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蒼天に咲く花  作者: 結人
2/2

第二章〜雨曇り〜

 青い草原の中、白い影が颯爽と走り抜けていく。

 頬を撫でる風と共に草と花をなびかせて走る白い影は、草原が森に変わるあたりで失速し、ゆっくりと木々の中へと姿を消した。


「ちょっと急いだから疲れたでしょう? もう少ししたら泉があるから一緒に休もうね」


 天花の手が愛馬の白い鬣をそっと撫でると、白馬は小さく頷くように鼻を鳴らした。

 草原の民は男女を問わず乗馬の技術に長けている。馬と共に生きる、と言っても過言ではない。

 天花をその背に乗せている白馬は天花自信の手で育ててきた"我が子"のような存在だった。

 白馬は泉のほとりにいる人物と、葦毛の同胞を見つけて高く嘶いた。


「ちょっと、びっくりするじゃないの!」


 静かな森の中から騒がしく姿を現した一人と一頭をみて葦毛の馬も高く嘶いた。

 その横では葦毛の主がクスリと笑っていた。


「すごいな。天花が来た途端に薄暗い森が一気に明るくなったよ」


「それは褒め言葉ですか? 修龍様」


 天花の体がふわりと馬上から宙に舞い、音もなく地に爪先が触れる。


「その"様"っての、やめて欲しいな。天花の前では一人のただの男でありたい」


「正直者ですね、修龍さ……」


「ほら、またつけようとしてる。俺は堅っ苦しいのは嫌いだ。天花は俺の嫁さんになるんだ。

嫁さんに"様"付けされたら始終気が休まらないよ。俺、気疲れで過労死だな」


 悪戯っぽくニッと歯を見せて笑う修龍につられて、天花もクスリと笑い出した。

 この目の前にいるあどけなさを残す少年が大陸でも戦闘に優れた部族、龍族の長だと誰が思うだろうか?

 一見すると十八歳という歳の頃よりもやや幼さを残す、普通の少年と何ら変わりない。

 修龍の手がクスクスと笑い続ける天花の頬にそっと触れた。

 天花はぴくりと肩を震わせた。

 明るく笑う修龍の手は見た目とは裏腹にごつごつと堅く、節くれだっていた。

 苦労を知る者の手。

 天花はその手にそっと自分の手を重ねた。



「天花、俺は戦場へ行く」


「えっ?」


 驚いて顔をあげ、見上げた修龍の顔には明るい笑いは消えていた。


「ちょっとなぁ、盗賊共が徒党を組んで悪巧みしていやがる。言い換えれば大規模な盗賊狩りだ」


 修龍の手が天花の頬から離れ、力強く天花の細身の体を抱き寄せた。


「和解ができればいいんだけどさ、それも難しくて実力行使だ。さっさと終わらせて必ず帰ってくる。だけど、もしかしたら……」


「その先は言わないで」


 天花のほっそりとした人差し指が修龍の唇に触れ、その言葉を遮った。


「私は貴方の帰りを待っています。貴方が帰ってきたら私達は龍の里で婚礼を挙げる。そうでしょう?」


「あ……あぁ、そうだ。俺、必ず帰ってくるから。そしたら婚礼だ。……でもさ」


「何?」


 天花は不思議そうに小首をかしげる。

 天花を抱く修龍の腕が痛いほど力がこもり、さらに強く抱きしめていた。


「抱きたい……」


 短く囁くように修龍の口から零れ落ちた言葉は天花を大いに驚かせ、混乱させた。


「ごめん、いきなりこんなこと言って……けど、中途半端な気持ちで言ってるんじゃない。

婚礼を挙げれば君は龍族の長の妻だ。跡取りが生まれなければ俺は妾を娶らなきゃならない。全てが長としての行動で、俺の意思は関係なしなんだ……劉修龍として、ただ一人の男として……

