後編
俺を激しくなじる声。
聞き違いではない。何度も何度も同じ台詞を繰り返す彼女。しだいに声が大きくなり何時しか叫んでいた。
「おおおお…おおおおおお………いやだーーーーー! お前だーーー!お前が無理に連れて来たーーー! ああああああああああ! お前のせいだああああああああああ!」
顔を向けた彼女は唇を戦慄かせ、瞬きを忘れたままで涙を溢れさせている。
「嫌だって言ったのに! 嫌だって……無理に連れて来た。お前が連れて来たんだ!」
寒気を覚えた。
涙を流しながら俺を睨みつけ激しくなじる事を止めない。けして車から降りようとはしないが助手席のドアに身を寄せ縮こまるように震えている。
無理に連れて来た?
来たくなかった?
嫌だと言った?
俺が悪い?
お前?
どの台詞にしても意味が分からない。聞き直そうとするが叫ぶ彼女の声が邪魔をする。泣き叫び続ける見たことも無い彼女がそこに居た。
時が経つほど尋常では無くなり、肩に触れると電気が走ったかのようにその手を撥ねつける。
経験した事の無い恐怖が身体の芯に澱のように溜まり、俺は鳥肌の立った自分の腕に視線を向けた。ハンドルに伸ばす腕が小刻みに震え、ねっとりとした汗が手を滑らせる。
ここに居たらまずいのか。
キーを差し込もうにも手が震えた。
何をやってる、急げ。もしかするとエンジンが掛らないかもしれないと新たな恐怖が頭をもたげる。ここには居たくない。早くしろ、早くしろ。祈るようにキーをまわした。
掛かった。ギアをドライブに入れると車は動いた。
目を吊り上げて泣き叫ぶ彼女。口から発せられる声は言葉にならず唸りながらとめどなく涙を流している。そんな彼女を視界の端に捉え、木々で造られたトンネルへと速度を上げて突っ込んで行く。後ろを見たくない。
ルームミラーにもフェンダーミラーにも視線を向けずに前だけを見てアクセルを踏む。
緩いカーブでタイヤが砂利にとられ車体が流れる。石が跳ねて車の腹に当たり続ける音が彼女の唸り声と共に車内に響く。
「おおおっおおおおお………うううおおおおおおお…」
遠い。
原生林を切り裂いて造られたような道が終わらない。カーブを超えても越えても見えて来ない出口。隣には唸り声を上げる彼女。そしてシートにも伝わってくる石の跳ね当たる振動。既に陽も落ちたのか酷く暗い。
昼間でも薄暗い林のトンネルは斜陽を完全に遮り闇を作り出していた。ハンドルを握る腕から力が抜けない。
ライトを遠目にアクセルを更に踏む。まだか、この道はまだ続くのか。浅く速い呼吸音が自分の口からのものだと知った。
突然に抜けた。
一時停止の標識があったのかどうかも分からず咄嗟にハンドルを左に切っていた。T路地だ。対向車線側に大きく膨らみながら後輪が悲鳴を上げて流れてゆく。国道から観光案内所があった町へと繋がる道路に出ていた。
車の勢いにハンドル捌きが追いつかない。何度も逆ハンドルを切るがその度に車体が傾き車内を大きく揺さぶった。シートベルトがロックされたのか、身体に激しく食い込んでくる。
気が付くと路肩に車を停めて俺は大きく息を吐いていた。立て直す事が出来たようだ。脇の下や背中だけでは無く、全身が汗でぐっしょりと濡れている。外はやはり夜に変わっていた。ひとつの灯りも見えない闇が全てを覆っている。
静まり返った車内で呟くような彼女の声だけが聞こえた。
「いやだ…いやだ…いやだ…」
もう叫んではいない。唸ってもいない。声を震わせ同じ台詞をいつまでも繰り返している。
ここをすぐに離れなければ。
急き立てられるように車を出した。
メーター類が僅かに灯すブルーの明かりが助手席をぼうっと映し出す。しかし彼女の表情は分からない。いつの間にか止まっていた音楽。聞こえてくるのはエンジンの音と彼女の呟き。
太腿の間に両手を挟むようにしている彼女。そんな彼女が座る助手席の窓には肉眼では捉えきれない闇が音も無く広がっていた。昼間ですら光を拒む深い林が走る車を嘲笑うように横たわっているのだろう。
とにかく国道に出れば…
やはり後ろは見たくない。まだ振り返りたくない。見たくない。見たくない。見たくない。
街灯が無い真っ暗な道でひたすら車を走らせる。助手席からの呟きにすすり泣きが混じり、それが耳にこびりつく。
「嫌だったのに……嫌だったのに……」
前方に一時停止の標識が見え国道に出た。
疎らな街灯しか付いていない田舎の国道。だがその灯が心底嬉しかった。明かりが車内を照らしては去っていく。その度に彼女の生気の無い横顔を浮かび上がらせた。
