脱出
ふっと意識が浮上する。星空はコンクリートの床に横たえていた身体をゆっくりと起こして、辺りを見回す。同じ部屋で雨風をしのいでいる仲間たちは、まだ起きていないようだった。もう一度身体を横たえて、星空は自分のステータスを確認する。
Lv.15、〈神祇官〉〈裁縫師〉。そして、所属ギルドには〈ハーメルン〉の文字が並んでいる。
〈エルダーテイル〉の世界に来てからそろそろ2ヶ月経とうとしていた。
この世界に来てから数日ののち、星空は初心者の互助を行うというギルドに参加した。参加してから、悪徳ギルドだということに気づいたが、逃げる方法はなかった。そもそも、右も左も分からない世界で助けてくれる大人もいない星空はその誘いの手を掴まざるをえなかったのだ。ここにいれば、扱いは酷くても、雨風をしのぎ、ご飯をもらうことはできた。
シンデレラみたいと何度か思った。
もちろん、王子様が待っているわけではないけれど、シンデレラの最初の方みたいに扱いはひどく、まともな休みももらえない。
それでも、星空にここ以外の居場所はないのだった。
その日の朝、星空は狩猟チームと一緒にギルドホールを出るように言われた。それを伝えてきたのは同じ〈神祇官〉のミノリという少女だ。星空よりも少し年上なだけなのにしっかりしていて初心者のみんなから慕われている。信頼できる人なのかはわからない。2ヶ月一緒に暮らしても、星空にとってはいつ誰が裏切ってもおかしくないように見えた。
『信じてみなきゃ始まんねぇだろ』
エルダーテイルを始めた頃、助けてくれた冒険者に言われた言葉だ。ぶっきらぼうだけど優しくて格好良くてすぐに憧れるようになった。それは、彼が画面の向こう側の人だと星空が認識できていなかったからだ。
変わりたいという気持ちはまだない。ここから逃げたいという気持ちや、憤りも他の子たちとは違って星空は持ち合わせていなかった。
ただ、大切な人に会いたいという気持ちだけを確かめる。それだけが星空が生きるための糧だった。
「星空っ」
ぐいっと腕を引っ張られる。
もう出発の時間だった。星空自身も自分の足で廊下を歩き出す。他のみんなのようにまっすぐ前を向いては歩けない。それでも、ギルドの初心者たちの後ろをついて、ギルドホールのドアを抜ける。
その先は眩しかった。
ギルドホール内の灯りが小さかったこともあったが、今までいた世界とは違うように思えた。数ヶ月前、ここを通ったはずなのに、その頃とは何かが違う。
「大丈夫か?」
自分よりいくらか年上の少年に顔を覗き込まれ、星空は思わずあとずさる。そして、一つ頷いた。
「よかった。名前は?」
星空、と答えたはずなのに、喉につっかかる。言葉が喉を抜け出ない。かたかたと震える星空を見かねたのか彼は星空のステータスを確認した。
「星空ちゃん、かな。落ち着いて。もう大丈夫だから。まずはエントランスに行こう」
優しい言葉に小さく頷く。彼は自分の後方を指差す。
「あの人たちが誘導してくれる。もう安全だからゆっくりで大丈夫だよ」
はい、と言ったはずの声は口の中で溶けてなくなり、喉はカラカラと乾いてしまっていた。それでも、きゅっと口を結んで、星空は歩き出す。
エントランスまでの道中、何人もの人が星空へと声をかけてきた。それにぎこちなく頷き返すことしかできずに、星空の歩みはだんだんと遅くなっていく。
底辺の生活のほうがまだ立場がはっきりしていてわかりやすかった。
家族でもなく、使用人でもなく、自分を使う人間でもなく。ただただ、優しい言葉をかけてくる大人にどう対処したらいいのか。
星空は引きこもっている間に他人との接し方を忘れていたことに気づいた。