テグツェツェグ、君を大切な恋人として抱きたい」


「修龍……」


 二人の間にはそれ以上、言葉はなかった。

 互いに互いを寄せ合い、惹きつけ合い、一つに重なっていった。



 二人の鼓動の音が一つに重なっている。

 森の中をやや冷たい風が吹き抜けても二人は冷たさを感じてはいなかった。

 熱を帯びた鼓動を響かせながらも、二人の脳裏にはちらり、ちらりと一つの言葉が浮かんでいた。


"今生の別れ"


 相手は訓練されていない盗賊とはいえ、戦場では何が起こるか計り知れない。

 修龍の腕の中でその鼓動を聞きながら天花は小さく震えていた。


「心配しなくていいって。こう見えても意外に強いんだぜ、俺」


「修龍、さっき、私の名前を草原の言葉で呼んでくれたのは何故?」


 天花は顔を修龍の胸にうずめたまま、小さく尋ねた。


「だって、君の名前、テグツェツェグ・ハーンだろう? 別に普通のことじゃない? どっちの名前で呼ばれたい?」


 修龍は天花の髪を指に絡めながらにこりと微笑んだ。


「私は……里で暮らすのだから里の名前で」


 今まで顔をうずめていた天花が初めて顔をあげ、真直ぐに修龍の瞳を見つめた。

 その瞳の奥には何かを決意したような、強い光が宿っていた。

 修龍は力をこめて天花を抱きしめる。


「ごめんな、なんか名前を奪っちゃうようなことになって」


「名前が変わっても私は私よ。中身が変わってしまうわけではないし……それに、里の言葉にしただけだから」


「じゃあさ、俺にも草原の言葉で名前をつけてよ。俺ってどんな感じ?」


 天花はじっと、修龍の姿すべてをなぞるように見つめた。

 短く、黒に近い濃紺の髪。

 透きとおる真紅の瞳。

 その顔にはまだあどけなさを残し、それでいて逞しさもあり……


「ツァガン」


 天花は短く一言、草原の言葉を口にした。


「ツァガン? どういう意味?」


「白い……という意味です。修龍、貴方の心は純粋でまだ何色にも染まっていない"白"そのもの。だから……」


「ツァガン(白)か……良いな。俺たちの間に子供が出来たら、その子にも草原の名前をつけてやろう」


 優しく抱き寄せる腕の中で天花はくすりと笑う。


「気が早いわ。男の子だったら"龍"の字を使わなければならないのでしょう? 私が草原の民だから?」


「違うよ。俺の子供には俺と同じ思いをさせたくないんだ」


 天花は修龍の言葉の意味がわからず小首をかしげた。

 里の暮らしは草原の暮らしと違い、欲しい物は手に入る。ましてや長家の若君として育った修龍に一体何の不満を抱いているというのだろうか?


「俺さ、里の外を知らないんだ。ずっと縛り付けられて……たぶんこれからも。俺の跡を継ぐ子にはもっと色々なことを、外の世界のことを知って欲しいんだ。まずは母親である天花、君の育った草原の暮らしのことを。北の玄武、南の朱雀、西の白虎……他の部族のこともよく知って、共存できる術を見出せる長になって欲しい」


「修龍……貴方はまだ若いのだから、まだ時間があるでしょう?」


「ない。俺はもう既に長だから……自由に外へは出られない。でも、短命だった先代、先々代の長よりも長生きする自信がある。子供が一人前に成長するまで、しっかりと見届ける自信がある」