帰ろう。早く家に帰ろう。
前方を見据える彼女は何も喋らなくなった。瞬きも忘れたように。
会話の無い車内。タイヤがアスファルトを擦る音が異様にハッキリと聞こえる。
まだ太腿に両手を挟んでいる彼女。その手を俺は掴んだ。振り解こうとする彼女の力は思った以上に強い。
なんと声を掛ければ良いのか言葉が浮かばない。だが暴れるその手を離さないと決めた。
あの町はなんなんだ。
観光案内所の女は何者だ。
滝がどうした。
感情の読めなかった女の顔と、滝と川の風景が思い出される。胃は鉛が入ったようにずっしりと重い。
車を脇に停め、携帯で彼女の家に電話を掛けると彼女の姉が出た。
「え……なに? なにかあったの? どういう…………え……無事なの? うん…うん…なにそれ…嘘でしょ! え……お塩? うん分かった。大量ね。今からすぐ買いに行く。熱いお風呂も用意しておく。え…ため湯じゃない方がいいって? うん…うん…分かった。ならシャワーだね。とにかく気を付けて…待ってる」
俺達の街に入った。ガソリンスタンドやパチンコ屋が建ち並ぶネオンの明かりが眩しい街。赤信号で並んだ車に見知らぬ人の笑顔がぼんやりと映る。助手席の彼女は何も言わない。
俺は関節が痛くなるほど歯を食いしばっていた。繋いだ手を通して何かを流し込むように力を込めている。
彼女と姉の二人が住むアパート。
夜の10時ごろ玄関前で塩の袋を抱える彼女の姉。街灯に照らされた青白い顔が夜目にもハッキリと見えた。
怯えが俺を包み込もうとしていた。ずっと耐えてきた気持ちが折れそうだ。彼女を抱えて車から下ろし顔を見ると目の奥に何かが見えた気がして怒りが湧く。ふざけやがって、絶対に逃げないからな。
駐車場に彼女を立たせ、下着の果てまで毟り取るように剥ぎ取ってゆく。叫びながら走ってくる彼女の姉。
裸の彼女は身体を隠そうとしない。
塩を奪い取るように受け取り、彼女の頭、顔、首、胸、腹、背中、股間、尻、両足に塩を何度も何度も叩きつけた。
微動だにしない彼女だったが、次の瞬間、尿が迸った。
夜の駐車場で全裸の彼女。太腿を伝ってアスファルトに流れ落ちる尿の音が続く。
街灯に照らし出されている彼女の裸体に目をやりながら、俺は自分の鼓動を聞いた。振り返ると尿で濡れた下腹部に視線を向ける彼女の姉が震える手で数珠を握りしめていた。
彼女を担ぎ家に飛び込み、俺も衣服を脱ぎ捨て風呂場で抱くように彼女を洗う。しっかりしろ。俺がついてる。ずっと傍にいる。彼女の身体を強く抱きしめ唇を吸う。俺を見ろ、俺を見ろ、俺以外を見るんじゃない。
視線を感じる。誰だ。何処からだ。
風呂場の鏡に張り付く女。その女と目が合い弾かれるように振り返った。裸で抱き合う二人を見ている彼女の姉だと分かり、握った拳から力が抜けてゆく。
ベットに寝かせ手を握り続けた。微かに寝息が聞こえる。眠ったのか。畜生、畜生、絶対に元に戻してやる。
俺の肩に毛布が掛けられ自分が裸なのだと知った。見上げると、闇の中でも彼女の姉の瞳が不思議とハッキリ見える。まだ朝は遠い。
「何があったの? この子…大丈夫よね?」
眠っている彼女。大丈夫だ、大丈夫だ、俺がいるのだから絶対に大丈夫だ。何度も彼女の意識を確かめるため顔を寄せるが目を覚まさない。どうすればいい、どうすれば、どうすれば…
恐怖と怒りが入り混じり、俺は吐き気を憶えた。
「その滝…聞いた事がある。でもどうして…」
宙に視線を彷徨わせる彼女の姉。そして小さく、「怖い」と呟き俺の身体に身を寄せる。その細い身体は酷く震えていると感じたが、その震えは俺だったのかもしれない。
窓から朝陽が差し込むまでそうしていた。
気が付くと普段の彼女がベットの中から俺を見ている。昨夜の事は何も言わない。俺も聞かなかった。
いろんな地方に、様々な場所がある。
神聖な場所、御利益のある処。だがそこは本当にきれいな場所なのか。
多くの人が訪れる。何かに縋り付くためだったり、自分の境遇を嘆くためだったり。
「なんで…どうして私だけが…」
「ちくしょう、ちくしょう、いつもいつも俺だけが……」
「嫉ましい…普通の暮らしをしている人が嫉ましい……あの人も、この人も……みんな狡い」
人の嘆きや恨みの念が捨てられ続ける場所。多くの人がこぞって訪れる場所も、そうではないとは限らない。
神聖な場所だと思われている処であっても、いつのまにか、重たい思念のゴミ捨て場に変わっていたりするのだろう。
俺は今でも思い出す。王様の耳はロバの耳を。




