1話 ファーストソング
春は嫌いだ。
新しいもの、知らないものに酷く脆い俺は、目まぐるしく入れ替わっていく目の前の現実について行けないから。
世間一般に根付く満開の桜や出会いや別れと言った煌びやかな春のイメージもまた、過剰な自意識を刺激し、俺を疲れさせた。
そのせいか、毎年この時期は体調が優れない。
冬の終わりから始まり、今やすっかり身体の一部となった偏頭痛に悩まされ、睡眠不足の日々が続いている。
そんな事情もあいまって、元々のサボり癖は悪化の一途を辿り、今や他クラスにまで噂される遅刻の常習犯だ。
そして、今日も大幅に始業時間をすぎている。
毎日が予定調和のようで退屈だった。
途中参加で学生生活を送り、帰って、バイトして、寝る。
答えのない灰色にボヤけた毎日。少しずつ、だけど確実にじわじわと心を圧迫する現実が、冷たくて硬い鎖のように絡まり、無限に続いていく。
今日だって何も変わらない。
ただひとつ、ずっしりと背中に感じる重み以外は。
最近めっきり始業時間に間に合う事が珍しくなった俺だが、途中から教室に入りクラスメイトの嫌な感じに白い視線を一挙に集めるのは未だに慣れない。
そのため今日も休み時間中に到着できるよう学校と駅の間の少し外れた場所に位置する神社でボーッと時間を潰してから登校しようと考えた。
コンビニであんぱんとコーラを買い、都会の中にありながら緑に溢れ、独特な静寂を纏うお気に入りの場所、大山神社の太い敷居を跨いだ。
朝から少し小雨が降っていたのでいつもの石段の木陰になっている場所に腰を下ろす。
早々にあんぱんを食べ終わりコーラで喉を潤すと手持ち無沙汰になったので、今朝近所のゴミ置き場で拾ってから背中に担いできた慣れない荷物に手を伸ばす。
黒いアクリル製のケースのチャックを開け、取り出す。朝に一度見たボロいエレキギターが顔を出した。
雨の中剥き出しで放置されていたので、まだ少し濡れている。
今考えるとケースが横に置いてあったのが謎だ。
軽く拭いてからじっくりと見てみる。
えんじ色のボディにいくつか大きな傷が付いていて、塗装がはげていた。
その傷の中でも1番目立つ場所にある傷が稲妻のような形をしている。
弦の近くにあるプラスチックの部分が海の貝殻みたいで綺麗だった。
一通り目を通してから膝に置いてみた。
左手で適当に弦を抑え、構えてみる。
「おお…!」
こ、これは高まる…!
小学校の音楽の授業以外では楽器こそ触ったことは無かったが、音楽は大好きだった。
特にロックは、自分ではどうしようもない不安や葛藤を代弁してくれる気がするからだ。
本当に辛い時期は、イヤホンで生臭い現実に耳栓をして過ごしていた。
テレビやネット動画でアーティストが演奏するシーンを見て憧れたりもした。
そして、そのアーティスト達は皆、立って演奏していたのだ。
一度ギターを石段に立て掛けて辺りを見渡す。
「よ、よし…誰も居ないな?」
この時間、この神社は人がほとんど居ない。たまに犬の散歩でおばあちゃんが立ち寄るくらいだ。
大丈夫…一年間通ってリサーチ済みだ…。
俺はギターを肩に掛け、立ち上がった。
ジャーン!と脳内でかっこいい音を再生しながら右手を振り下ろしたものの、シャカシャカとしょぼい不協和音しか出ない。
それっぽくポーズを決め、少し動いてみる。一回転、二回転、そして洋楽メタルバンドよろしく頭をブンブンとふってみた。
うーん。
いまいちテンションが上がらない。
いかんせんコードの抑え方をひとつも知らないのだ。綺麗な音が鳴るわけがない。
腰を下ろし、スマホでひとつ簡単なコードを検索し、練習してみる事にした。
10分程引いた頃、ムキになって強く弾いていたせいか、ブチッと音を立てて弦がきれた。
「あーあ…」
びろーんと力なく垂れ下がる弦を眺める。
早くも心が折れそうだ。
「はあー、指いてえー」
ついでに手首も痛い。
難しいもんだな。
溜息をついてふと顔を上げると、誰もいなかったはずの神社の広場に、1人の少女が佇んでいた。