「修龍……」


 やはり"ツァガン"なのだ……

 子供のような表情をするかと思えば、急に大人びた顔をする。

 この真っ白な心はこの先一体何色に染まるのか……

 修龍はこれから戦場へと赴く。

 その手を血の赤に染めたとき、彼の心は何色に染まってしまうのか……

 天花はただひたすら、修龍の鼓動にその身を委ねた。



 触れ合う鉄の音がその場の緊張感を高める。

 たかが盗賊。しかし、南の勢力に対抗するためにはこの盗賊の砦が目障りだった。

 修龍にとっては初めて自ら指揮を取って挑む戦となる。修龍に不満を抱く者達にとっては器量を問う絶好の好機でもあった。

 今後の行く末も兼ねた討伐に、人々の期待と不安が大きく渦巻く。


「修龍、これをしっかり頭に叩き込んでおけ」


 礼龍の手から渡された地形図には何も記されている様子もなく、数本、線が引かれているだけだった。

 きょとんとしながら地形図と向き合う修龍の頭を、ぽん、と礼龍が軽く叩いた。


「じきに暗くなる。今日は朔月夜、灯りは欠かせぬな」


「灯り? ……火か」


 修龍は慌てて近くにあった燭台に火を灯し、そっと地形図を炎にかざした。

 白い布に墨を落としたかのように、白紙だった地形図はゆっくりとその姿を現した。


「何だこれ? 向こうは丸裸のようなものじゃないか。こんな見通しの良いところに砦?」


「そうだ。その分、こちらの動きも丸見えだ。どうする?」


 修龍は腕を組み、瞳を閉じた。

 丸裸の相手に攻め入ることは簡単そうに見えて難しい。礼龍の言うとおり、こちらの動きも丸見えな上、地中に罠が潜んでいないとは言い切れない。

 無理を通して攻め入れば多くの犠牲者が出る。人口が減りつつある里の貴重な人材を無駄にはできない。


「兄上、やめておこう。無駄が多すぎる」


「修龍、お前、自分が何を言っているのかわかっているのか?」


 修龍は眉一つ動かさずに掌の中で地形図を丸め、いきり立つ兄、礼龍に手渡した。


「わかっているさ。明日あたり、血気盛んな皆さんは俺のことを臆病者と罵るだろうな。だけど、今はまだ時期じゃない」


「ではいつ頃が時期だと思う?」


 修龍は天井を仰いだ。

 兄の問いに対する答えはとっくに見出していた。しかし、その答えを口に出せば目の前にいる兄は烈火の如く怒り出すだろう。

 胸のうち全てを打ち明けるべきか、否か。

 先程灯した燭台の炎のように、修龍の心は揺れていた。


「修龍?」


 揺れ動く炎を吹き消すかのように、修龍に答えを催促する兄の声は修龍の思考を止めた。

 何か言わなければ、この場から開放されそうにない。

 天井から足元へと視線を落として


「まぁ、そのうちに」


 と短く答えると、兄に背中を向けた。

 後ろから、落雷の轟音のような怒鳴り声が飛んできたが、耳を塞いで聞こえないふりをした。



 すっかり日も落ち、墨をこぼしたように暗く、肌寒さが残る部屋で、礼龍は手にしていた地形図を卓の上に叩きつけた。

 普段は物音一つしない礼龍の部屋には珍しく、壁中の書架に並べられた書物たちを振るわせるほどの大きな音が響いた。

 怒りと失望が胸を締め付ける。


「何故だ。私が長の立場なら南の砂漠の民、北の草原の民を昔のように支配下に置き、劉家の権力回復に努める。劉家の権力が回復すれば民の心も落ち着き、力で守ることも出来る。それがこの里を安泰にする術ではないか」


