、この時期は不思議に侘しい質感を持っていて、命の限りとか人のやましさとかいったものが脳裏をよぎる。そんな時期である。だが、感心な事にその島国に住む人々はそんな秋という季節に紅葉狩りという行事を見出していた。紅葉という字面から分かる様に、思い思いの色に変化した葉の色を楽しみながら、木々の下をぶらりぶらりと歩くというのが相場になっている。この行事が面白いもので、今日ではすっかり自然というものに疎くなってしまった彼らが花見とともに残す唯一の季節行事として残っているのである。
この紅葉というものは昼夜の寒暖差というのがその色合いに大きく関わっているらしく、山間部等ではその名所とされている土地が多くある。そういった中で鎌倉という古都の名を出すといささか疑問に思われるかもしれない。はるか昔に源氏が中心となって立ち上げた鎌倉には今も尚当時の情景を思わせる多くの寺院が点在している。南には由比ヶ浜が、またそれを囲うようにして三方に渡って山々が連なっている。その鎌倉の地にも、時期が来れば、皮肉にも当時敵軍であった平家の赤い旗を思わせる紅葉が町中の至る所を埋め尽くす。だが、その見ごろというのが暦からいう秋から少々ずれていて十二月の中旬から下旬。つまり、世で言うクリスマスの時期に最高の色合いを見せるというのである。
いつの時代にも風変わりな男というものはいるもので、大寒波に見舞われ、いつになく冷え込んだその年のクリスマスの夜にも一人長谷寺に向かう若い男がいた。この男にとって長谷寺に行くことはなにもその日に始まった事では無く、かれこれ半年以上に渡って彼はきまって太陽が陰り始めた頃合いを見計らって寺に出向いている。だが、彼は熱心に毎日参拝をするために、その道のりを通い続けているわけではない。
その男が来るのを待っている女がいるという訳である。
長谷寺は山の裾野に広がる下境内、その中腹に切り開かれた上境内とに分かれていてその女は上境内の端の方にひっそりと建てられた経蔵と呼ばれる書庫の役割を果たす建物の影に隠れんばかりにたたずむようにしていつもその男が来るのを心待ちにしているのである。その女は生まれてこのかた、外の世界を知らない。寺に産まれ、寺で育てられたその女はただの一度も外に出た事がない。一方で男のほうは全くの自由であった。生まれの境遇こそ恵まれていないものの彼は自由気ままに旅をして回っていた。そんな素性も知れぬ男と、寺の女が大っぴらに会うことは許されたものではない。そこで二人は太陽が陰る夜に、それも普段から人目に付きにくい経蔵で会うようにしていたのであった。
閉山の時刻を過ぎた長谷寺には一切の人気というものが無い。出入り口にあたる山門は閉ざされる。その門に覆いかぶさった大きな松がいたずらに重厚な闇を纏っていて、木肌がその闇の中にくっきりと見える様からは樹齢以上の厳格さというものが滲み出ている。男はそういったものものしい神聖さをよそに器用にもその人二人分の丈はあろうかという塀を飛び越えて境内へと入っていく。夜の山中、とりわけ寺院というものにはどこか裏付けの無い恐怖が潜んでいて、その底深さは計り知れない。この男もその恐怖は重々承知していて毎夜毎夜、境内の中をうろつくのにはどことない後ろめたさがあった。千体はあろうかという地蔵や稲荷のご神体はまだ耐えられるのだが、不意に視界に映り込む鷹の影や狸等の獣には、ぐっと両目をつむってしまう。そんな思いをしながら男はこの日もやっとの思いで経蔵へと辿り着くことができた。
「ごめん。いつもより待った?」
「いつもより待ったかしら。そうは思わないけれど」
こう言ったきり、女はそっぽを向いてけげんそうな顔を見せた。だがその顔には、女の態度に困りきった様子の男を伺いながら、微笑を浮かべている様にもみえる。
男のほうも上辺では困り果てているように見せているものの、一介の紅葉などは足元にも及ばない程の紅色に染め上げられた衣を身に着けている女の、そのつれない顔に心底見とれていた。
「そんなことはいいから。はやく約束の話を聞かせて」
「えっと、南の方の島の話だっけ?」
「そうよ、はやくして頂戴」
こんな具合にして、二人のそつない会話は始まる。夜の密会、とりわけ男と女の間柄ではあるが、それ以上の事もそれ以下の事もない。
