私の日常
ふと話題に出たために書いた短編小説です。
これより前の話、後の話など希望があれば書くかもしれません。
「氷野華さん、芽理氷野華さん。」
私の名前を呼ぶ声が聞こえ、外に向けていた目を正面にいる人物に移す。視界に入ってくるのは優しげな顔の女教師。苦笑いを浮かべてこちらを見ている。
「授業中ですよ、ちゃんと話を聞いてくださいね。」
「すみません。少し考え事をしていました。」
特に何を見ていたわけでもないし、何かを考えていたわけでもない。ただよくある受け答えとして自然と返答が出てきた。
「どうかしましたか?悩み事なら後で聞きますよ?」
「いえ、大したことではないので。それより話は何でしょう?」
「次は氷野華さんの番ですよ。ここから読んでくださいね。」
女教師が教えたところから教科書を音読する。一文を読み終えるとすぐに後ろの生徒が続きを読み始める。私は再び外に視線を向ける。流れていく雲がやたらと黒く見えた。
いつも通りほとんど会話をしない一日の授業を終えて教室から出る。下駄箱へ向かう途中、食堂の横を通りかかったとき何かを踏んだ。確認すると良く見かける黒い虫がつぶれている。
「ッ・・・・・・」
こぼれそうになった言葉を堪え、地面に死骸をこすり付ける。周りの生徒が何か囁いているが気にせず学校を出る。そのまま駅に向かい、自宅に帰る。
私は割と離れた高校に通っている。電車で一時間、その後歩いて三十分。学校にはかなり早く行き、帰りは遅い。おかげで電車の中はいつでも空いている。でも、今日は違った。
電車のドアが開くと目の前には押し合う人々。サラリーマンだろうか?スーツを着た男性が若い人から老けた人まで大勢いる。人ごみは嫌いだが電車を逃すわけにはいかないので私も乗り込むことにする。
すぐに減ると思っていた人たちはいつまで経っても降りる気配が無い。カーブのたびに押し合い、揺られながら自宅がある駅までひたすらに耐え続ける。
降りる駅まであと一駅。時間にして後十分程度。私の臀部に違和感を感じる。同時に纏わり着くような視線が背筋をなぞる。ゆっくりと三十秒ほど数えるが違和感は変わらず続くばかりか酷くなっていく。
「ァ・・・・・・・・はぁ」
うんざりしながら後ろを振り向く。そこそこ立場が上なのか、周りの人と比べて見て分かる程には質の違うスーツを着た中年の男性がいる。私が見ていることに気がつくと露骨に目を逸らし、片手でスマホを使い始める。臀部の違和感は続いている。
長い黒髪に整った顔つきはよく綺麗だと言われる。羨ましいとも言われる。妬まれ陰口、悪口を言われたこともある。私はめんどくさいとしか思わない。今回のようなことが起こってほしくなかった。
これ以上続かないようにするため、残り短い時間私は放置することにした。どのようなことをされても反応が無ければいつかやめるだろう。どうせ私の体だ。大した価値はない。
結局、降りるまで違和感は続いた。人を掻き分け電車から降りる。すでに辺りは暗い。駅を抜け、人通りの少ない道を進んでいく。家まではあと数分で着くが電車で感じた纏わり着くような視線が消えない。僅かに聞こえる私以外の足音。私が足を止めるともう一つの足音も止まる。
あぁ、もうだめだ。ずっと我慢してたのに。虫の時も電車の中でも我慢してたのに...。
「アハ、おじさん。隠れてないで出てきなよ」
何かが外れる音がする。鍵が壊れる音がする。それと同時に気持ち悪さが消え、気分が高揚してくる。こうなってしまうともう私でも止められない。
後ろから気配はあるものの姿は見えず、返事も無い。
「大丈夫だって、怒ってないよ。お話しようよ。ネェオジサン?」
「やれ、私のことかな?夜道で怖がらせないように隠れていたのに、見つかっていたとは。」
「そうなの?優しいね。てっきり可愛いワタシノ事を追いかケて来たのかと思ってタ。」
「そんなことはしないよ、可愛いのは否定しないけどね」
おじさん、早く逃げて。私から逃げて。ワタシに捕まらないで。早く、早く、速く、早く、はやく、はやく、はヤく、ハやく、はヤク、ハヤク、はやく、ハヤク。
「紳士ナンダね?ワタシの家、こノ辺りなんだ。少し寄っていカナい?暖かイものデも出スヨ?」
「そうかい?なら遠慮なくお邪魔させてもらおうかな、ご両親は?」
「いナイんダ。今日はずット一人。」
「そうかい・・・。」
下卑た笑みを浮かべて着いてくるおじさん。無邪気な笑顔を浮かべて誘うワタシ。なぜか二人ともが私には見える。