 礼龍はもう一度己の拳を卓の上に叩きつけた。

 握り締めた掌からつぅと一筋の血がこぼれ落ちる。


「修龍には何故それがわからんのだ」


「では、貴方が長の座に就けば良い」


「誰だ!」


 礼龍は辺りを見回すが、部屋の中には人影も見えなければ、人の気配すら感じられなかった。礼龍の怒鳴り声に卓の隅に丸めて置かれていた書簡がころりと床へ落ちた。

 眉間に皺を寄せながら怪訝そうに書簡を拾い上げると、再び礼龍に語りかける声が部屋に響いた。

 闇に忍ぶ声。しゃがれ、どこか生気のない老人の、男のものとも女のものとも思える不思議な声音が礼龍の胸の奥底を貫いた。


「簡単なことだ。あれを殺せば貴方以外に長になれるものはおらぬ。全てが手に入るぞ。宝珠の力も、あの女も」


 ぴくり、と微かに礼龍の肩が動いた。しかし、表情は仮面のようになにも変わらず、ただじっと部屋の四隅を真紅の瞳で睨みつけていた。


「私を甘く見るな。そのような馬鹿げた誘いに容易く乗るほど愚かではない。どこの輩かはわからんが、早々に立ち去れ。さもないと……」


 礼龍は壁に掛けてあった剣を手に取り、素早く鞘から抜き取り、鋭く空を突いた。

 薄い刃先が空気を震わせ、小さな鈴の音のような澄んだ音を部屋に響かせた。


「貴様の喉もとを一突きにしてやる」


「まあよい。今日のところは退こう」


 不思議なしゃがれ声は喉の奥から搾り出されたような笑い声を残して消えた。

 くくっという笑い声の余韻が修龍の耳に残る。


「くそっ、腹立たしい」


 礼龍はもう一度、剣で空を斬り、辺りを見回してから鞘に収めた。


 宝珠の力とあの女。


 しゃがれ声の誘惑がぐるぐると礼龍の胸の中で渦巻いていた。



 龍の里では唯一の診療所、華家の庵の中に修龍の姿があった。

 元化が修龍の目の前に淹れたての茶を置いた。 


「修龍様、どうかされたのですか?」


 目の前にある茶にも手を伸ばさず、押し黙ったままでいる修龍の様子が気になるのか、元化は修龍の顔を覗きこんだ。

 修龍の瞳は相変わらず澄んだ真紅の色をしているが、じっと床を見つめているのか、それとも床を通り越してどこか別の場所をみているのか、わからなかった。

 元化の手が修龍の頬をそっと撫でたかと思えば、次の瞬間、何を思ったのかぎゅっとつねりあげた。


「いてっ! 何するんだ!」


「あぁ良かった。生きていらしたんですね。あんまり動かないから死んでいるのかと思いました」


 元化はにこりと笑いながら修龍に茶を勧めた。

 修龍は不機嫌そうに眉間に皺を寄せながらまだ湯気の立つ茶に手を伸ばした。


「修龍様、元気がないですね。また礼龍様と喧嘩でもしましたか?」


「まぁ、そんなところだな。それ以上に、明日役場へ行くのが重い」


 ほんのりと暖かく臓腑に染み入る茶と、部屋中に広がる薬草の香が少しずつ修龍に落ち着きを取り戻させた。


「俺は駄目だな。また兄上を怒らせちまった。本当は兄上の期待に応えられるような長になりたいんだけど、どうにもな……一族や劉家の尊厳とか伝統とか栄達とか、俺にとっては二の次だ。この里で暮らす民の血を流してまで、大人たちが得ようとしている物は何なのか、俺には到底理解できない」