長い黒髪がオレンジのヘッドホンをアクセントに春の風に揺れていた。
白く細い手足はしなやかな曲線を描く。
昨日の深夜から降り続けた雨はいつのまにか止んで、雲間から差し込む光が少女を照らしている。
この都会から時間ごと切り取られたような空間。
そこで桜を見上げる姿は、まるでひとつの絵画の様だった。
見惚れるって表現を使うなら間違いなくこの事だ。
忘れていた役目を思い出したかのように、心臓が脈打つ。
そのまま目を奪われていると、少女が振り返る。
やべっ、目が会った。
少女はじっとこちらを見ている。
数秒後、ハッとした表情になり早足で近づいてくる。
よく見るとうちの制服を着ていた。こんな子うちにいたっけ…
鼓動が加速していく。もしかして俺の後ろに友達でもいるのかと思い振り返ってみるが誰も居ない。
少女が石段を上がり俺の目の前で立ち止まる。
心を見透かされないように、平静を装う努力をした。
少女はヘッドホンを外し首にかけて、口を開く。
「…そのギター」
震えた小さい声。聞き取れてはいたが、反射的に俺は聞き返した。
「え?」
「そのギター、どこでっ」
今度は張りのある声だった。
「ひ、拾った、さっき」
「ーーーっっ」
少女は悲しいような、悔しいような表情を浮かべると、そのまま走って神社の出口に向かってしまった。
学校からは反対側の出口に。
「行かないのかな、学校」
ぼそりとつぶやくと時間を確認し、学校に向かった。
校門をくぐり、上履きに履き替えたと同時にチャイムの音が鳴り響き、2限目の終了を告げる。
ゆっくりと階段を登り後ろ側のドアを開け休み時間で賑わう教室に入る。
「よっ、普通科高校の劣等生!またやっさんがお前の遅刻ボヤいてたから親友としてちゃんと事情を捏造しといたぞ、親友として」
手を挙げながら長身のクラスメイトの真野健二が能天気な笑顔で近づいてくる。
見た目は爽やかな短髪に細目のナイスガイだが、生粋の変人だ。あだ名はマノケン。
ちなみにやっさんとはクラスの担任である。
「おはよ、朝からホモホモしいな。てか事情って?」
「腹壊して下痢が止まらないって」
朝から下品なやつである。
というかホームルームでそんな事を言いやがったのか。
「お前な…あだ名がウンコマンになったらどうしてくれる」
「その時は俺が…受け止めてやる。アッー!」
両手を広げ目を閉じ、濃厚かつデンジャラスな表情で飛びかかって来る。
「ええい、ままよ!」
俺は全力で回避した。
何故かクラスの一部メガネ女子から熱い視線を感じるのが気のせいである事を切に願う。
名誉の為に一応言うが、俺たちは正常な男子高校生である。
「というかそろそろ背中に担いでるものに突っ込んでもいいか?」
マノケンはギターを指差す。
「ああこれ?さっき拾った」
「拾ったってどこで!置いてあったんじゃないのか⁉」
「いや、近所のゴミ置き場にあってさ、回収できません的な張り紙も貼ってあったし」
「まじかよ、ちょっと中みていい?」
「いいよ」
マノケンはケースを開けまじまじとギターを見ている。
すると後ろから小さい頃から聞き慣れた声が聞こえた。
「ハル、また遅刻!また一年の頃みたいに単位やばくなっても知らないからね!」
ぷんっとそっぽを向くと、茶髪のショートと長い前髪がわさっと揺れた。
こいつは森谷智沙。一度離れたこともあるが、小学校から一緒の幼馴染だ。
天然のアホで世話焼きだが誰にでも明るく接するので勘違いする男も多いらしい。
「今日は三限に間に合ったじゃん、てか毎朝電話してくんのやめろ、起きちゃうだろ」
「起こしてるの!馬鹿!」
幼馴染のクラスメイトからモーニングコールと言えば聞こえはいいが、正直不眠症気味の俺にはウザいだけである。
それでも親父が居なくなって、母親が入院して、従姉妹の理香姉のマンションに居候を始めた今もずっと気にかけてくれるこいつの存在には感謝もしている。
「あれ、マノケンくん、そのギター誰の?」
智沙がギターに興味を持った。
そういえば智沙は軽音楽部でギターを弾いてたな。しかも家が楽器屋だ。
