第一話:パラレルワールド
――氷川兵治二等陸尉、戦死。
そんな凶報が思い浮かぶと同時に、兵治の意識は覚醒した。まるで長い夢からやっと目が覚めたかのような、そんな感覚がする。
「あれ……俺、助かったのか?」
思わず呟いてしまう。最初はまどろんでいた意識も視界も、徐々にはっきりしてくる。手足の感覚があるのを確認しつつ、ゆっくりと体を起こした。
「畜生、ここどこだよ……!?」
てっきり自衛隊か米軍の野戦病院にいるのだと思ったが、全然違った。信じられないことだが、今自分がいるのはどう見ても普通のマンションの一室らしかった。部屋の片隅に置かれたベッドから身を起こした兵治には、まったくわけがわからなかった。
確か部隊が派遣先で待ち伏せに遭い、自分はRPGの攻撃を喰らって、その破片で串刺しにされたはずだ。あれで生きていたなら奇跡だが……いや、しかし現にこうして意識もあるし、動いてもいる。こんな馬鹿なことがあるのだろうか。
「そうだ、傷……そんな馬鹿な!?」
兵治は自分の胸を見て二重に驚いた。ひとつは自分が自衛隊の戦闘服ではなく、黒一色のスーツを着込んでいること。もうひとつは、自分の胸に傷ひとつ無いことだった。スーツ越しでは断定するわけにはいかなかったので、慌ててスーツの下のシャツをめくってみたが、なんと胸には傷跡すらない。
――夢でも見てたのか。でも、そんなことはありえない。確かにさっきまでの出来事は現実だった。そもそもここはどこなんだ。
意味がわからないまま、兵治はベッドのあった部屋から出た。ここは本当に何の変哲もない3LDKだった。リビングに出てみたが、異変も無いと同時に何も無い場所だった。必要最低限の家具や調度類はあるのだが、誰かが生活をしていたという気配がまったくないのだ。まるでこれから独り暮らしをはじめる学生のために用意されたような場所だ。
相変わらずまったく現状を理解できないまま、兵治はベランダに出て、そこで絶句してしまった。ベランダから眺める光景は、想像を絶するものだったからだ。
……市内の至る所から立ち昇っている黒煙、電柱に突っ込んだまま黒焦げになった車、窓という窓が割られドアを破壊された家。
そこは確かに日本の市街地だったが、兵治の知っている場所ではなかった。まるで戦争か大震災という災厄に襲われたかのようだ。しかし、地震に遭ったわけではないらしい。壊れている建物はどうも人為的なものらしいし、路面を見ても事故で破損している場所はあっても大地震で引き裂かれたかのようには感じ無い。
――これは一体どういうことなんだ。戦争でも起きたのか。本当にここは日本なのか!?
「もちろん日本だぜ。ま、お前の知っている日本とは違うけどな。それとも世界が違うと言うべきかねぇ」
「誰だっ!?」
背後から突然響いて来た、どこか粗野な口調の若い男の声に驚き、反射的に兵治は振り向きながら身構えた。
「……犬?」
振り返った兵治の先にいたのは、リビングのテレビの前、そこに敷かれたカーペットにだらしなく寝そべっている大きな犬だった。真っ黒な毛並みに覆われたそいつは、シェパードかハスキー、そういう大型犬ぐらいの大きさがある。真紅の瞳はぴたりと兵治を見据えている。
「犬じゃねぇよ、狼だ馬鹿野郎。これだから学の無い若造は困るんだよ」
再び吐き捨てるような声。音源は明らかにあの犬、ではなく自称狼だ。あいつの後ろにスピーカーでもあるのか。
「犬も狼も大して変わらないだろ、ふざけるな。どこの誰か知らないが、犬が喋ったとかお決まりの反応を返してはやらないぞ!」
兵治は常識人だ。あの狼、ということにしておくが、奴の後ろかすぐ近くにスピーカーでも置かれているに違いない。だからあの狼が喋っているように錯覚するだけだ。そうに決まっている。
そう思い、狼の近くにずんずん歩いていって、周囲をくまなく探したがスピーカーらしき物体はまったく見受けられなかった。その間、狼はつまらなそうに欠伸をしてやがった。この野郎、人間様に対してなんて態度だと思う。絶対しつけが必要だ。
「気安く触れるんじゃねぇ!俺様の毛並みが汚れるだろうが!」
「うおっ!?」