「じゃあ、皆にそう言えばいいじゃないですか」


「お子様は気楽でいいね。お前は簡単に言うけど、そんなに簡単に話が済めば俺は苦労しないって」


 苦笑いを浮かべる修龍を元化は不思議そうに小首をかしげながら見つめた。


「どうしてですか? 長様は修龍様でしょう? 何を気兼ねしているのですか?」


「気兼ねか……」


 修龍の脳裏に一人の顔が浮かぶ。

 顔をあわせるたびに神経質そうな細い目をさらに細めて、眉間に皺を寄せるあの男。

 常に影のように修龍の側に控え、叱咤しながら支え続けてくれるあの男。

 一見すれば修龍とは歳が離れて見えるが、実はさほど歳は離れていない。


「俺は兄上とぶつかりたくないんだ。父上が亡くなってから必死に俺のことを育ててくれた兄上には感謝している。でも、考え方がどういうわけか違いすぎる」


 里のことで口を開けば、必ずといって良いほど口論となる。

 修龍と礼龍、お互いに里の行く末を案じ、将来のことを考えているはずなのだが、しまいにはどうしても口論となってしまう。

 いつの頃からか、修龍は礼龍に対して胸のうちを明かすことが少なくなった。

 恩ある兄と言い争うのは胸が痛む。兄に対しての気兼ねが修龍の言葉に蓋をした。


「私はぶつかり合うことの出来る兄弟がいる修龍様が羨ましいですけどね」


 元化がふわりと笑う。

 元化には兄弟がいない。それ故に修龍のことを兄のように慕っていた。

 修龍もまた自分のことを慕って後についてくる元化のことを弟のように可愛がり、武術の稽古をつけてやったり話し相手になったりしていた。


「修龍様、元気出して下さいよ。いつまでもしょげかえっているなんてらしくないです。壁にぶつかったら壊してでも先へ進む人が、こんな薬くさいところで暢気に茶を啜っている場合じゃないでしょう?」


「お前、俺のことを何だと思っているんだよ……でもまぁ、そうだよな。先の道は自分で切り開かなきゃ、だよな」


 修龍は茶の入った茶器を空にしてから、大きく伸びをした。


「俺は龍族の長だ。一族のためならどんな壁でも乗り越えてやるさ」


「そうですよ、その調子、その調子」


 すっくと立ち上がった修龍に向けて、元化は小さく手を打ち鳴らす。

 小さな拍手が修龍の背中を押した。

 修龍はぽんと元化の頭を一撫でして庵を出た。

 華家の庵からは道が何本も伸びている。修龍は迷わず、役場へと真直ぐに伸びる道を選び歩き出した。



 ああ、うるさいな。どいつもこいつも戦う話ばかりで……


 修龍は眉間に皺を寄せながら役場に集まった大人たちの話の行く末をじっと見守っていた。

 臆病者、盗賊など蹴散らしてしまえ。……という意見が大半を占め、修龍の意見に従おうという者はいなかった。


 四面楚歌。


 唯一の肉親、礼龍は意見を言わずひたすら沈黙を保っていた。


「長! 盗賊ごときに何を怯んでおられるのですか。我々は大陸でも名高い武術を重んじる一族。ここで怯んでは名が廃ります」


「目の前にある盗賊の砦を放っておけというのですか?」


 皆が口を開けば一様に同じことを繰り返し言い、耳を塞いでしまおうかと両手をわざとらしく頭の後ろで組みなおす修龍はちらりと礼龍の方を見た。

 相変わらずだんまりで、修龍に助け舟を出そうともせず、かといって周りの大人たちと一緒に騒ぐわけでもない。


(兄上、俺の力量をはかろうとしているのか?)


 修龍はぐるりと周りを見渡してから、右手でぎゅっと小さく拳を握った。辺りは相変わらず、攻めろ、攻めろと騒がしい。

 修龍は大きく息を吸い込み、意を決した。


「皆がそこまで言うのなら仕方がない。行く気がある者は支度をしろ。出発は五日後だ」


 そう一言、短く言うとどよめきが起こる前にさっさと部屋から出て行った。

 途中、ちらりと兄の様子を伺ってみたが、礼龍は相変わらず面のようになんの表情も浮かべないまま押し黙ったままだった。

 修龍がいなくなった部屋で取り残された部屋から、ぽつり、ぽつりと人の声があがり、やがて大きなざわめきに変わった。

 窓の外で馬の嘶きがひとつ、高く響いた。


(里の外へいってどうするつもりだ? 風当たりが強くなるだけだぞ……)


 面のように表情を変えなかった礼龍が初めて眉間にしわをよせた。



 真っ蒼な空の下、緑色の海のように広がる草原に、まるで海の上に浮かぶ船のようにぽつり、ぽつりと簡素な人の家が並ぶ。

 その中でもひときわ大きな家の中、客人を招き入れた広間の真ん中で、頭に白い布を巻きつけた男が渋い顔をしていた。男の目の前にいるまだあどけなさを残す真紅の瞳の少年の言葉に少々戸惑っていたのだ。