「ん?浅見のだよ」
マノケンが答える。
「え、ハル、ギターなんか持ってたの?」
智沙がキョトンとした顔で俺の顔を覗く。
「うん」
正直もう同じ説明をするがめんどくさかったのでとりあえず頷いておいた。
「へぇーレスポールかあ〜、あ、弦切れてる…えっうそ、これギブソンのヴィンテージじゃん!」
「なにそれ、すごいの?」
「すごいよ、すっごく高いんだよ!」
まじか…?でもボロいし、本来の価値はなさそうに見えた。
ここでマノケンの目が妖しく光る。
「なぁ浅見よ。このギター、ネットオークションに出品する気はないかね?智沙ちゃんんちの楽器屋で修理して貰ってから出せば修理代を引いても利益は…」
金の亡者め、既に型式を調べて電卓を高速で弾き皮算用を始めている。
でも俺も弾けるわけではないし、宝の持ち腐れかもしれない。
そんな風に思った直後、朝の少女の姿が頭をよぎる。
『そのギター、どこでっ』
あの言葉の真意はわからないが、このギターが少女と自分を繋ぐ唯一のアイテムだと思えた。
「浅見!すげえぞこれ!こっちのサイトでは」
「いや」
興奮するマノケンの言葉を切る。
「これは、売らない」
「えーっ、お前ギターなんか興味なかったじゃんかー」
「か、飾るから、部屋に。なんかオシャレだろ?」
適当に言い訳をすると、智沙が割り込んできた。
「うん!そうだよ!これは絶っっ対持ってた方がいいよ!そうだよっ、そうに違いない!」
なにやら必死な様子だが、理由がよくわからない。
「智沙、お前なんでそんな必死なんだ?」
「だってもったいないし、どうせハルの部屋なんて殺風景だからいいアクセントになると思うし、ハルがギター始めたら…もう、なんでもいいじゃん!」
なにやら勝手に暴走して勝手にキレ気味である。まあいつもの事か。
「それよりさ…」
智沙が俺の耳元でヒソヒソと話しかけてきた。
「今日の放課後、約束覚えてる?」
はて…何かあっただろうか。
俺は首を傾げる。
「やっぱり忘れてるし…」
「ごめん」
智沙は呆れたような表情を作る。
「スリフォのライブ!一緒にいくって約束したじゃん!」
…そういえばいつかの学校からの帰り道そんな話をされたような…
きっとその日も眠かったのだろう、頭をオートモードに切り替えた俺は生返事で適当に承諾してしまったに違いない。
「ああ、思い出した」
ここでチャイムが鳴り響き、三限の始まりを告げる。
「じゃあ放課後ね!」
智沙は上機嫌で席に戻って行く。
まあ仕方ない、約束は約束だ。気は乗らないが付き合うことにしよう。
それから、居眠りと趣味の読書を挟みつつもつつがなく一日の授業をこなし、気付けば帰りのホームルームの時間になった。
担任の安田、通称やっさんが生徒に「短くて良い」と評判のホームルームを始める。
無精髭を生やしちょい悪風の中年独身であるやっさんは、フランクな態度と真摯に生徒に向き合う姿勢から生徒に慕われている。
何の因果か二年連続でやっさんのクラスなった俺も、珍しく信頼のおける大人だと思っている。
やっさんは大雑把に連絡事項を伝え終わると最後にこう告げた。
「あー…浅見はちょっと残れ、お前新学期早々遅刻多過ぎ」
ゲッ…
「以上!今日もお疲れさん、気を付けて帰れよ~、号令」
礼を終えると、クラスメイトは散り散りに席を後にしていく。
「あーあー、やっさんの呼び出しは長いぜー?バイトあるし俺先帰るわ、んじゃなー」
マノケンが俺の肩をポンと叩き教室から出て行く。
「薄情ものめ…」
去りゆくマノケンの背中をボーッと見ていると今度は智沙がこちらに向かって来る。
ああ、言いたい事はわかってるよ…
「どうすんのライブ、結構時間ギリギリなんだけど」
ふくれっ面がどんぐりを頬張るリスのようで少し可愛い。少し。
「…ほ、他のやつ誘ったら?軽音の友達とかお前たくさんいるじゃん」
「今日はみんな忙しいの!」
どうしたものかと考えていると後ろの廊下から女の子の声が聞こえてくる。