会話とはいっても話しているのは大半が男のほうで女の方は笑みを浮かべたまま、ただ黙って男の話を興味深く聞き入っている。毎夜毎夜の密会ではあるが不思議と話の種は尽きない。この日は女にせがまれた南の島の話をした。海が遠くまで澄んでいて由比ヶ浜とは比べ物にならないこと、変わった形の花が咲いていること、そして男は毎年冬の寒い時期にその南の島に行っていること。そんな話をしていた。
本当にたわいもない話で、普通の女であれば何の面白味も無い気ままなその内容にうんざりするものである。特にこの男のように何の目的もなしに、ただ時間を過ごすという事だけの旅の話は最も苦手とするだろう。だがこの女は本当に無邪気にその男の話を聞き入っている。真意は定かではない。だが少なくとも世の女が持つ、笑みという仮面を被って聞き流しているのとは訳が違って、柔順でそれでいて盲目的な好奇心に裏支えされた熱い視線を男に送っている。
「それで、あのクリスマスっていうのはなんなの?」
女は唐突にそんなことを口に出した。話の腰を折る気ではない。この女は度々それも何の脈絡もなしに話の話題を変える。彼女の外の世界への好奇心は時折こういう所から見え隠れする。
「まさに今日っていう行事でしょ? 俺もよく分からないんだよね」
「あら、世界中飛び回っていても分からないことってあるのね」
少しいじらしく、女は男を小突いた。
「いや、そうじゃなくてね。場所によってやっていることが違うんだよね。ここみたいに必死になってケーキだとかオモチャだとかを売っている場所もあれば、モミの木を倒して、普段食べもしない七面鳥を焼いて食べるとかいう場所もあるんだよね。」
ここまで聞くと女はキョトンとした顔を浮かべた。知識としてはケーキやモミの木、七面鳥も知っていたが矢継ぎ早に想像の域に過ぎない物の名前が出る時、女はきまってこんな顔をする。さっきまで浮かんでいた柔らかな笑みが、ぎこちなく、どことなく悲壮的な笑みに変わって、それをごまかすように目を大きく見開く。だが女は、すぐにそういった表情を照れ笑いで隠す。
男もその照れ笑いに笑みを返す。
大きな満月が夜空の真上にきた頃合いになると、二人は寝転びながら夜空を見上げた。経蔵が建っているその場所はそこだけ小さな丘になっていて眺めがとてもいい。遠くにあるはずの満月が手の届きそうな位に大きく見えて、夜空に散らばった星の微かな光も燦爛としていて眩い。そういう星空の景色が由比ヶ浜の海に映っている。瞬間の鏡像は波しぶきと潮騒とがあわさる拍子に崩れ、また映っては波に崩される。そんな海の夜空を二人はしばらく眺めていた。
「寒いと、変に眠くなるよね」
事実、男は眠かった。だが真意は自分以上に眠そうにしている女への軽い意地悪である。
「そうかしら、私は眠くないわ」
「眠くなくとも、寝息はたつんだな」
「寝息なんか、たててないわ」
こういうと女は男の服の裾に顔を押し付けて眠そうな素振りをみせた。そうして女はそのまま眠ってしまった。
男に寄り添うように眠ってしまった女のその寝顔からは起きている時のこの女の独特の取り繕いも、素振りも、その一切が取り去らわれていて、異様に美しくみえる。男はそんな女の寝顔を見つめた。すると、不思議とその女が小さくみえてきて、本当に小さな、それでいて輝いている、星屑のようにみえてきて男は急に寂しくなって女を強く抱きしめた。それでも女は眠っている。そんな女に溶け込むようにして男もまた眠りについた。
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クリスマスの開けた翌早朝、長谷寺の小僧達は新年に向けて観音山の隅々まで大掃除を始めた。一人の小僧が経蔵の脇に植えられたモミジの辺りを掃いていると一匹の燕の死骸を見つけた。よく見てみるとそのくちばしには一枚のモミジの、それも際立って紅く染まって、それでいて小さくて形も良い本当に美しい葉をくわえている。それを見つけた小僧は一度は本堂の方に戻ってその妙な燕の死骸について報告しようとも思ったが、結局は面倒になって手に持っていた竹ぼうきで側溝の方へとその死骸を掃いたのであった。