周囲に無いなら、狼にスピーカーが仕込まれているに違いないと思った兵治が、それを調べようとしたらいきなり狼に怒鳴りつけられた。いや違う、こいつに仕込まれたスピーカーから怒声が……。
「喋ってるのは俺様だよ、俺様。スピーカーなんかどこにもねぇよ、このアホが!」
狼は怒鳴りつけながら、兵治をいきなり押し倒した。巨大な狼に押し倒されて、兵治は焦ったが相手がすごい力でおまけに重過ぎる。両手で必死に押し返そうとするが、狼はびくともしない。
「ほらほら、俺様の口の中にスピーカーがあるかどうか、その節穴でしっかり見てみろよ」
押し倒した兵治の顔に、狼が大口を開けながら言った。生暖かい獣の吐息と、鋭い犬歯が間近に見える。こいつが本当に生きた動物であることは間違いなかった。至近距離から声を発せられたが、確かにこの狼の口から声が聞こえた。そして、口の中には人工物は何も見えない。いや待て、実は胃の奥とか。
「いい加減にしろよ、俺様は気が短いんだ。この牙でお前の首を引き千切ってやろうか、ん?」
狼が喋りながら、牙の矛先を兵治の首に向けて来た。あんなもので首を噛み裂かれてはたまらない。
「わかったわかった!だからやめろ、それ以上牙を近づけるな!」
「わかりゃぁいいんだよ、まったく手間掛けさせやがってよ」
ペッと床に唾を吐き捨てながら、やっと狼はどいた。まるで人間と同じようなことをする狼だ。そもそもこいつが喋っていることがありえない。
「お前あれだろ、サイボーグ犬とかそういう」
「それ以上喋ったら殺すぞ」
唸り声のおまけつきで脅されては、さすがに兵治もたまらない。不本意ながら喋るのをやめて狼を注視することにした。
「よし、それでいい。まあ安心しろよ、取って食うわけじゃねぇ。そもそも人間は糞みたいにまずいからな」
またカーペットの上に戻って寝そべると、その狼は言った。兵治はこの狼の口の悪さに閉口していた。とんでもない毒舌だ。
「頭の悪いお前のために、俺様が一からちゃーんと話してやるよ。喚くなよ若造、俺様の言葉を耳の穴を綺麗にして聞けよ」
兵治はもはやあきれ果てて何も言う気になれなかった。
「まずお前は一度死んだ。これ本当な。お前、あんなでっけぇ破片に胸をぶち抜かれて、生きてる人間なんているわけねぇだろうが」
それはそうだろうが、じゃあ今どうなってるんだよ。ここはあの世か。
「あの世なんてものはねぇ。大体お前ら人間が生まれてから、何人死んでると思ってんだよ。天国も地獄も定員オーバーになるだろうが、カスめ」
兵治が口に出してもいないのに、この狼は答えてくれた。ご丁寧にどうもありがとうございます、だ。
「だけどお前は幸運だな。お前は選ばれたんだよ、救世主とやらにな」
「俺が救世主ってなんだよ、それ。そもそも誰が選んだんだよ、神様かよ。意味わからないぞ」
「あー?神様は休暇取って、ゆーえすえーのベガスってところに行ってるぜ?」
なんで神様がカジノに行くんだよ……疲れるな。
「そんなゴミ話はどうでもいいが、面倒だな。神がお前を選んだと思えよ。お前にとっては神みたいなもんだ」
「OK!神様が俺を選んだことにしておこう。で、神様は俺に何をさせる気なんだ?救世主?」
もういちいち反論する気も失せた兵治は、半ば投げやりにそう言った。
「お前さぁ、SF小説とかって読むか?パラレルワールドとか知ってっか?」
「読むさ。並行世界だって知ってるぞ。四次元だか多次元だか」
「話が早くていいねぇ。まあ、似ているようで微妙に異なる世界が無限に存在してると思え。で、お前がいた世界とは違う世界が、ここさ」
いくら兵治がSF小説を読んでいるからといっても、小説と現実は違う。混乱の極めに達しながらも、必死で兵治は考えた。この狼の言う通りならば、兵治は死んだはずなのに別世界に連れて来られたことになる。
だがしかし、そんな馬鹿げたことが本当に起きるのだろうか。そもそもこの世界はどうなっているのだろう。あの荒廃した市街を見るにつけ、どうもろくでもない世界な気がする。
「察しがいいな。なんか説明するの面倒だし、それに疲れたから、お前そこの新聞でも読め」
