僕と事件、そしてパンダ
【1】
僕は疲れていた。昨日は色々なことを聞かれたし、そのことで夜は寝ることができなかった。そして、寝ることができたと思った途端、起きなければいけない時間になった。そのつけが今になってやってきている。眠くて授業なんて聞いていられない。その授業が一番大切にしていたドイツ語の授業だったことも僕の気持ちを暗くした。
僕は授業が終わると、すぐさま大学を出た。そして、十分ほど歩き、駅前に出て、その前にある大きな通りを進み、四本先の横道に入った。
それから二つ目のビルの地下一階に潜った。そこには僕がよく通うカフェバーがあった。名前は『モールヒル』といった。
僕は店名が書かれた真っ黒の頑丈そうなドアを開けた。店内は仄暗かった。わざと数を少なくしたシリカ電球が、壁と天井を照らし、壁に反射した光が店内を照らしていた。
「いらっしゃい」とマスターが言った。いつもと変わらない暖かな声だった。
「コーヒーと、それにちょっとブランデーか何か入れてくれませんか」と僕は言って、カウンターに座り、メッセンジャーバッグを床に置いて、椅子の背もたれにマフラーをかけた。客は僕一人だった。
「はいよ」とマスターは言って、フィルターペーパーを慣れた手つきで折った。
僕は、入口近くにあった新聞置きに向かい、今日の朝刊を取った。
席に戻ると、何かいいことがあったのかマスターは鼻歌を歌っていた。なんの曲かは分からなかった。
僕は新聞の一面を見た。大きな見だしで、政治家の脱税疑惑のことが書かれていた。そして、青森で起きた殺人事件と、隣の市で起きた殺人事件のことが同じくらいの大きさで書かれていた。僕は社会面を開き、隣の市で起きた殺人事件の記事を読み始めた。事件は昨日、十一月二十日に起きた。
十一月二十日の夜九時、S県M市マンションの一室で、血を流して死んでいる笹島忠信さんを友人が発見、S署に通報した。同署は、胸に数ヵ所、刃物のようなものによる刺し傷があったことから、殺人事件の可能性が高いと見て捜査を始めた。同署によると笹島さんは、ベッドに仰向けに倒れており、室内に荒らされた形跡や物色の様子はなかったという。現場は県道から少し離れた住宅街の一角で、人通りは少ない。
さらに付け加えるならこうだ。彼の年齢は僕と同じ二十二歳で、私立S大学の経済学部に通う、四年生だった。彼は優秀な生徒だった。だが、素行はそこまでよくなく、女遊びは結構やっていた。僕は彼が女の子をそういうふうに見ているのを知っていた。彼は、それに対して何も罪悪感を持っていなかった。たしかに、あれだけ頭が良くて、顔も悪くなかったら女は寄ってきただろう。
僕はそれに対して、どうかと思っていた。その行為は女の子にもてない僕にとって憎い行為だった。だが、同時に僕は彼を尊敬していた。羨望の眼差しを向けていたと言ってもいい。彼は英語とドイツ語を話せた。僕にとってそのスキルは喉から手が出るほど欲しいものだった。僕は彼にドイツ語を教わったこともある。彼ならドイツ語の先生にもなれただろう。教え方もうまかった。
「はい。おまたせ」とオーナーは僕の前にコーヒーを置いてくれた。コーヒーの香りが僕の周りの空気を濃くした。
「もう、三年になるんだね」とオーナーは言って、薄くなりはじめた頭をそっと撫でた。
オーナーは僕の友達の死を言っているのだ。
「そうですね。早いものです」、と僕はコーヒーを飲んだ。体が温まるのを感じた。
「彼女は……、いや、なんでもないね」とオーナーは言ってもう一杯コーヒーを作り始めた。
まだ四時前だった。
コーヒーを飲み終えようとしているころに、店のドアが開く音がした。客が入ってきたようだった。
「いらっしゃいませ」とオーナーは言った。
客は僕の席から少し離れた席へと座った。
「バーボンをストレートで」と低い声で男は言った。いい声だなと僕は思った。まるでコーヒーのような渋くて酸味のある声だった。
「ジム・ビームでよろしいですか?」
「ええ」と男は言った。
僕はその声の主が気になって、男の方を見た。そして驚いた。
男の姿はパンダだった。