前編
王様の耳はロバの耳。
ギリシャ神話の一部だとも言われているイソップの寓話。日本でも広く知られている。
子供の頃に自分で本を読んだのか、それとも母に読んでもらったのか、俺も何となくだが覚えている。
たしか、床屋の主人が王様を散髪した際、ロバのような耳に気が付いてしまうのが始まりだ。固く口止めをされるが、喋りたい欲求に駆られ穴を掘り、ことある度に、「王様の耳はロバの耳」と、その穴に向って叫ぶ床屋の主人。そしていつの間にか埋められた声が溢れ出し、国じゅうに王様の秘密が知れ渡ってしまう。
エンディングは覚えていないが、よく考えると気味の悪いお話し。
埋められた声。
土地に染み込む人の念。
溢れ出すもの。
二十代の頃、ある出来事に遭遇した俺は、不思議とこの寓話を思い出す。
「お前のせいだ…来たくなかった。お前が連れて来た。お前のせいだ……なんで…なんで…なんで連れて来た」
4時間前
当時付き合っていた彼女を助手席に乗せ、日帰りのドライブに出掛けていた。秋だった。
行き先も決めずに車を走らせる。
とにかく時間が許す限り傍にいた二人。俺の性格を知る彼女が、いつも上手に俺を支えてくれる。
その日は日曜日のせいで道が混み、俺はうんざりしていた。
「ちょうど紅葉の季節だもんね。あの右側のって凄いね」
道路の両側には、赤々と燃えるような葉を茂らせた樹木が、競い合うようにびっしりと並び立っている。まるで別世界のような景色。観る者の意識を奪うほどの存在感に俺は目眩を覚えた。
多くの観光客が見惚れながら車を走らせる。当然、車は数珠繋ぎとなり先頭は見えない。
緩い右カーブに差し掛かり、何気にフェンダーミラーに目をやると、うしろにも、どこまでも繋がる車の群れが見えるだけだった。
標高の高い場所を通る山路。
国道ではあるものの片側一車線。ナビで抜け道を捜しながら運転しているのだが、そんなものは何処にも無い。
紅葉にさほど興味の無い俺と彼女は知らなかった。今、車を走らせている十数Kmが紅葉の名所である事を。
路肩に車を停めて記念撮影をしている大勢の家族連れやカップル。それもあってスピードメーターの針が時速20キロを越すことが無い。距離にするとほんの20Kmもない区間なのだろうが、そこを抜けるのに2時間は掛かった。
2時間前
「今のラーメン、けっこう美味しかったね」
山間を抜けると車もスムーズに走り始め、それに比例するように、道路脇に店を構える飲食店の駐車場にも空きが見え始め、俺と彼女は遅い昼食にありつけた。
目的地のないドライブ。
紅葉の名所は凄まじい混雑で、ノンストップで車を走らせた。それでも楽しそうに話し掛けてくる、そんな明るい性格の彼女のおかげで、ノロノロ運転にも俺は怒りを現さずに済んでいた。
「あれ? 曲がるの?」
俺は別の国道に繋がる枝道にハンドルを切る。
「そっか、ぐる〜って回って行くんだ。そうだよね、帰りもさっきの道だったら、ちょっと嫌だもんね。楽しそうな何かあればいいね」
帰りの道を考え、俺はあえて別の国道に繋がる道を選んだ。その方が距離は伸びるがスムーズに走れるはずだ。
初めて通る道。
ナビがあるから迷うことは無い。それに新鮮だった。彼女も初めてのようで、「ここ何処? 何町?」と、走り去る景色に目をやりながら話し掛けてくる。
1時間前
枝道から別の国道に出ると、道の駅の標識が見えた。トイレに寄り、二人で腕を組んで店内を回ると初めて目にする特産物が多い。
「これ見て。なんだか面白いよ。何これ? あはははは、可愛いー。ねぇねぇねぇ、ソフトクリーム食べようよ」
俺の胸に寄り添う彼女と、互いのソフトクリームを舐め合いながら車に戻る。改めて駐車場を見渡すとガラガラに空いているのに驚いた。
「日曜日なのに、ずいぶんお客さん少ないね。今って何時?」
そう聞かれ腕時計を見ると、3時半を過ぎもうすぐ4時だ。秋の夕暮れは早い。足元の影もずいぶんと長い。
再び走り始めると、やはり車は疎らだった。来る時に通った国道ーーー真っ赤な紅葉に囲まれた山間の国道で、先頭が見えないほどに車が繋がっていたのがウソのようだ。
30分前
あと1時間もしないうちに日が暮れる。看板が見えた。
国道から左に折れると町があるようだ。聞き覚えのある町名だが行った事の無い町。助手席の彼女に聞くと、やはり知ってはいるものの、行ったことは無い町だと答える。
面白半分でその町に向かった。
妙に白い。
湯気か煙が立ち込めたように視界が悪い。もしかすると霧なのかもしれない。
進めば進むほど、その霧のようなものは晴れるどころか厚みを増してくる。国道を外れてから15分程度なのに雰囲気が一変した。
重い。
車内に居ても圧し掛かってくるような空気の重さを感じる。これはなんだ。
夕方とはいえ、さっきまでは晴れていたはずだ。それが今では空が見えない。雲に覆われ太陽が隠れてしまったのではなく、空自体が見えない。白くて重たい空気が辺り一帯を包み込んでいる。
町の入り口付近。
視界が悪いせいか、歩いている人影が見えない。
俺は前のめりな姿勢で、ゆっくりと車を走らせる。彼女の口数が妙に少ない。
変だ。
なにかがおかしい。
来た道を戻った方がいいのかもしれない。
ブレーキを踏み掛けた時、薄っすらと見えてきた建物。三叉路の角に建っている平屋の小屋。まるで交番のような外見。観光案内所と大きく書かれているが、立ち寄っている観光客らしき人は見当たらない。
無人か。
彼女に視線を向けると、無表情で黙って前を見ていた。やはり観光案内所を見ているようだ。
せっかくこの町に寄ったのだ。案内所があるくらいなのだから、観光名所でもあるのだろうと彼女に告げ、俺は車を降りていた。
案内所の扉はガラスの引き戸で近寄ると中が見える。予想に反して人が動いていた。
中に入ると紺色の制服を着た若い女性がカウンターの中で頭を下げて迎えてくれた。そして訓練された笑顔を崩すこと無く見つめてくる。
「来た道を5分程度戻ると左に曲がる細い道があります。林を抜ける道です。その道をずっと行きますと滝に出ます」
他に観る処は無いと受付の女性は言う。なんとなく感情の読み取れない女性。
こんな田舎で誰が教育したのか零れんばかりの営業スマイルで聞き取り易い発音。無愛想でもなければ、逆に媚を売る雰囲気でも無い。美人の部類に入る二十代に見える女性が一人で案内所を任されているのに不安な素振りも無く堂々と対応している。しかし感情の見えない女。
滝?
