星空の場合
世界は残酷だ。
2年前、少女はそのことを知った。
そして、今。再び、突きつけられることになる。
目を覚ますと、そこはいつものベットではなかった。眩しい光、家の蛍光灯とは違うそれに少女は目を細める。
「高い空……」
まず、彼女が目にしたものは高い空だ。次に、古びた建物とそれを覆う緑、そして――
「……っ」
たくさんの人だった。少女はびくりと身体を震わせる。身を翻し、路地裏へと足を勧めた。
誰も、いないところへ。
普段はほとんど動かさない足を懸命に動かす。まるで、何かから逃げるようにその足はだんだんと早くなっていく。
気がづけば、少女は街のはずれの小さな廃墟の中にいた。周りに人の気配はなく、声も聞こえない。そのことにほっとして、少女は腰を下ろす。
ここ、どこだろう。夢の中なのかな。
そう考えて少女は辺りを見回してみる。感覚ははっきりしている。走って息も上がっている。夢みたいな無限回廊は現れない。
まさか、そんなわけ、ない。
夢なら苦手なものの先に出口があるはず!
少女が立ち上がると、目の前にユーザーインターフェース――メニュー画面のようなものが現れた。
これって……。
画面自体に見覚えがある。いや、確かに、さっきの景色も見たことがないものではなかった。いつも見ていたものだ。少女が気にしていなかっただけで。
「……〈エルダーテイル〉」
そのゲームの名前を呟く。世界で一番人気があるというMMORPGの名前だ。メニュー画面の右上に少女のステータスとプレイヤー名が表示されていた。
彼女は星空、Lv.15の神祇官だ。ゲームを始めてから約半年経つ。
全く気にしていなかった自分の服装を見る。〈神祇官〉専用の防具である巫女装束だ。耳の位置も頭の横ではない。周りの音の拾い方が普段とは異なった。首をひねり、背中を見る。銀色の尾が1本垂れている。どうやら、ゲームの中の自分の設定である狐尾族の姿のようだ。
エルダーテイルってVRMMOになったの?
VRMMOの小説ならたくさん読んだ。試作品の体験もしたことがある。しかし製品にするにはまだ時間がかかるはずだ。それに、こんなに画質はよくない。反応速度もこんなに早くはない。
メニューの左下にオプションという字と並んでログアウトというボタンが眼に入る。少女はおそるおそるその文字に手を伸ばす。
これが、VRMMOなら、帰れる、よね。
制作者が悪趣味でなければ、ログアウトというボタンは存在する。ゲームの最低限の機能として。
空中のユーザインターフェースに触れる。実態はないはずだが、星空の指先は確かにボタンへと触れる。しかし、ログアウトボタンは何度触れてもただ冷たいだけで、何も変化がない。
帰れない。そんな、なんで。
「……パパ、ママ」
思わず立ち上がり、少女は廃墟を飛び出す。
「お兄ちゃん!」
辺りを見回す。蔦が伝う廃墟には確かに見覚えがある。でも、確かめたいことはそれではないのだ。
「鈴木!」
『私はいつでもそばにおりますよ』と頭の中で彼の言葉が反芻する。しかし、返事はない。
「鈴木!どこ、どこにいるの!」
そばにいると、裏切らないとそう言っていたでしょ!なのに、どうして、返事がないの。
裏切りではないことを星空はわかっていた。当然だ、このゲームをしていたのは自分ひとりだったのだから。
本当にゲームの中の世界に転送されてしまったの?
そのような話ならたくさん読んだ。それらのほとんどはヒロインは庇護され。ゲームの中のキャラクターたちに囲まれて幸せになる。もしくは、元の世界に戻るための冒険をする。しかし、星空は無条件で庇護してもらえるようないい子でも、仲間を集めて冒険できるような凄腕の〈冒険者〉でもないのだ。
「サキガケ、さま……」
愛しい人の名が溢れる。少女は無意識のうちに、ユーザーインターフェースからフレンドリストを開いていた。フレンドリストにある名前はたった一つ。
サキガケ。
白く光るその文字の横にLOG-INという字が見える。彼もこの世界にいるのだ。
「……サキガケ、さま……」
指が震える。いつもは躊躇なく使用していた念話機能もこの状況では押すのが躊躇われた。否、彼女は怖かったのだ。
この世界にいるっていうことは、サキガケさまも人なんだ……。
恋愛ゲームのキャラの一人のように、画面の中のPCの一人を好きになった。彼は絶対に画面から出てこなくて、裏切りなんて存在しない、そういう相手だから好きになった。
星空にとって恋愛対象とはそういう相手だったのだ。
震えた手は勝手にユーザーインターフェースを閉じてしまう。
頼れる人は誰もいない。どうやって生きていけばいいのかもわからない。
星空はふらふらと廃墟の中へと戻る。
世界は残酷だ。
元いた場所へ腰を下ろし、彼女は何気なく手に視線をやる。真っ白な手は現実世界よりも柔らかく、左手の薬指には魔力のこもった指輪が嵌っている。その手から手首へと視線を移して、彼女は体を硬直させた。
な、なんで……。どうして。
その言葉に答えるものはない。しかし、ひとりではその混乱から逃れることができず、少女はふつりと意識を失う。
そこ――左手首に数本の切り傷の跡。
数年前、少女が自分で自分を傷つけた時のものだった。