「バートル様、お願いします。どうしてもあなたのお力添えが必要なのです」


 バートルは目の前にいる少年、修龍の申し出になかなか首を縦に振ることができなかった。

 大切な妹が嫁ぐ相手とはいえ、大胆不敵な申し出は草原の民の棟梁であるバートル・ハーンをうならせた。

 馬を五十頭欲しいと言い出したのだ。名馬と呼ばれるものではなく駄馬で言いという。

 草原の民にとって、馬は切っても切り離すことのできない大切な家畜であり、財産である。たとえ駄馬とはいえ五十頭という数はいささか多すぎる。


「我々の持つ馬はどれも優駿だ。駄馬など一頭もおらぬ。一体、五十頭も何に使われるおつもりか?」


「人を生かすための糧といたします」


「馬を殺すというのか?」


「はい」


 包み隠さずに物をいう修龍の態度に、バートルはすっかり呑まれてしまっていた。バートルはどうしたものかと小さく一つ、ため息をもらした。

 無謀とも思えるこの義弟の策に身を委ねれば一体どのようなことが起こるだろうか、とバートルは瞳を閉じて脳裏に先々のことを浮かべてみた。


(悪くはない。一つ、この男の力量とやらを拝ませてもらおうか)


「修龍殿、望みどおり手を貸そう。しかし、里で生まれ育った貴方に五十頭もの馬群を一人で操るのは容易ではあるまい。そこで……」


「私が参ります」


 凛とした声で天花が名乗りを上げ、静かに広間の中に入り、ごく自然に修龍の隣でひざをついた。

 これにはバートルだけではなく修龍も驚いていた。


『テグツェツェグ、何を言う。お前は嫁入り前の娘ではないか。おとなしくここで修龍殿との婚礼の日を待っていれば良い。里へはオレが行く』


『いいえ。私が行きます。兄者、私を里へ行かせて。私は里で妻として修龍様のことを待っていたいの。お願い』


 急に二人が草原の言葉で話し始めたため、何を言っているのかさっぱりわからない修龍は目を丸くしながら、二人の言い争う結末を見守っていた。

 バートルが声を荒らげれば、負けじと天花の声も大きく、荒くなる。天花が声を荒らげると、バートルの声が小さくなり天花に圧倒されてしまう。

 兄妹の言い争いをじっと見守っていた修龍はこらえきれずに、くすり、と笑い声をもらした。

 修龍の笑い声を聞いた二人が、きっ、と振り向いた。


「これは失礼を。言葉がわからないのでどんな話をされていたのかは全くわからないのですが、お二人は仲の良い兄妹だなぁと思いまして」


 修龍がにこりと微笑むと、バートルと天花の顔から険しさが消え、苦笑いが浮かんだ。

 

「里へは私が参ります。草原の民は女でも馬を自由自在に操ることが出来ますので」


 天花に愛らしい笑顔が戻ったが、バートルは依然として苦笑いを浮かべていた。



 前を進むのが修龍。

 馬群を間に挟み、後ろから天花がついてくる。

 修龍は何度も振り返り、豆粒のように小さく見える天花の姿に手を振った。

 