もうだめだ。そろそろ混ざる。私とワタシが一つになってしまう。これで何人目だろう?何匹目だろう?何個目だろう?こんなことはしたくないのに。嫌なだけなのに。辛いだけなのに。苦しいだけなのに。
今から、凄く楽しみだ。
おじさんの手を引き、自宅へ招く。ただいまの声に反応するのは後ろのおじさんだけ。高校生が一人で住むには大きすぎる家。一人暮らしには多すぎる家具。違和感が多い家に私とおじさんは入っていく。
「椅子に座って待ってて、コーヒーでも入れてくるから」
思った以上に明るい声が出た。やっぱりもう私とワタシは混ざっている。言葉から違和感は消えている。もう手遅れだ、逃げられない。おじさんも私も。
「そうかい、悪いね」
椅子に座ったおじさんの前にコーヒーのカップを二つ置く。片方は私のコーヒーだ。そして、そのままおじさんの膝に腰を下ろす。
「おやおや、随分と懐かれたもんだ。私の何が気に入ったのかな?」
自然と私の肩に手を回してくるおじさん。それを受け入れおじさんの首に手を回す私。
「全部かな、その目も、体も、考えも、おじさんの本心も。」
「本心?何のことだか?」
肩を引き寄せ、自分の顔に私の体を引き寄せるおじさん。これからが楽しみなのか笑みを隠しきれていない顔が近くに迫る。
「私に触りたかったんでしょ?掴みたかったんでしょ?これからが楽しみなんでしょ?」
「私にそんなつもりは無かったんだけどね?家に上がったのも君が誘ったから・・・」
「私もこれからが楽しみだよ?」
おじさんの耳元で囁く。一度顔が離れ、再び近づいていく。私を狙っている目が、下卑た笑みを浮かべる口が目の前まで迫り苦痛に染まる。
「がっ、ぐっ・・・・・・・・なにが?」
おじさんの腹部には深々と包丁が突き刺さっている。私が台所から持ってきて服の中に隠しておいた包丁が。
スーツからは血があふれ出し、近くにいる私の制服ごと辺りに赤い液体を撒き散らす。
「ごめんね、おじさん。手が滑っちゃった。痛いよね?すぐに抜いてあげるから。」
包丁の柄を掴み一気に引き抜く。刺さっている箇所の肉を削ぐように、絡めとるように、捻りながら。
「や、やめっ、ぎゃあああああッ!?」
辺りに血と赤黒い物体が飛び散り床や壁を汚す。鉄に似た異臭が部屋に充満する。
私は包丁についていた血を舐め取り、うずくまるおじさんに話しかける。ゆっくりと確認するように。
「あれ?抜かないほうが良かった?私、余計なことした?」
「がぁ....ぐぅヴぁぁ....」
「うーん、お話しようよ。答えてくれないと私分からないよ。とりあえず元に戻しておくね。」
再び同じ場所に包丁を差し込む。ゆっくりと、ゆっくりと。
「があぁぁあああっ!」
「きゃあ!?」
私は痛みに暴れるおじさんの腕に当たって弾き飛ばされる。机に顔をぶつけ、口の中は鉄の味がする。
「酷いよ、おじさん。乱暴する人にはお仕置きしなくちゃ。」
近くの戸棚から金槌を取り出す。小さな、それでいて重量のある少し錆びた金槌を手に取る。
「お仕置きは受け入れなきゃね。逃げちゃダメだよ?まずは足かな。」
勢いをつけて金槌をおじさんの左足の甲に振り下ろす。何かが砕ける音がして血が飛び散る。
「ぐがぁああああっ!!??」
痛みのせいでおじさんからはもうまともな声は出ていない。口から漏れてくるのは悲鳴か呻き声。私がおじさんを傷つけるたびに私とワタシが分かれていくのを感じる。
「もう、夜なんだから静かにしないと。音が漏れにくい壁じゃなかったら他の人の迷惑になるところだったよ。気をつけてよね、おじさん。」
次は右足に金槌を振り下ろす。その次は右腕、次は左腕。でも決して首から上は狙わない。致命傷は狙わない。そうしないとまた一つになってしまうから。私とワタシに分かれることができないから。
「アハハ、ワタシに触ルンジャナイノ?ワタシを自由ニスルンジャナイノ?」
ワタシが喜ぶのが分かる。私が分かれてくるのを感じる。
「がぁ、ヴぁ...」
夜はまだまだこれからだ。ワタシは満足してないし、私もまだ続けなくちゃと思っている。
「モット遊ボウ?オジサン」
はぁ、またやってしまった。またワタシが出てきた。時間は午前三時。急いでこれを片付けなくちゃ。ゴミはいつもの場所に捨てて、床や壁は綺麗に掃除して、壊れたものもあるから学校の帰りに買い物もしようかな。
今日も学校はあるが寝不足だ。居眠りはしないだろうが、またボーっとしてて先生に注意されることだろう。
たまに、本当にたまにあるこんな私の日常が早く開放されないだろうか。無理だろうなぁ、ワタシがいる限りは。