亡国の種
「その首に、島の吐く瑞々しい怨嗟の息遣いを感じるよ。」
粗悪な白刃が鈍い線を描くと、首は重々しく床に伏した。束の間、喧騒甚だしかった老舗の酒場に、静謐の時間が訪れる。不器量な給仕女の金切り声が、静謐の一瞬をたちまちに掻き消す。流々と室内に広まっていく血と悪臭は、客たちの酔いを醒まし、地獄につき落とした。或る者は出口に向かって半狂乱で駆けていき、或る者は両手をついて、汚らしく吐瀉物を撒き散らす。
阿鼻叫喚の渦中、首魁の男は頬を濡らす血を袖で拭うと、悠然と酒場を後にした。
「今まで豚の首は無数に落としてきたが、
人の首は余分な肉が少なくて呆気ないね。」
酒場の外で待っていた仲間たちのこわばった顔が、一様に緩む。男のただ一つの美徳は、底知れない屈託の無さである。島の若い男は、その開けっ広げの胸襟に大侠客の風を感じ、彼の許に集った。
仲間の足元には、精悍な男たちが声もなく、地面に突っ伏していた。彼らは、酒場で殺された男の護衛であり、主人の帰りを外で忠実に待っていた。手酷くやられたのだろう。血だらけの顔面は紫に腫れあがり、折れた歯は地面に散乱していた。
「初めて人を斬ったかと思えば、涼しい顔で軽口を叩く。ここに倒れている腰巾着も、ついでに殺そうか。」
一際たくましく、使い古されたオーク樽のような巨漢が喧声をあげて、猛禽に似たぎょろ目を光らせる。野放図に生えた無精髭は、麦酒でしとど濡れていた。
「これから殺到してくる憲兵は、お前の蛮勇を待ってくれないぜ。長官の息子を殺した以上、苛烈な逃亡劇だろうな、泰円。」 男は笑いながら、彼の髭を乱暴に引き抜く。手放すと、冷たい島風が髭を北へと運んでいった。
「ここからは散り散りで、次の号令を隠れて待て。俺たちは、島の冷え切ったその体温を取り戻すぞ。」
そう言い終えると、男は仲間を置き去りに、喧騒と半狂乱の悲鳴が支配する盛り場を逃げ去っていった。延嘉六年冬のことである。
始祖・衛応が四海を制してより三百余年、国家の気血は尽きかけていた。玉座には遊興にふける暗愚な帝が鎮座し、宮中では佞臣の甘言が飛び交う。売位売官の風潮は地方まで蔓延し、民草は貪官汚吏の重税にあえぎ、市井には群盗・淫祠邪教がわく。無論、国を憂う清廉の士大夫もいたが、先帝の時分に行われた大粛清によって、その殆んどが誅殺された。生き残った者は野に下って、厭世の隠者となり、代わりに、腐敗した中央とつながる曲学阿世の徒が跋扈した。
延嘉四年の中秋、都の樂頴から百二十里ほど南に離れた丹越のことである。丹越はかつて、大氾濫が夏ごとに起きる水害不毛の地であった。しかし、略宗帝の頃に大規模な治水政策が行われて、国内有数の穀倉地帯に成長していく。当時の農相・印建によって開発された、春から秋にかけて稲が収穫し、冬になると小麦を植えるという農法も、丹越の飛躍的な生産高に貢献した。宮廷歌人の易静は、この豊穣の地を以下のように詠んだ。
托江(丹越に流れる河)流れる丹越の黄土
農聖(印建)の子百万の蒔く種久しく
黄金の歌う治世の祝詞
幾星霜を刻む
豊作の年だった。田畑には豊かに実った稲穂が頭を垂れ、男たちは黙々とそれを刈っていく。収穫された稲は、穀倉からだらしなく溢れて、丹越の民を祝った。付け加えると、田畑を持つ丹越の民を祝った。
この国には、二種類の農民がいる。ひとりは土地を持つ典農、もう一人はその土地を耕す労農である。両者の間には、明らかな主従関係が存在した。典農は労農を生産手段として所有し、労農は労働の見返りに、住居と食、僅かの賃金を典農から与えられる。法に照らせば、彼らの身分に上下は存在しない。しかし、労農の実態は、牛馬と同じように使役、売買される農具である。この性格は、丹越のような穀倉地帯では特に色濃く見られ、差別感情や迫害と結びつくのが常だった。
男は王康という。労農だった。労農の両親から生まれ、物心をつく歳には、両親と共に典農の何家の土地を耕していた。身の丈こそ小柄であったが、厳しい農作業によって培われた彼の両腕は女性の腰ほどあり、その足腰は農耕馬だった。
「この量なら、今年の報酬は破格だな、王康。」
崔喚は泥に塗れた手で、額の汗を拭う。彼も何家の労農で、王康とは幼い頃からの知己である。崔喚は王康の朴訥な性格に惹かれ、口数の少なさから軋轢が多かった彼の緩衝の役目を果たしてきた。
「ああ。」
王康は刈り取った稲を籠に入れながら、素っ気なく返事をする。何家の田畑は、丹越でも有数の大きさだった。これを全て刈り取り、穀倉に運ぶのは骨が折れる。
「お前の仕事ぶりは、何家の労農なら誰もが知っている。知らないのは、主人の何旦だけだ。」
崔喚は籠を放って、あぜ道に寝転んだ。昨晩の雨で冷たく柔らかな泥土は、労働の火照りと疲労した身体を気持ちよく包む。
「こっちに来い。お前が刈らなくても、誰かが刈る。」
「ああ。」
王康は崔喚の隣に来ると、そのままあぜ道に屹立した。
心地よい不器用さだ。直立して畑をただ直視する王康をみて、崔喚は口元が緩んだ。労農がいかに精励恪勤を尽そうと、それを評価する者はいない。彼らに求められているものは、典農が定めた期日を守ることであり、求めるものは生きる場所であり、生きる糧である。典農にとって、労農は労農であり、労農にとっても、労農は労農だ。しかし、この朴訥実直な男は、ただ耕し、ただ植え、ただ刈り取る。その姿に余裕も虚飾も嘆きもない。
労農が耕し刈り取るものは、一年限りの稲と麦だ。しかし、王康が耕し刈り取っているものは、終わりのない丹越の大地ではないか。
崔喚は蒙昧で無駄と分かっていながら、自らに問わずにはいられなかった。
「雲行きが怪しい、残りを刈り取ろう。」
王康の無骨な声が、崔喚を不毛の宇宙から呼び戻す。暗く長い雲は、南から近づいていた。
「ああ、王康。」