前編
明けの明星が空に見えた。
澄んだ空気の冷えた朝、駅のホームをふらふら歩きながらぼんやり見上げる。
徹夜明けの朝帰り。それも休日出勤。トラブルで呼び出されて、だから帰れば今日は代休だ。
はやくあたたかい布団にもぐり込みたい。
ぐっすり気の済むまで寝たい。
もう体力的に徹夜とか無理が過ぎる。アラサーって悲しい。
気を抜くとくっつきそうな目蓋を必死に開けて、改札を抜けて、そして。
そして。
目が覚めると知らない場所だった。
――――――
カムルは珍しく入った隣街への配達の仕事を終えて、星影の明るい街道を歩いていた。
仕事が早く終わったと思えば狙ったかのように飛び込んだ面倒な仕事を回されて、おかげで夕飯もまだだった。
空腹と相まって不貞腐れた気持ちで家路を辿る。
ふと気配を感じて夜空を見上げると、一際明るい流星――火球が流れていた。
それはぐんぐんと駆けていき、ゆっくりと、けれど僅かな間で姿を消す。
驚いて目を奪われたまま見届けて、消えた火球の行き先を見るように視線を先に戻すと、街道の脇の草はらに、横たわる女の姿があった。
慌てて駆け寄ると、青白い顔をして気を失っているらしい女は、見覚えのあるような黒髪と顔だちをしていた。
見たところ外傷はないため、声だけで呼びかける。
「おい、おいあんた」
「んー…」
ぴくりと反応して、ゆっくり目蓋が開く。
ぼうっとした顔でしばらくカムルを見つめる。
「あんた、大丈夫か」
黒い瞳にやはり既視感を覚えながら、声をかける。
寝転んだまま視線をさ迷わせて、女はようやく口を開いた。
「…ここ、どこ?」
これはたぶん夢だなあ。
目が覚めたら知らない場所、しかも屋外で、ちょっと好みな兄さんに起こされるとか。
そうか夢かと割りきって、具合が悪いなら医者を呼んでくると言ってくれる兄さんにダイジョブーと返して、欠伸をする。
夢の中なのにまだ眠いってどういうことだ。
「ねむい」
思ったまま口に出したら茶髪の兄さんは呆れたようだった。
「こんなとこで女が寝るなよ」
「そんなこと言われてもなあ」
自分の意思じゃないし、夢だしなあ。
起き上がろうともしない私にちょっとだけ眉をひそめて、兄さんが尋ねてくる。
「あんた、どっから来た?」
「えー…出身は埼玉と書いて東京だけど…ジャパン?」
あー、二度寝しそう。したい。夢の中で寝るのって二度寝っていうか三度寝なのかなあ。
適当に答える私に、兄さんはまさかと思うけど、と呟きながらごそごそと懐から紙を取り出して差し出してきた。
何かと薄目でそれを見ると地図っぽかった。けど、見たことない字が書いてあって、ファンタジーだなあ。自分の想像力すごいじゃん。
「あんたこの字読めるか?」
「読めなーい」
まさかかよ、と額を抑えた兄さんを尻目に、寝る態勢に入る。眠い。
「おい寝るなバカ」
「…バカっていう方がバーカ」
むにゃむにゃ返したら、でっかいため息が聞こえた。
もう一度目を覚ましても、まだ夢の中だった。
見知らぬ天井に焦って起き上がると、一軒家の部屋らしかった。
「起きたか」
茶髪の兄さんがいるのを見て、 ずいぶんよく寝てすっきりしているのにまだ夢の中かと不思議に思う。
ぎゅるるとお腹が悲しげに鳴いた。
「朝飯食ったらちょっと一緒に出かけるぞ」
暖めたパンとスープの良い香りがして、首を傾げながら頬をつねってみた。
……痛い。
朝ごはんは美味しかった。
カムルと名乗った兄さんに連れられて病院らしい所に行き、おじいちゃん先生に診察される。
「身体は特に問題なさそうだが」
「字が読めなくて、どっから来たかわからないんだよ」
カムルさんの言葉におじいちゃんが私の顔を眺める。
「それは…アカリと関係があるのか」
頷くカムルさんからして、二人は何か共通認識があるみたいだけど、何のことやらわからない。アカリって誰?
