再来! シスコン期!
二〇〇六年七月一〇日。
両親が死んだ。
文字で表すだけならばとても簡素な文章で、小説や漫画でもよくある設定。しかしそれがどれだけ辛く、悲しいことなのかを僕は身をもって知った。
先日まで一緒にあった父と母の姿はもうどこにもない。突然のこと過ぎて思うように泣けなかった。通夜も葬式も叔父が取り仕切ってもらった。慌しく訪れた親戚の人々の弔意の言葉をかけてもらった。しかし僕はなぜ父と母が死ななければならなかった世の中の理不尽さに、怒りや悲しみが混じり心中は熱を帯びたような状態であった。何一つ耳に届くことはなく、通り過ぎていた。
僕らはそれほど家族仲がいいという訳ではなかった。姉さんが僕が幼い頃に家を出ていってから、父と母の間には溝ができて、どこかよそよそしかった。しかし、共に過ごす時間が増える内に徐々に溝も縮まっていき、僕たちがやっと家族の体を成してきた矢先の出来事だった。三人の家族はもう跡形もなく消え去ってしまった。
僕だけが置いて行かれた。
そんなことは直ぐに信じられることではなくて、朝起きたら全て夢で、父も母ももうリビングにいて、僕に「顔を洗ってきなさい」といつものように言ってくれる、と現実を直視せず、ただ悲しんで憤っていた僕だからきっとあんなものが来てしまったんだ。
父と母の葬儀が終わった後、叔父は僕にこれからのことを尋ねた。自分で決めなさい、とあくまで僕の意思を尊重しようとしている目だった。
「宗次君、君はこれからどうする? 僕の家に暮らすか、それとも」
続いて出た言葉は暗闇の中、一筋の光が差し込んだように僕は感じた。
「お姉さんと暮らすかい?」
僕を置いて行った姉さんが帰ってきた。頭にはそれしかなかった。それは母と父が亡くなった悲しみを一瞬で忘れさせる。姉さんがやっと僕を迎えに来てくれた。頭の中を幸福が占めていくのを感じた。うっすらと笑みを浮かべた僕を叔父はどう見ていたのだろう。ひどく気味の悪い子供だっただろうに。
翌日、叔父の立会いの下、姉と会うことになった。そわそわと落ち着かない様子の僕を叔父が窘めた。叔父の忠告も聞かず、キョロキョロとしていると、見知った顔の女が目に入った。女は僕のもとへ歩を進め、
「久しぶりね、宗次」
と、馴れ馴れしくも言った。
女の笑みはひどく蠱惑的で、蛇の様な視線が僕を貫いた。その眼の酷く恐ろしいこと。一度そのその眼を見てしまうと焼き付いて離れない。恐ろしい恐ろしい。久しき人との再会に、沸き立つはずの安堵などはなく、不安が胸をよぎった。
僕が小さい頃、僕たち家族は四人家族だった。
父がいて、母がいて、姉さんがいた。姉さんがいた頃に父と母に遊んでもらった記憶はほとんどない。両親は仕事で忙しく、家にいないことが多かった。あまり手のかからない子だからというのもあって放って置かれてた。僕はあまり自己主張をしなかったし、子供特有のわがままもあまり言わない子だったらしい。当然、物静かな僕は公園に友達もできず、家の中に籠っていた。姉さんはそんな僕を心配して僕とよく遊んでくれた。たまに友人を連れてきて三人で遊ぶこともあった。姉さんでも年の離れた弟の相手をするのは苦痛だったろうに、したいことも他にあったろうに、僕の相手をしてくれた。姉さんは父と母よりも、僕に深い愛情を注いでくれた。当然、僕は姉さんが一番好きだった。頭もよく、スポーツもよくできた姉さんは僕の誇りでもあった。
ある日、僕たち家族のすべてが変わった。父と母は姉さんを激しく罵倒していた。幼かった僕は二階の部屋から父の怒鳴り声と母のすすり泣く声を聞いていた。父と母の激しい怒りが僕を震えさせた。そして罵声が止むと、二人は寝室に行き、泣いているようだった。どうして、何で、あの子が。そんなことを言っていたような気がする。僕は姉さんが泣いていたらどうしようと姉さんのもとへ行った。
姉さんは泣いていなかったけれど腫れた頬に殴られた跡が見て取れた。僕は姉さんのそんな姿が悲しくて、涙を流した。泣いた僕を姉さんは優しく撫でて諭すように言った。