大して喋って無いだろうと文句を言いたくなったが、前脚でちょいちょいと示された方を見れば、新聞がいくつか束ねて置かれていた。
「読み終わったら言え。俺様は寝てるからな」
またカーペットにだらしなく寝そべって、さっさと狼は寝始めやがった。本当になんて奴だ。
脳内でぶつくさと文句を言いつつも、兵治は新聞を手に取った。まず目に入ったのは、新型感染症が遂に日本上陸!という大きな一面の見出しだった。やたらめったらにパンデミックとか感染爆発とか、そういうフレーズが出て来る。きな臭さをぷんぷんと感じながらも、兵治は新聞記事を読み始めたが、案の定それはろくでもないものだった。
レッド、英語で言わずと知れた赤を意味する言葉。それがこの病の通り名だった。学術的に言えば新型急性出血熱とか、そういう名前らしいが、日本ではもっぱらレッドあるいはそのまんま赤と呼ばれていたらしい。
なぜそんな名前で呼ばれるかといえば、この病気のひどい症状にそれは由来している。レッドは接触及び空気感染によって罹患する。その感染率たるや実に八〇から九〇パーセント。感染した場合は約一週間の潜伏期間を経た後、発症。症状は高熱を伴う全身からの大量出血。
より詳しく表現すると、高熱にうなされながら吐血と鼻血を繰り返し、さらに末期には全身の穴という穴から血液を噴き出し、患者は血まみれでのたうちまわりながら死ぬ羽目になる。全身が真っ赤な血で染まった光景はそれはもうおぞましいもので、そこからレッド、つまり赤という名が取られたらしい。
致死率は……一〇〇パーセント。つまり一度感染し発症した患者が、生還した例は無い。感染し発症したら、それ即ち死刑宣告を受けたも同然だった。
「ひどい病気だ……一体どうしてこんなことに」
レッドの惨状に呆然としながらも、兵治は記事をさかのぼってみた。どうやらこの病は世界で同時多発的に発生したらしい。アメリカやヨーロッパはもちろん、日本や中国などのアジア各国、果ては中東やアフリカまでまんべんなくレッドは猛威をふるっている。世界でレッドが存在しない場所は、人がいない場所だけだ。
突如として現れたレッドに対して、人類は何の手立ても講じることができなかったらしい。症状などはエボラ出血熱に似ていたが、疫学者によればそれとはまったく別の未知の病気だと証言している。当然、予防接種やワクチンなどあるわけがなかったし、それらをつくることも出来なかった。旧ソ連が開発した生物兵器を利用した細菌テロではないかと叫ばれたが、真相は闇の中だ。
接触及び空気感染では、特殊な防護服で全身をカバーしない限り、感染を防止することは難しい。さらに患者を隔離する施設も圧倒的に足りなかった。潜伏期間が一週間というのもまた、惨状を拡大する上で大きな役目を果たした。感染してから発症するまでの一週間の潜伏期間の間は、罹患者は無自覚のまま周囲にこの病をばらまくこととなったからだ。
当たり前だが、レッドは感情などあるはずもない病気だ。だから、感染対象の社会的重要度など考えられるはずもなかった。そのために真っ先に壊滅的打撃を受けたのは、医療及び治安関係者だった。消防は患者を運ばねばならなかったし、医者は患者を診察しなければならなかったし、警察官は現場の封鎖や死体の処理を行わなければならなかった。警察の対応力を越えれば、自衛隊にも動員がかかり、屈強な自衛隊員も次々と感染、発症していった。
消防と医療機関が壊滅し、治安維持を担う警察や自衛隊もまた壊滅したとき、本当の地獄が訪れた。現代生活を支えるライフラインを管理する役人や豊かな暮らしを提供する企業の仕事人も軒並み発症し、破滅はあっという間だった。各地で暴動が発生し、レッドで弱り切っていた人類の組織的抵抗力を完全に粉砕した。
人類は、その総人口の七割以上を失ったと推定される。レッドの災禍だけがすべてではなかった。医療が破綻したせいでレッド以外の病も流行、次々と現代医学に頼り切っていた人間を殺した。電気、ガス、水道……そういったライフラインも全滅し、暴動の中で人が人を殺し合った。