「やばーい!スリフォのライブオープン超ギリじゃん!前座のバンドも見たいからはやくいこ!」
「はぁはぁ、待って~。でもあれ、ちぃちゃんは誘わなくていいの~?」
「あー、なんか先約があるとか言って断られた、誰といくんだ?智沙のやつ」
思いっきり智沙の話題だ。しかもあの女の子達は何度か見たことがある。
智沙の組んでいるガールズバンドのメンバーだ。
「なあ、あれって確かお前のバンドメンバーじゃ…」
智沙の顔がみるみる紅潮していく。
「いいの!!!うるさい、ハルのバカ!もう知らない!」
お、お前はジ○リの回しもんか…⁉
「メールで場所送っとくから!終わったらダッシュで来ること!先行ってる!」
有無を言わさずチケットを置いて走り去ってしまった。
はあ…ぶっちゃけあんま興味ないんだよなあ…知らないバンドだし。
音楽は好きだ、でも、わざわざ高い金を払って足を運んで生の演奏を聞くより、調整されたCDをゆっくり聞ければ満足だった。
そもそもライブハウスに良いイメージがない。
うるさくて人が多い場所は苦手だ。
でも、智沙には日頃の恩があるし、たまには返して置くのも悪くない…そう自分に言い聞かせ、智沙に「チケット代後で渡す、待ってて」とメールを打ち、やっさんの元に向かった。
やっさんの呼び出しは大半が世間話だ、そして終わりの時間を決めて自習をさせられる。
やっさんに言わせれば「呼び出されて放課後の自由な時間を削られる事こそが罰であり、お小言でネチネチ注意するより効く」だそうだ。
本当に生徒の気持ちをよく理解しているオッサンである。
しかも俺が教室で自習している間も帰らずに職員室で待っててくれるのだから頭が上がらない。
本を読みながら時間を潰していると、やっさんから「もう帰っていいぞー」と声が掛かった。
ようやっと開放され、ギターを持って外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
「マジで遅くなっちまったな…」
ひとりごちながら携帯を確認すると、智沙からメールが来ていた。
女の子らしい顔文字を使った文面にライブハウスのホームページのURLが貼られていた。
駅は結構遠いな、ここから一時間弱ってとこか。
急ごう、せめて最後のバンドには間に合うように。
電車を乗り継ぎ、ライブハウスが地下にある為分かりにくく多少迷ったものの無事ライブハウスに到着した。
入り口には黒板にチョークで書かれたタイムテーブルが置いてある。
トリのバンドの欄には「Sleeping Fall」と書いてある。
なるほど、スリフォってこの略だったのか。
階段を降り、受付でチケットを渡す。
ドアは閉まっているのにここからでも既に爆音が漏れ聞こえてくる。
演奏中に携帯が鳴ったら失礼だと思い、とりあえず電源を切った。
分厚いドアを開け、意を決して初めてのライブハウスに足を踏み入れる。
想像していたより少し狭い。
そしてすごい熱気だ。というか人工密度が尋常ではない、満員だ。
ホールにいる人種は様々で、高校生もいれば、ギャルな感じのお姉さん、ピアスだらけで派手な髪をしたガラの悪そうな若者もいる。
ちょうど今ステージにいるバンドの演奏が終了したらしく、ボーカルがありがとうと言い、メンバーが履けていく。
ホールの照明がつき、聞き覚えのある洋楽がが流れ始める。転換の時間に入ったようだ。
「あ、ハルー!やっと来たあ」
智沙が人混みをかき分けて向かってくる。
「わりいわりい、次が最後のバンド?」
「そうだよ!今日の主催バンド!もうね、ほんっと凄いから、ハルもきっとびっくりするよ!」
それから智沙に次の出演バンド「Sleeping Fall」の説明を聞いた。
熱く語っているが、周りの音がうるさくて聞き取りにくい。
結成から一年足らずで名をあげたとにかく凄いバンドらしいことはわかった。
ジャンルはエモ?らしい。
俺は何となくお父さんを探して海を泳ぐクマノミの健気な姿を連想した。
「へぇー…」
俺は智沙に話を聞きながら何となく辺りを見回す。