「宗次、私はもうここにはいられないけれど、姉さんはずっと宗次の姉さんだからね」
明くる日、姉さんがいなくなった。僕は姉さんに置いて行かれてしまった。結局今となっても何故いなくなったのかは屯と分からない。両親はひた隠しにした。
姉さんがいなくなって、母は仕事を辞めた。父さんも休みを取るようになった。三人で出かけることが増えていく内にぎこちないけれど、家族に成ろうとしているんだと幼いながらに感じていた。でも父と母と一緒に居ても、心の中でずっと姉さんを待っていた。ここに姉さんもいればいいのに、と。
父さんと母さんが死んでから二カ月。
働いているとはいえまだ若いその人と高校生の僕とを心配してか叔父の援助を受けながら近場のマンションに一緒に住むことになったその人との生活は僕にはとても息苦しい。それはその人に僕は不気味さを感じていたからだ。その人は僕の知っている姉さんと全く変わりがない。人は月日とともに多少なりとも変わる、ましてや僕と姉さんの間には離れていた年月があるのだから、姉さんの趣味や嗜好が多少変わる筈だ。けれども、姉さんはあの頃と少しも変わりがない。変化も成長も何一つしていない。それが何か空恐ろしい。その僅かなズレの様な不信感を常にその人に抱いていた。昔と変わらない少しの癖すらも、不信感は積み重なっていくばかりだった。気味が悪い、おぞましい、恐ろしい。そんな感情がその人と過ごす内に日々積もっていく。
その人とある程度の距離を保ちつつ日々を過ごす内にそもそも、なぜ姉さんは家から出ていったのだろうかという疑問が胸を占めた。
朧げな記憶はただ、父と母がひどく姉さんを怒り、罵っていたことしか分からず、姉さんがなぜそのようなことになったのかは、幼い僕には知る術はなかった。父と母に聞いても言葉を濁して、はっきりと理由を教えてくれることはなかった。ふと叔父の顔が頭に浮かんだ。叔父ならばどうだろう。叔父ならなにか知っているかもしれない。もしかしたら姉へのこの言い知れぬ不安や疑心を払拭できるかもと連絡を取ろうかと思ったが、叔父にあの人との関係がうまくいっていないのかと余計な心配を掛けるかもしれないと、躊躇いが生まれた。叔父には両親の葬式から散々世話になっているのにこれでまた叔父を思い悩ませるのも叔父に申し訳ないと思い、逡巡する。
連絡を取ろうか、いや叔父に無駄な心配を掛けるかもしれな。いそんな葛藤をしていた折、ちょうど叔父から連絡があった。
実家の遺品整理が終わったが、姉さんのアルバムがまだあったから取りに来てくれないか、ということだった。これ幸い、そう思い、明日高校からの帰り道、隣町にある叔父さんの家に寄る旨を伝えた。
叔父は優しく僕を出迎えてくれた。少しの世間話をした後、アルバムを受け取った。叔父は僕を気遣ってか優しい言葉をかけてくれた。この人にはお世話になりっぱなしだ。感謝してもしきれない。感謝の念を覚えながら僕はどのタイミングで姉さんの話を切り出そうか悩んでいる俺に叔父さんは何かを察したかのように、言った。
「千代子ちゃんとは仲良くやっているのかい?」
目が合わぬよう、茶菓子へと目線を逸す。言葉は行き詰まったようになかなか出てくれない。叔父さんの真剣な瞳が僕を射抜くのを肌で感じ、誤魔化そうとしてもどうしようもないと悟る。
「姉さんは、なんで家を出されたんですか」
意を決したその言葉は震えてはいないだろうか。叔父さんは少し虚を突かれたような顔をしたが、次には困ったように頭を掻き、眉を下げた。そうして本当に申し訳なさそうな顔をした。
「千代子ちゃんのことは、私も良く知らないんだ。兄さんも義姉さんも身内の恥だ、とそれっきり」
そして叔父さんは父と母の姉さんへの怒りがすさまじく、取り付く島もなかったらしい。その徹底さはもしも死んだ時でさえ、通夜にも葬式にも呼ばないように言っていたと。それでも行かせるべきだったと呼ばなかったことを悔いているようだった。その日は結局叔父を慰め、そのまま帰路についた。