「えっ?」


 修龍は一瞬、自分の目を疑った。

 馬の背中の上を小さな人影が、ひらり、ひらりと飛び移り、次第に近づいてきた。

 まるで花から花へと飛び移る胡蝶のようである。

 馬の背をわたってきた天花は、最後にふわりと修龍の操る馬の背に、修龍の目の前に舞い降りた。


「危ないことするなぁ。草原の民の成せる業ってやつか?」


「はい」


 天花は屈託のない笑顔を浮かべた。

 天花の濃紺の髪が修龍の鼻をくすぐった。ほのかに花の甘い香りがした。


「私、里へ降りるのはこれで二度目なの。本当に子供の頃だからあまり記憶にないけれど」


「まぁ、記憶に残るほど垢抜けた場所でもないけどな。畑ばっかり、あとは少し動物がいて、小規模な市があるだけだ」


「楽しみ。草原の集落には市がないから見てみたかったの。里の人の生活も全部」


「あまり期待しても落胆するだけかもしれないぞ。それよりも、後ろの馬たちは放っておいても大丈夫なのか?」


 天花がこくりと頷いた。

 修龍が心配そうに振り返ってみると、後ろに続く馬たちは相変わらず、ぞろぞろと修龍と天花の後ろについてきていた。一頭たりともはぐれずにぞろぞろとついてくる。


「この子達は頭が良いのよ。私たちの言うことだってちゃんとわかるの」


 天花が微笑みながら修龍の葦毛の馬の頭を一撫でした。

 我が子をいつくしむかのように、優しく馬を撫でる天花の手をみていた修龍が"ごめん"と一言つぶやいた。

 

「時期尚早なんだ。俺に里の大人たちを納得させられるだけの実力があればこんなことをしなくてもいいのに……俺があの人たちを説き伏せるようになるにはまだまだ時間がかかる」


「修龍、そんな悲しそうな顔をしないで。修龍がそんな顔をすると、ほら……」


 天花はすっと天を指差した。


「空が泣き出しそうよ。この子たちも修龍の気持ちをよくわかっているわ。だからこうしてついて来てくれるの」


「ありがとう、天花」


 修龍は手綱を握る右手をゆるめ、手綱の代わりに天花のほっそりとした腰を抱いた。

 不機嫌な山の天候は肌寒い風を送り始めたが、修龍は掌にほんのりと暖かい草原の日差しのようなぬくもりを感じていた。



 夕刻を過ぎ、橙色に染まった雲がいっそう厚さを増し、黒ずみ始めた頃、修龍の帰りをまだか、まだかと門口でうろうろと待っていた礼龍は、道の彼方から近づいてくる無数の影に驚いて目を見張った。

 先頭を進む者は良く見覚えがある。礼龍の心配をよそに、暢気に大きく手を振っている。


「全く、何を暢気に手を振っているのやら……」


 礼龍は苦笑いを浮かべながらも手を振って修龍に応えた。

 が、大きく、二、三度振られた礼龍の手はすぐに握りこぶしに変わっていた。


(お気楽小僧め、少し灸をすえてやらねば)


 とりあえず、庭先の掃除と薪割からやらせようか、それとも道場をくまなく掃除させようかとあれこれ思案を始めた礼龍ははっと息を呑んだ。

 

「て、天花……殿?!」


 思わぬ訪問者に礼龍は呆気に取られていた。


「兄上、只今戻りました。ついでに婚約者殿も一緒に」


 修龍は何食わぬ顔をしながら、ひらりと馬から降り、天花の手を取った。


「修龍、お前という奴は……」


 ごつり、と鈍い音が響いた。

 礼龍の握ったこぶしは予定通りに修龍の頭の上へと落とされた。


「ったぁ〜。何すんだよ、いきなり!」


「何すんだよ、じゃないだろう。私がどれけ心配していたか……大体、何故、天花殿がここにいる? これからここは危険な場所になるとわかっていながら何を考えているのだ、お前は!」


「それは、天花が馬を……」


 言い訳をしようとする修龍の前に天花が歩み出た。

 にこりと笑顔を浮かべる天花を目の当たりにして、礼龍は顔をやや赤らめながら戸惑った。


「私が兄と修龍に無理を言って勝手について参りました。危ないことはいたしません。ここで修龍が無事に帰ってくるのを待っていたいのです」


 懇願する天花の真紅の瞳をみて、礼龍の胸がちくりと痛み出した。

 真紅の瞳には礼龍の姿が映し出されてはいるが、その瞳は修龍だけを映し出しているに違いない。


「とりあえず、屋敷の中へ。男所帯ゆえ、たいしたもてなしもできないが……」


 礼龍は冷静を装って、天花を屋敷の中へと招き入れた。

 天花の後に続いて屋敷に入ろうとする修龍の着物の襟首を礼龍が引っ張る。

 驚いて振り返った修龍の瞳に映し出された兄、礼龍は不気味なほど静かに微笑を浮かべていた。


「あ、兄上?」


「まず、やることをやってもらうか。庭掃除に薪割り、道場の掃除、ついでに水汲みもしてこい! 快点儿(早くしろ)!」

 

