僕と刑事、そしてパンダ
【2】
男のパンダのような姿は僕を驚かせた。だが、オーナーは驚いていないようだった。
「何か?」とパンダが僕の方を向いて言った。どうやら僕はじろじろと男のことを見すぎたらしい。
「いえ」と僕は言って新聞を読みなおすふりをした。
だが、僕はそれからもちらちらと男の方を見た。男はパンダの姿をしていた。だが、動物のパンダというより、ぬいぐるみのようなパンダだった。着ぐるみのパンダだとも言える。彼はその姿にスーツを着ており、それからこげ茶色のコートを羽織っていた。頭には、コートと同じ色をした丸い大きなソフトハットをかぶっていた。黒いリボンがついているその帽子の鍔からは、黒いパンダ耳が二つぴょこんと出ていた。男の風貌は可愛いと言えなくもないのかもしれない。だが、彼は喋り、真っ黒いふさふさの手でロックグラスを掴み、バーボンを飲んでいる。可愛い以前の問題で、あまりにも奇妙だった。そのことにオーナーは気付いているのか、気付いていないふりをしているのか、僕には分からなかった。ただ、オーナーは動じていないようだった。他愛のない話をパンダ姿の男としていた。
僕は、腕時計を見た。五時十分になったところだった。そろそろお客も増えてくるころだ。そう思った時に、真っ黒のドアが開いて、スーツを着た三人組が入ってきた。仕事帰りなのかもしれない。
「オーナー」と僕は言って財布を出した。
「今日はいいよ」とオーナーは言った。
「そう?」
「ああ。また来なよ」
「ありがとう」。僕はそう言って店を出ようとドアを開けた。
ドアを閉める時、パンダ姿の男と目が合った。といっても、そこに目があるのかどうか分からなかった。男のコートの背中は、何故かふっくらとしていた。
それから僕は本屋に行き、ファッション雑誌を数冊流し読みして、ヘルマン・ヘッセの文庫本を一冊買った。それから、駅前のハンバーガーショップへ行き、文庫本を読みながら夕飯を済ませた。眠気はいつの間にか消えていた。
だが、自分の部屋へ戻ると、一気に眠気がぶり返してきた。僕は、バッグを部屋の入り口近くに置き、上着を脱ぐとすぐにベッドに倒れこんだ。そして、目を閉じた。
ピンポーンと、チャイムの音が鳴った。僕は目を開けて、うんざりした気持ちで玄関へ向かった。
玄関のドアを開けると、二人の男が立っていた。二人とも僕の知っている顔だった。一人は今林、もう一人は佐伯と言った。今林は四十代の、横にも縦にも大きな、カエルのような顔をした男で、佐伯はがっしりとした体格のスポーツ青年といった感じの二十代の男だった。二人は刑事だ。
「少し、お話いいでしょうか?」と今林は言った。
「何か?」と僕は言って「昨日、全部話したと思うんですが?」と付け加えた。
「ええ、ですが、ちょっと残念なところがあって」
「何ですか?」
「ここじゃ何なので、中に入らせてもらえないでしょうか?」と今林は低姿勢で言った。
「どうぞ」と僕は言って、玄関のドアを大きく開いた。
刑事たちは玄関に入って、ドアを閉めた。僕は玄関の明かりをつけた。
「ちょっと残念なことがありましてね」と今林は再度言った。
「何ですか?」と僕も再び言った。
「昨日の夜、七時半くらいなのですが……」
「昨日も言ったように、僕は近くのスーパーで買い物をしていました」
「ええ、もちろん分かっています。ですが、あのスーパーには防犯カメラがなかったんです」
「防犯カメラが?」と僕は言った。
「ええ、珍しいことだとは思うんですが。このご時世、万引きが防止のために設置していると思っていたのですが」
「つまり、僕がそこにいたかどうか分からないから来たのですか?」
「ええ、そういうことになります」と今林は申し訳なさそうに言った。「何か他に、証拠になるものはないでしょうか。誰かに会っただとか」
ふん……と僕は鼻息をして考えた。どうにかして僕のアリバイを証明しないと警察は僕をずっと疑い続けるだろうな。まぁ、笹島とは親しかったわけだし、何度か彼の家にも行ったことがある。疑われるのは仕方がないことかもしれない。