すると、後方のドリンクカウンターの辺りに居る人物に目を疑った。
「あの子…‼」
朝の神社で出会ったあの子だ、間違いない。オレンジのヘッドホンも見える。
「ん?どうしたのハル、もう、話きいてるー?あっそろそろ始まるよ!」
流れていた音楽が、すうっと小さくなっていき、完全に消える。
騒がしかったホールは驚くほど静まり返っていた。
そして、電子音のSEが流れ、「Sleeping Fall」のメンバーが1人ずつステージに出てきた。
あの少女の事が気になっていたが、次第に雰囲気に飲まれていく。
メンバーが楽器を持ちギターボーカルが合図するとSEが消えた。
挨拶も無く、いきなり演奏が始まる。
その瞬間。
身体中に電撃が走った。
ただ、ひたすらに圧倒される。
一歩も動けない、鳥肌が立つのを感じ、震える。
「なんだこれ…」
爆音のはずなのに、うるさいと感じない。むしろ心地よくて、包み込まれるような感覚。
そして曲が、うまく説明は出来ないけど、色で言えば深い青のイメージで、神秘的だ。
そしてなによりもボーカルの歌が、刺さる。
痛みや悲しみ、不安のネガティブな感情が、音と完全に中和して、胸に響いて来る。
そうか、智沙が言っていた「エモ」ってきっと「Emotion」の略なんだ。
それから最後の曲が終わるまで、俺は呆然と立ち尽くしていた。
頭の片隅で、「ギターを始めよう」と何度も思いながら。
最後にギターボーカルがメジャーレーベルに所属し、CDを全国リリースする旨を伝えるMCをすると、ステージは終わった。
今日の出演バンドを全て見終えた観客たちはメジャーデビューの話題で持ちきりだ。
俺はまだ脱け殻のようにフリーズしていた。
「やばかったでしょ、ってどうしたの、ハル?」
智沙に肩を叩かれて、ようやくハッとする。
「あ、ああ」
「もおー、寝てたとか言ったら怒るからねっ」
「智沙、ギター教えてくれ」
「え?ああうん、もちろんいいよ!」
智沙は嬉しそうに笑った。
「わたし物販で色々買ってくるからちょっと待ってて!」
智沙は物販コーナーの行列に並びに行った。
あ、そう言えばあの子は…
ぐるりと周りを見渡す。
拾ったギターの事も聞きたいし。
見当たらない。
さっき居た場所にも姿は見えない。
出口の方に目をやると、小走りで出口に向かう後ろ姿を見つけた。
俺は物販に並ぶ智沙に話しかける。
「わりい、ちょっと出てくる、なんかあったら電話して!」
理由を聞く智沙を背中に、俺は走り出した。
急な階段を駆け上り、地上にでると新鮮な空気が肺に流れ込んできた。
首を振り左右を探すと、少し遠くに彼女の背中が見えたが、すぐに路地を曲がってしまう。
少しだけ見えた彼女の横顔は手で顔を拭っていて、泣いているように見えた。
彼女が曲がった路地にはいると、小さな公園をみつけた。
そして、その中のベンチでうつむいている細い人影を確認した。
俺は近くにあった自販機に向かい、缶のおしるこを二つ購入した。
昔見た本かドラマの中に「女が泣いているときは甘いものが良い」みたいなセリフがあったのを思い出したからだ。
公園に入りベンチの前に立ち、意を決し話しかける。声が裏返らないように気をつけながら。
「あの…」
彼女が顔を上げる。やっぱり目には涙をためていた。濡れたまつ毛が長くて、近くでみると大人しそうな雰囲気だ。
「だっ、誰ですか?」
不審者を見るような目だ。まあこんな時間だし当たり前か。
俺は背負っていたギターを見せる。
「これ」
「あ……朝の不審者!」
「んなっ!!!」
やっぱり不審者なのかよ!
「ちょっと待って!まだなんもしてない言ってない!」
「だって神社でギター持って変なポーズして頭振ってた」
み、見られていた…だと…⁉
「この季節多いっていうし…」
呼鳴、やっぱり俺は春が嫌いだ…
「誤解なんだ、ほら、同じ学校の制服っ、それとチケット!ライブハウスで見かけたから追いかけてきたんだよ」
俺はバサバサとブレザーを引っ張ってみせ、チケットを取り出す。
「本当だ」
一応不審者疑惑は晴れたのか…?