「は、はい!」


 慌てて庭へ走る修龍の後ろ姿を心配そうに見守りながらも、天花がくすり、と笑いをこぼした。


 こちらへ、と案内された屋敷の中は広いが、ひっそりとしていた。

 龍族の長家ともなれば、それ相応の使用人がいてもいいはずだが、修龍、礼龍、そして天花以外に人の気配は感じられなかった。

 庭に面した廊下を通ると、ぶつぶつと文句を言いながらも黙々と薪割りをする修龍の姿があった。

 礼龍が庭先にある椅子を指した。


「天花殿、そこに腰掛けて修龍の面白い姿でも眺めていてください。一族の長が薪割りや庭掃除をする姿は滅多に見られない光景だ。私は茶でも淹れてこよう」


「あ、私が……」


「天花殿は今日は客人。客人に渋い茶を出すような真似はいたしません。心配御無用」


 礼龍が厨へと姿を消すと、天花は椅子に座り、薪を割る修龍の姿を眺めていた。

 上半身を露にした修龍が、時折、天花の方をむいて微笑んだ。

 鍛えられた修龍の体から振り下ろされる斧が快い音を立てて薪を次々と割っていく。

 薪を割る快音にあわせて、天花はそっと笛を吹きはじめた。



 一人、闇に包まれた自室に戻り、礼龍は深いため息をついた。

 天花がここにいることは正直、嬉しくもあるが、同時に忘れようとしていた胸の痛みを呼び起こす。

 客間の用意をしていなかったという口実で、天花は修龍の部屋にいる。夫婦になる仲なのだから、不自然ではないだろう。


「悔しかろう。弟にすべてを奪われて……」


「……またお前か。なぜここへ来る?」


 数日前に聞いた、聞覚えのあるしゃがれ声が再び礼龍の部屋にこだました。

 礼龍は数日前と同じように右手で剣の柄を握った。


「あれを殺せば楽になるぞ。あの娘もお前のものだ。この里も、宝珠の力も」


「黙れ! そのような馬鹿げた誘惑に負けるほど、私の意志は弱くない」


「あの娘、今頃はお前の弟と……」


 ぶん、と礼龍の剣がうなりをあげて空を切った。

 手ごたえは全くない。


「見かけによらず、手が早い。龍の宝珠に選ばれなかったとはいえ、龍の子は龍か。我には見えるぞ、お前の腹のうちが。以外に野心家だな……」


「うるさい、黙れ!」


 再び礼龍の剣がうなりをあげて空を切った。

 今度は二度。

 部屋の隅、暗闇が一層濃くなっている部分で、何かの影がゆらりと動いた。


「まあ良い。お前の腹のうちに潜む野心と我の思惑は似ている。また会おうぞ……」


「二度とくるな」


 礼龍は部屋の隅に剣を投げつけた。

 壁に剣が突き刺さるとともに、礼龍の行為を嘲り笑うかのように、遠くで雷鳴が響いた。

 ぽつり、ぽつり、と雨の雫が屋根を叩き始めた。

 礼龍の耳にもう一度、あの嫌なしゃがれ声が聞こえた。


「我が名はコントン。忘れるな……」


 しゃがれ声が激しくなる雨音とともに高笑いをあげた。


「ふざけた名前を……コントン、渾沌だと? 架空の妖の名を語って何になる」


 礼龍は壁に突き刺さった剣を引き抜き、かちり、と鞘に収めた。

 先ほど、遠くで響いた雷鳴が、すぐ近くで轟音を立てた。

 雨は一層激しく屋根を、地面を叩き続けた……

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