結局、レッドの流行が去った後に残されたのは、人類にとって絶望だけだった。恐怖や殺意、耐え難い飢餓。無秩序。殺す人と殺される人。この世の地獄とは、まさにこのことだった。
「こんな、馬鹿な……たったひとつの病気のせいで、人類が破滅するなんて、馬鹿な!?」
兵治はこの世界の現実を認められなかった。いや、認めたくなかった。自分が愛した日本だけでなく、人類社会そのものが死にかけているなど、信じたくなかった。人類が千年単位の時間をかけて築き上げてきた文明が、こんなことで滅び去るなど、信じられなかった。
怒りと悔しさと悲しみがごちゃ混ぜになり、感情に身を任せて新聞を一気に引き裂く。それでもおさまらず、壁を思い切り拳で殴りつけて破壊し、さらに爪で壁を引っ掻きながらずるずるとへたりこんでしまった。
「うるせぇな、おちおち寝てらんねーよ。読み終えたみたいだけどな」
「お前、なんとも思わないのか!?世界がこんな風になって……」
「あぁ?核戦争で破滅する世界とかだってあったぜ。いちいち気にしてらんねーよ。お前、プロの軍人の癖に感情の制御も出来ないのかよ」
舐め切った様子の狼を見たことで、逆に兵治は落ち着くことができた。確かにこの狼の言う通りだ。プロフェッショナルならば、いつまでも取り乱しているべきではない。
「……教えてくれ、俺はどうすればいいんだ?」
「おー素直になったじゃんか。結構、結構、コケコッコーだな……ああ悪い、俺様の口の悪さは生まれつきで、これなおせねぇんだよな」
今までとは違い、多少罰が悪そうに脚で耳の裏をかいた辺り、こいつの口の悪さは先天的なものらしい。こちらも少しは耐性が出来て来たので、我慢することにした。
「いいから、教えてくれ。さっき救世主とか言っていたが、具体的に俺はどうすればいいんだ?」
「神からお前に与えられた使命、いや任務と言った方がいいか。それはたったひとつだ」
起き上がった狼が、真紅の瞳で挑むように睨みつけながら話す。兵治はそれを正面から受け止めながら、続きを待った。
「お前が信じた正義と秩序を取り戻せ。救うべき国民を助け、悪党どもは容赦なくぶっ殺せ。それがお前に与えられた唯一絶対にして、最後の任務だ」
兵治は、雷に打たれたような衝撃が自身に走ったのを感じた。それは兵治が前の世界で心の底から願っていた、シンプルな任務だった。自分が愛した国民を助け、敵から守り抜く。それが自衛隊員の使命、任務だ。
「――氷川兵治二等陸尉、確かに任務を受領しました」
武者ぶるいを起こしながら、兵治は反射的に虚空へと敬礼をした。踵を叩きつけるようにあわせ、これ以上ないほど完璧な敬礼を決めてみせた。これは兵治の決意表示だ。これから何があろうとも、兵治は死ぬまでこの任務を遂行し続けるだろう。
「おう、幸運を祈ってるぜ」
狼も答礼のつもりだろうか、片方の前脚を頭の横に上げて見せた。その仕草が思いのほか可愛らしくて、兵治は思わず微笑んでしまった。
「俺様の名前は、ガルだ。神からお前のサポートをしろと命じられた。まあ、これからよろしく頼むぜ」
「ガルか。俺の自己紹介の必要は……無さそうだな」
相手は神様の配下だ。自分のことなど、きっとなんでもお見通しに違いない。だから、自己紹介は省略してもいいだろう。
いまだにわからないこと、たとえばどうして俺が選ばれたのか、俺だけで本当に与えられた任務を完遂できるのか……疑問はまだまだたくさんあったが、自衛隊員ならば与えられた任務に対して最善を尽くすだけだ。
「それでサポートって、具体的に何をしてくれるんだ?」
「俺様には特殊な能力がある。そいつを使ってお前をサポートしてや……」
ガルが言い切る前に、すぐ外から乾いた破裂音が聞こえた。間違いない、今のは銃声だ。それに何か悲鳴らしき声も直後に聞こえた。
「……早速、お前の出番らしいぜ?」
「ブリーフィングの時間は無いみたいだな。任せろ、やるさ」
銃声と悲鳴から一刻の猶予も無いと判断した俺は、急いでマンションの部屋から飛び出した――助けられる人がいるなら、助ける。それが俺の任務だから。
本当にたった一言でも貰えるとやる気が一気に出て書き進められるので、ご意見やご感想、なんでもお待ちしています!