結局、何の手がかりも得られず、電車に揺られている。叔父さんから渡されたアルバムを手に取った。中学生くらいだろうか。姉さんがたくさんの友人に囲まれ笑みを浮かべ写っている。僕の知らない姉の姿。いつも楽しそうに中央で笑っている。そうやってアルバムのページを進めるごとに一人の女が目についた。どの写真でもその女は姉さんの隣に写っている。姉と腕を組んだり、手をつないだりして。胸の動悸が激しくなった。その姿には覚えがあった。僕の頭にはある一人の人が思い浮かんでいた。姉さんの友達。名前を思い出すことはできなかった。家に友達を連れてくることなどなかった姉さんが、たった一人、連れて来た姉さんの親友。とても、とても仲が良かった。姉さんと髪型を一緒にしたり、姉さんと服の着せ替えをしていたり、姉さんがその人の真似をすることもあった。とにもかくにも仲が良かった。仲が良すぎるぐらいに。僕はあの人の顔はずっと怖くて思い出さないようにしていた。何が怖かった? アルバムのページをめくり、その女の名前を探す。その女の写真の下には、『美野弘子』という名前があった。
姉さんとその友達が家に泊まった日のことだった。その日はよくある父も母もいない日だった。そういう日に姉さんはその友達を呼んでお泊り会をするのが恒例となっていた。恒例の日の夜、トイレに起きると、姉さんの部屋から光が漏れていた。姉さんと友達はまだ起きているのか、と思うと同時に悪戯心が湧いた。いつも僕に早く寝なさいと注意する姉さんを逆に注意してやろうと姉さんの部屋に向かった。漏れる光を覗くとそこにいたのは二匹の裸の獣だった。そして蛇の様な目が僕の姿を捉えた。
「私ね千代ちゃんになりたいの」
そう言って何も気づいていない姉さんの後頭部を撫でた。あの日あの眼に捕えられてより依然、僕はあの眼から逃れられていない。
おぞましい記憶とともに、あの言葉が、蛇のような眼が頭の中で渦を巻いた。姉さんがなぜ家を出されたのかを思い出すと同時に、あの女は今どこにいるのだろうと嫌な汗が浮かんだ。もしや、いや、そんな筈はない。どうしようもない妄想が頭をよぎる。違う違う。そんな筈はない。そんな途方もない、現実味のないことを誰がするか、と否定しながらも、一方ではもしかしたらという疑念が強くなっていった。
それから僕は『美野弘子』について調べた。最初に姉さん達の母校を訪ねた。姉さんたちが在学していたときからいくらか経ったことと、彼女が目立たない生徒だったということで『美野弘子』について知っている人は少なかった。当時のことを知る教諭に話を聞くと、『美野弘子』は姉さんとともに退学したという話だった。彼女について得られた情報は微々たるものだった。大人しい彼女をいつも姉さんが引っ張っていたらしい。消極的で、目立たない子。彼女の家を訪ねても、ほぼ同じようなことを口を揃えて言った。退学をした後家を出て行って、行方を晦ましているとのことだった。
結局、一週間、『美野弘子』を探しても何もわからなかった。一週間何の成果も上がらず、こんなことを続けていると、不意にばかばかしくなった。ただの妄想にこんなにも必死になって。なぜこんなことをしているのか考えるとよぎるのはあの人。頭を振って、あの人の表情を忘却しようとする。しかしあの人の顔が離れない。じわり、と嫌な汗が額に浮かんだ。ただの妄想にこんなに必死になる理由、それはもちろんあの人が怖いからだ。あの蛇のような眼が、僕を捕えたから。だから僕は安心をしたい。姉さんと『美野弘子』が別人で、やはりこんなのはただの妄想だと、安堵したいのだ。
けれど露と知れぬ『美野弘子』の所在とともにあの人への不信感は増していくばかりだった。姉さんの顔をして、姉さんのように振る舞う『美野弘子』かもしれないあの人が。あの人との生活は着実に僕を蝕んでいた。精神は擦り切れてギリギリの状態で、いつ決壊するかも分からない。もう、叔父さんにすべて話してしまおうかという考えすら湧いてくる。この妄想を話す必要はない、ただ姉さんと暮らすことが苦痛だと言ってしまおう。そうすれば叔父さんなら僕に優しく手を伸ばしてくれるに違いない。疲弊した心が否応なしに救いを求め、叔父さんの家の電話番号を押した。