「ああ」と僕は言った。「レシートがありますよ」
「それはいいですね。ぜひ見せていただきませんか?」と今林は言って頷いた。隣にいた佐伯も顔を緩め、頷いた。
「ちょっと待っててください」と言って僕は部屋に戻った。テーブルの上にあったダイレクトメールやチラシに混ざっていたレシートを僕は手に取った。
「これです」と僕はレシートを手渡した。
今林は白い手袋をすると、それを受け取った。
「なるほど。昨日の午後七時二十七分に買い物をされていますね」
佐伯は横からそれを覗き込んだ。
「買ったものは、牛肉と卵、あと、玉ねぎですか」
「ええ」
「よく料理はされるんですか?」
「ええ、たまに」
「昨日は何を作られたんです?」
「牛丼です。簡単なんで、よく作るんです」
「なるほど……」
「お前、料理得意か?」と今林は佐伯に言った。
「いやぁ、僕はほとんどしませんね。コンビニ弁当とか外食で済ませてます」と佐伯は苦笑いした。
「もし材料が残っているなら見せてもらいませんか?」
「ええ、分かりました」、僕は、そう言って彼らを台所に案内した。と言っても玄関に入るとすぐ右側が台所だ。玄関から台所は見えている。
「あと、このレシート、お預かりしてもいいでしょうか?」
「ええ、いいですよ」と僕は言った。
今林はどこからか小さいビニール袋を出し、その中にレシートを入れた。
彼らは靴を脱ぐと部屋に上がった。僕は後ずさりして部屋に戻った。そして、部屋と台所の間にある隙間の冷蔵庫を開けて、彼らに中を見せた。
「これが昨日買った玉ねぎですか」と、野菜室を開けながら今林は言った。
「ええ、そうです」
「なるほど」と彼は言った。「玉ねぎを入れた袋はないのですか?」
「すみません。捨ててしまいました。昨日がちょうどごみ捨て日だったので」
「そうですか。こっちの卵のパックもそうですか?」
「そうです」
「きれいに整頓されてますね」と佐伯が言った。
「ええ」
「卵も一つ一つケースにいれてあって、いやぁ、僕の学生時代とはえらい違いだ」
「お前もちゃんとしたらどうだ。どうせ部屋も汚いんだろう」と今林は佐伯に言った。
「面目ない」と佐伯は返した。
「そういえば、牛肉は全部使われたんですか?」と佐伯は聞いてきた。
当然だろうな、と僕は思った。
僕は冷凍室を開けて、「使い切れなかった分は冷凍したんです」と言った。
「なるほど。ありがとうございました」と一礼して、今林は言った。
佐伯はラップをした凍った牛肉一度手に取り、そして戻した。
彼らは黒の革靴を履くと、もう一礼して、玄関ドアを開けた。やっと帰ってくれるようだ。
二人が玄関の外に出た時、「あ」と佐伯は何かを思い出したように言った。
「何か?」と僕はちょっと驚きながら聞いた。
「いえ、最後に聞いておこうと思って。笹島さんの女性関係のことなんですが、どう思っていました?」
「僕はどうにかした方がいいと思っていました。罪悪感もなかったようだし……」
「なるほど。では、笹島さんが女性と一緒にいる姿を見たことがありますか?」
そういえば、あまり見たことないなと僕は思った。もちろん彼はもてるし、学校内でも、女の子と話しているのを見たことがあるが、彼女たちはただの友達のようだった。いや、まぁ、それも僕の憶測なのだが。
「あるといえば、あるんですが」
「それはどこで?」
「大学の構内です」
「相手の女性とは親密な様子でしたか?」
「いえ、あまりそういった感じではなかった気がします。ただの友達のような……。憶測ですけど」
「分かりました。ありがとうございます」と佐伯は言ってドアを閉めた。
僕はベッドに戻って、横になった。だが眠気はまたどこかへ行ってしまっていた。僕は天井を見ながら、佐伯の最後の質問の意図を考えた。なぜ、あんな質問をしたんだろう。
その時、ピンポーンとまたチャイムがなった。
今度は誰だろうか。嫌な日だ。だが、こんな日がしばらく続きそうだなと僕は思った。
僕は「はい」と言いながら玄関を開けた。
玄関の前には、あのパンダが立っていた。