「シホ、あんたアカリのこと知ってるか」
「いやあ、知り合いにはいないかな…」
じわじわと、これ、現実なのかもって気がし始めていた。
足元が覚束ない感覚がそろそろと近寄ってくるのを気づかない振りする。
「あとでアカリに会わせるから」
カムルさんはひとまず仕事があるらしかった。
病院に預けられて、ついでだからしっかり検査するかといろいろ診てもらい、健康診断みたいになる。結果、運動不足と言われた。
デスクワーカーなんだよ仕方ないじゃんうるさいなー!どうせババアだよ!
夕方、戻ってきたカムルさんは縄跳びをして汗を流している私とおじいちゃん先生を見てぎょっとしていた。
久しぶりにいい汗かいたよね。明日…明後日筋肉痛になりそうだけど。何かを紛らわせるには運動に限るね。
連れていかれたのは小さな一軒家だった。
「シズイー、いるか?」
呼び鈴を鳴らして扉をノックする。
「カムル?今日は早い…」
扉を開けて顔を出したのは榛色の髪の兄さんだった。カムルさんの隣に立った私を見て驚いている。
「え、…彼女?」
「ちげーよ。今日は食堂休みだろ。アカリはまだ帰ってないか」
「ああ、これから迎えに行くとこ」
「んじゃ留守番してるからさっさと行ってこい」
入れ替わりで出ていったシズイさんを見送って、カムルさんは勝手知ったる様子で中に入ると食卓の椅子に座る。
視線で促されてあとに続いて私も向かい側の席につく。
「アカリはシズイの嫁だよ」
視線をこちらに向けずに言ったカムルさんに、何かひっかかった。
「私となんか関係があるんですか?」
「たぶんな。会ってみればわかると思うけど」
ちょっとだけ無言の時間があった。
「…まあ別に、そんな不安がんなくていいから」
そんな顔に出したつもりなかったんだけどな、敏い人だな。
とりあえず笑っておく。
程なくして帰って来たシズイさんとその奥さんのアカリさんを見て、ああ、と納得する。
「はじめまして」
お辞儀して挨拶すると自然にアカリさんはお辞儀を返してくれる。
日本人だ。ちょっと年下かなあ。
「はじめまして、明里です」
「あ、志歩です。鎌倉志歩」
カムルさんには言わなかった苗字も名乗る。相手が名前しか名乗らなかったからだけど、日本人なら分かるだろうし。
「志歩さん。あの、説明したいんですけど、その」
言い淀む明里さんに、カムルさんが口を挟む。
「やっぱりアカリと関係があんのか」
「あー、うん、えっと、同郷です」
急にこの場所へ来たこと、どうやって来たのかわからないこと、文字が読めないこと。
明里も同じなのだった。
話しにくいから二人だけにしてほしいと男たちを退室させて、明里は気まずげに事実を告げた。
「私たちは、たぶん向こうで…死んでるんです。少なくとも、私はその記憶があります」
向かい合ったテーブルの真ん中に沈黙が落ちる。
何と言えばいいかわからない志歩に、明里が焦りながら続ける。
「あの、だからその、受け入れるのは難しいかもしれないけど」
人が慌てると逆に落ち着けるのはなんでだろう。
「あ、や、大丈夫大丈夫。なんとなくわかったし、覚えてるもん。そんな深刻な顔しないで平気平気」
そう、最後の記憶は覚えている。駅で、階段の上から落ちたのだ。頭を打って、気を失って―――。
死んじゃったのかあ。
「なんで、ここにいるんだろうね」
ぽつりと呟くように漏らすと、明里は弱々しく眉尻を下げて笑った。
「わかりません…。神様の慈悲なのか、気まぐれなのか。いるかどうかもわかりませんけど」
考えても仕方ない。そういうことなんだろう。
私たちはここにいて、死んだ続きで生きている。
お腹も空くし、眠くなる。
嬉しいも悲しいも感じられるし、不安だとかわけわかんなくてむかつくだって感じる。
ぐう、と腹の虫が鳴いた。
「お腹空いたね」
ふっと力が抜けた。
深刻は長続きしない。
「もう晩御飯の時間ですね」
明里も気の抜けた顔で笑って答えた。
窓の向こうの空はもう暗くなっている。
待ちぼうけの男二人が庭先にしゃがみこんで駄弁っているのが見えた。外に出ててと言ったが、そんなところで待っていなくても良かったのに、すぐ戻ってきたかったらしい。
顔を見合わせて笑い合う。
なぜこの場所にいるのかはわからないけれど。今ここに私たちはいるから、おもしろいも楽しいも、感じるのだ。