呼び出し音は響くが電話が繋がる気配はなかった。出かけているのだろうか、また掛けようかと受話器を耳から離そうとすると、
背後から伸びた手が、電話を切った。
「宗次、あなた、最近叔父さんと仲がいいわね」
心臓の鼓動が速くなり、思考の邪魔をする。
「この前も、叔父さんの家に行ってたでしょう。ねえ、何か困ったことでもあるの?」
まるで弟を心配する姉の様な白々しさで、僕に問いかけた。この人は何もかも分かっているのだ。僕が『美野弘子』について調べていることも、叔父さんに相談しようとしていたことを。そうして僕に意地悪く聞いているに違いない。姉の手が僕の手から受話器を優しく取り上げ、置いた。
何を言うべきなのだろう。叔父さんにあった理由? 叔父さんと電話しようとしたこと? 叔父さんに会いに行ったのにはちゃんとした理由があるのだから、それを言えばいい。何も後ろめたいことなんかない筈なのに、口は僕の意思なんか聞かず、全く違う動きをする。
「……あなたは、美野弘子、さん、ですか……?」
何を口走っているのだろう。
確証などはないし、何が違っているのかわからないし、もしかしたら何も変わっていない僕の姉かもしれない人に、僕は何を言っているのだろう。けれども、心のどこかでこの人は僕の大好きであった姉さんではないと叫んでいる。その思いだけが僕の心を突き動かす。誰かが姉さんと成り代わった。荒唐無稽の与太話。だからきっとそんなのは僕の妄想だと切って捨てて、この人も一笑に付すに違いない。だけどその人は姉さんの顔で姉さんとは違う妖しい表情を浮かべて、
「どこで気づいたの?」
と赤い唇を歪ませて笑った。
二人で暮らし始めてから、こうも直接的に対峙したことはなかった。じっと僕を見つめるその眼は僕が愛した姉さんのものではない。僕は目を逸らした。
「ねえ、何がいけなかったのかしら。千代ちゃんと同じだったでしょ? 食べ物の好き嫌いも、服の趣味も、癖も。全部全部同じなのに。ねえ教えてよ?」
心臓を鷲掴みにされたかのような緊張が体に奔る。冷たい汗が体を止め処なく流れる。
「あのね、宗次君。確かに私は千代ちゃんじゃなかった。」
「でもね、今の私はもう千代ちゃんなの」
この女が何を言っているのか分からなかった。耳を塞いでしまいたかったが、体は石のように動かない。女は訳の分からないことを喚いている。通報しようと考え、すぐにそれを否定した。こんなトチ狂ったことを言ってどうなるというのだ。僕の頭がおかしいと思われるだけだ。どうすればいいのか分からない。この女に対する対抗策を練らずに迂闊にもあんなことを言ってしまった自分を呪った。逃げようと頭を捻っている内にも訳の分からない女は僕が聞いていると思っているのか勝手なご高説を垂れている。姉さんを褒め称えるようなことを言った後、どれ程自分が駄目なものだったかを呪詛のように唱えている。うるさいうるさい。うるさくて考えはまとまらない。どうしようどうしよう。こんなのにどうして一対一で対処できるのだろうか。一人では無理だ。姉さん、力を貸して。いない姉に頼ったところで何も起きはしないが、目の前にいる女を見ながら姉さんのことを思う。一人じゃ僕にはできない。一人じゃできない。一人は嫌だ。姉さん帰ってきて。一人にしないで。思考がまとまらずぼうとしたタイミングを狙ってか、女の声が聞こえた。
「大丈夫。私はあなたを一人になんかしない」
唐突に、それまで唱えていた呪詛が嘘のように明るい声だった。その女は僕の思考を読み取ったかのように耳に触りのよい言葉を紡いだ。
「私はあなたのお姉さんなんだから。私だけはあなたの味方」
畳み掛けるかのように力強い、嘘偽りのない温かな姉さんのような女の声が僕の中に浸透していく。だめだ。ダメだ。駄目だ。