他に何もないのか?
来た道に曲がる所などあったか?
何度聞いても答えは同じ。
「観る処は滝だけですが看板はありません。ゆっくり戻って行けば曲がる所を見落としたりはしません。ほんの5分程度の場所に左に曲がる道があります」
パンフレットや地図の類は無いとにこやかに言う女。
車に戻り、滝があるらしいと彼女に告げて車を走らせる。田舎のせいでナビの詳細が効かず、滝に続く道など出てこない。助手席の彼女は何も言わない。
相変わらず霧のようなものに覆われている道をゆっくりと車を走らせる。
来る時は分からなかったが左は原生林なのだろう。陽の光が入らないほどの木々の密集がどこまでも続く。もうすぐ日没だ。
見つけた。
確かに左に入って行ける道だ。
迷わずハンドルを切る。
舗装された道ではないが、土と砂利が圧でも掛けたように硬く踏みしめられた凹凸の少ない砂利道。深い林を切り裂いて造られた道。
走る車の両側には相当に背の高い樹木がどこまでも続く長いトンネルを作り出している。
一本一本の木々が林を形成しているはずだが林自体が一つの生き物にように異様な圧力を発散しているのを感じる。
道が狭い。
対向車とすれ違えるのか。
だが後続車も来なければ対向車も無い。
いつまでも終わらない林のトンネル。先が見えない。おそらく道は左右のどちらかに曲がっているため出口が見えないのだろう。
どこまで続くのか。ずいぶんと経った気がするがさっきこの道に入ったばかりなのかもしれない。
道は幾度か緩いカーブを描いたがそこを超えても出口が見えてこない。まるで別世界に迷い込んでしまったような違和感を覚え恐怖すら芽生え始める。
焦りがアクセルペダルを踏む足に伝わり、知らず知らずに速度が上がる。彼女は何も喋らない。
いきなり出た。
それは突如現れたとしか言いようが無い。
異様な空間が広がっている場所に俺達は出ていた。
地面には土が見えず少し大き目の石だけの河原。
そうとうに深かった林はその場所だけを避けるように途切れている。まるで上空から楕円形に木々をスッポリと抜き取った跡のようだ。
10mほど先にある川は不思議と流れているようには見えない。車内から左を見るとかなりの高さから滝が落ちている。それでも川は流れているようには見えない。
まるで動いていないような川。いや、動いていないように見えるのは川だけではない。空気そのものが動いている気がしない。薄暗いせいか。
ここは何処だ。
時間すら止まっているのではと思えてくる。
車から降りようと彼女を誘うが、
「いやだ」
そう言った彼女は俺を見ようともせず俯いて顔を上げない。具合でも悪くなったのか蒼ざめた横顔。そんな彼女を残し俺はドアを開けた。
空が見える。
霧のような白いものに覆われていない場所。四方が高い木々に囲まれているせいか風が無い。動かない空気。秋の夕暮れにしては不思議と生温かい。
滝の傍に寄る。
さほどの水量ではないが途切れる事なく落ち続けている滝。滝の細さのわりには川は太い。そのせいで流れているようには見えない川。
風も無く波立つ事をしない水面。勾配もなだらかな場所なのだろう。細い滝から押し出され漂うように移動する水。それがこの川だった。
この場所の何を観たら良いのか。
滝があって川があって、ただそれだけの場所。あの女はなぜこんな場所を勧めた。
木々に囲まれ遠くが見えないせいで日が落ちてしまったのかが分からない。暗い。夜が近づいている。
車に戻ると声が聞こえた。
「嫌だったのに……嫌だった………来たくなかった……来たくなかった……」
呟くような小さな声は彼女の声だ。
聞き取ることは出来たが意味が分からず聞き直す。
「だから嫌だって言ったのに! お前が連れて来た! お前のせいだ! お前のせいだ!」