「あのさ…一個聞いてもいい?」
「なんですか」
「このギター今日の朝拾ったんだけど、もしかして君のだったりする?」
「それは…」
彼女は黙ってうつむいてしまう。
また泣き出しそうな雰囲気を感じ、俺はここぞとばかりにおしるこ缶を差し出す。
「さっきそこで買ってきた。飲む?」
「ありがとう…」
俺もベンチに腰掛け、二人でおしるこ缶をあける。
「甘っ、口の中ベタベタする」
悪かったな!
「……あのギターは」
彼女が切り出した。
「兄に貰ったものなんです。それを私が昨日の夜捨てました」
「理由を聞いてもいい?」
深刻な声のトーンから、なにか深い訳がありそうな気がした。
「さっきのライブで最後に演奏したバンドのギターボーカルが、私の兄なんです」
「なるほど、」
正直驚いたが、言われてみれば何となく似ているかもしれない。
「兄はバンドの為に家を出ました。それから色々あって私は1人になってしまって」
「うん」
中々複雑だ。1人の辛さは、俺も身に染みてわかっているつもりだ。
「ムカついたので、捨てましたっっ!!!」
「おおっ⁉」
急に声が大きくなったのでびっくりした。
「ちなみに今日は兄のライブの見納めに来てやりました!」
「……私を捨てたお兄ちゃんの顔なんてもう見たくないし…」
言葉の後半は消えいるように悲しげな細く小さい声だった。
また涙をためて震えている。
「俺さ、ギター始めようと思うんだ」
「え?」
「そしたら、俺が…」
出会ったばかりの名前も知らない赤の他人に、とてつもなく恥ずかしい事を言おうとしている自覚はあった。
でも、目を腫らしたこの子の悲しそうな顔をみたら言わずには居られなかった。
「このギターで、あんたの兄貴を超えてやるよ!そしたらもう泣くな!」
公園の木々が、夜風に揺れ、音を奏でる。
彼女はキョトンとした顔をしていたが、少しだけ、表情が明るくなった気がした。
通り過ぎる車のライトのせいかもしれない。
「…なんで拾ったんですか、それ」
「寂しそうに見えたから」
そして、雨の中コンクリートに立てかけられていたギターに触れたとき、このギターが誰かを呼んでいる気がしたから。
「………」
彼女はうつむいて口を抑え震えている。まさかまた泣いてるのか?
と思ったら急に噴き出した。
「……くっさwwwさっきから厨二病乙www」
彼女はやっと笑った。
笑った顔がとてつもなく可愛かった。
「……ねらーなの?」
気付いたら俺も笑っていた。
「へっ?あ、ち、違いますよネラーってなんですか?始めて聞いた!」
顔を真っ赤にして弁解している。
「なんでもないなんでもない」
面白かったが、軽く流しておいた。
「でも、誰かが拾ってくれるかもしれないと思っていたから、よかったです」
なるほど、それでケースが横に置いてあったのか。
彼女は立ち上がる。
「明日こそは学校いかなきゃだしそろそろ帰らなきゃ」
「そういえばなんで今日はいかなかったの?」
彼女は恥ずかしそうに答えた。
「今日転入するはずだったんですが…学校自体久しぶりで怖じ気付いた、というか…」
「コミュ障ねらー極まれり」
俺は軽口を叩く。
「うっさいです!」
彼女はもうすっかり元気に見えた。
「名前、教えてよ」
俺はずっと気になってたことを聞いた。
「雨宮 優です。あなたは?」
「浅見 春希。知り合いには大体ハルって呼ばれてる」
優は公園の出口に歩きだし、振り返る。
「おしるこ、美味しかったよ。
ありがとう……ハル」
優は優しく笑い、公園を出ていく。
「………」
しばらく放心状態になった。今日二回目のフリーズである。
ひとしきり惚けた後、携帯をみてみると、電源が切れていた。そういえばさっき切ったんだった。
急いで起動すると案の定智沙から大量の着信が来ている。
「やばっ…」
俺は来た道を走り出す。
桜並木が、街頭に照らされている。
好きになれなかった桜も、何故か今は綺麗に見えた。
何かが変わり始めている、そう感ずにはいられない。
それは小雨が降りしきる静かな朝だった。
燃えないゴミの日に、寂しさの塊に出会った。
そして、その日、恋をした。
ほんの少し、ほんの少しだけ、
春が好きになれた気がした。