「ねえ、宗次。あなたがちょっと我慢すればいいの。そうすれば、」
ああ、分かってる。この女を姉さんだと認めていないのは僕だけだから。
「一人にならなくて済むのよ」
一人にはなりたくなかった。一人は寂しい。一人は辛い。父も母もいなくなってしまった。この人がどこかに行ってしまったら、僕はまた一人になってしまうのだろうか。それは、とてもとても嫌だ。僕には家族がいないと駄目なのに。
「叔父さんはあなたの家族にはなってくれないわ。だってあの人にはもう大事な家族があるんだから」
叔父さんの顔が頭に浮かんだ。あの優しい柔和な笑みを浮かべてくれる叔父さんは、きっと家族にはなってくれない。分かっている。だって叔父さんにはもう家族があるのだから。愛しい妻と、愛しい子供。温かい血の繋がった家族があるのに、わざわざ僕なんか入れてはくれないだろうということは薄々分かっていた。それでも、あの人ならと思ってしまった。あまりにも優しいから、勘違いしてしまった。この人は僕の家族になってくれるんじゃないかと。冷水を浴びせられたかのように、頭はクリアになる。叔父さんは、僕の家族にはなってくれない。
「でもね、何も怖がることないわ。私がいる、だからあなたは一人じゃない」
優しい言葉はまるで毒のように僕の中に溶け込む。恐ろしさから蹲り震える体を搔き抱いた。背後からゆっくりと抱きしめられる。僕のすべては今この人の中にある。喜びか恐怖か分からない涙が目から溢れ出す。
「あなたと私は二人きりの家族なんだから」
父さんと母さんが僕と家族になろうとしていたように、この人は僕のたった一人の家族になろうとしている。抱きしめられた背中は唯々暖かくて。もういい。もういい。妥協してしまおう。叔父のように家族になってくれない人よりも、確実に家族になってくれるこの人を姉さんとして認めればいい。そうすればこの人とは誰に憚ることもない、新しい家族になれる。
頭は硬直したように抵抗という言葉すら頭に浮かぶことはなかった。蛇のように僕に巻き付くその人にされるがままに艶めかしい指が体を這う。
「……姉さん」
怯えた声で姉さんを呼ぶと姉さんは一際甘い声で囁いた。
「ねえ、宗次……あなたは私のたった一人の家族よ。」
ねとついた姉さんの声が耳に糸を引く。音など忘れたかのような静けさの中、僕たちは動かなかった。ただ背中にある体温がここを現実だと僕を引き留めている。
途端、静寂を破るかのように、電話が鳴った。僕に回した拘束が説かれる。
叔父さんが掛けなおして来たのだろう。ディスプレイに映る叔父の電話番号をじっと見つめる僕に姉さんは笑って言った。
「電話、鳴ってるわよ。早く出たら?」
記された住所のインターフォンを鳴らす。
「はーい」
という声とともにすぐさま扉が開く。
「あれ? 叔父さん」
明るい声とともに心配した彼の元気な姿が現れたことに安堵した。
「うん? ちょっとお姉さんと話がしたくてね。今、大丈夫かい?」
「ああ、どうぞ上がってください。」
「いやあ急に押しかけちゃって悪いね」
「いえいえ、おじさんにはいつもお世話になってますし、今日は特に用事もありませんでしたから、どうぞお気になさらず」
そう言って、宗次君の入れた紅茶を飲んだ。この間の暗い雰囲気をまとった宗次君の姿がもうないことに安心した。
「今日はどういった赴きで?」
「ああ、二人が仲良くやってるか、見に来たんだよ。大丈夫? 何か困ったこととかないかい?」
「ええ、大丈夫です。ねえ、宗次」
「うん。大丈夫。楽しくやっているよ。まあたまに喧嘩はするけどね」
茶化したような宗次君の答えに千代子ちゃんは宗次君の肩を叩いた。
「いやあねえ、全くこの子ったら……」
そんな風に言いながら千代子ちゃんは楽しそうだった。言葉の端々から普段の二人の仲の良さが感じ取れた。
あんな顔をして宗次君が家に来るから心配していたのだけれども……。取り越し苦労だったか、と頭を掻いて苦く笑う。
「だって私たち、二人きりの家族ですから。」
そう言って、千代子ちゃんは笑った。