第9話:別れと清算
噂が広まるのは、光の速さより速い。
特に、人の不幸とスキャンダルに関しては。
結婚式翌日の月曜日。
私とユウジが勤める会社は、異様な空気に包まれていた。
式に出席していた同僚や上司を通じて、「伝説のドッキリ披露宴」の全貌はすでに全社員の知るところとなっていたのだ。
「……おはようございます」
ユウジが出社してくる。
彼の顔色は土気色で、目の下には濃いクマができている。
いつもなら元気よく挨拶する彼が、今日は誰とも目を合わせようとしない。
周囲の社員たちが、一斉にヒソヒソと話し始める。
「あれが噂の……」
「奥さんかわいそうすぎるだろ」
「500万請求されたってマジ?」
「仕事でミスしたら『ドッキリでした』って言われるんじゃね?」
嘲笑、軽蔑、そして憐れみ。
かつてムードメーカーとして愛されていたユウジの居場所は、もうどこにもなかった。
上司からは別室に呼ばれ、厳重注意を受けたらしい。
「私生活のトラブルを職場に持ち込むな」「会社の品位に関わる」と。当然の報いだ。
一方、私はと言えば。
「白石さん、本当に大変だったね……」
「何か手伝えることがあったら言ってね」
こちらは同情の嵐だった。
腫れ物扱いされるのは不愉快だが、敵意を向けられるよりはマシだ。
私は「ご迷惑をおかけしました」と殊勝な顔で頭を下げ、淡々と業務をこなした。
私にとって、もうユウジは「同僚の一人」ですらない。ただの背景だ。
昼休み、私は会社の近くのカフェで、サヤカと対峙していた。
彼女はサングラスをかけ、帽子を目深に被っていたが、やつれているのは明白だった。
「……これ」
サヤカが封筒を差し出す。中には現金が入っていた。
式場費用の分担分、150万円。
「親に……頭下げて借りてきた」
サヤカが震える声で言う。
「これで文句ないでしょ? もう訴えたりしないよね?」
「ええ、確認したわ。これでおしまい」
私は領収書を書き、彼女に渡した。
サヤカは唇を噛み締めた。
「私さ……SNSも全部消したの。共通の友達からもブロックされて、誰も連絡くれなくなって……。ユウジくんに頼まれただけなのに、なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないのよ」
「頼まれて人を刺したら、刺した人も捕まるのよ。常識でしょ?」
私が冷たく言い放つと、サヤカは何も言い返せなかった。
彼女の最大の罰は、金銭的な損失よりも、「自称ムードメーカー」としてのアイデンティティが崩壊し、孤独になったことだろう。
その日の夜。
私は、かつて新居になるはずだったマンションに向かった。
荷物はすでに業者に頼んで運び出してある。今日は鍵を返し、最後の手続きをするためだ。
ガランとしたリビングに、ユウジが一人で座り込んでいた。
テーブルの上には、消費者金融のパンフレットが散らばっている。
彼の負担額は370万円。貯金をはたいても足りず、借金をしたらしい。
「ミオ……」
ユウジが縋るような目で私を見た。
「本当に、これで終わりなの? 俺たち、あんなに仲良かったじゃないか。一度の過ちで、全部なかったことになるのかよ」
往生際が悪い。
私は溜息をつき、テーブルの上に鍵を置いた。
「過ちの種類によるわ。あなたは私の尊厳を踏みにじった。それが答えよ」
「楽しませたかっただけなんだ! ミオの笑顔が見たかったんだよ!」
「それが思い上がりだと言ってるの」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは私の笑顔が見たかったんじゃない。『サプライズをしてあげる優しい僕』に酔いたかっただけでしょ? 私が何を喜び、何を嫌がるか、一度でも真剣に考えたことはあった?」
ユウジは言葉に詰まる。
図星だろう。彼はいつもそうだった。
私の話を聞いているようで、聞いていなかった。
自分のやりたいことが優先で、それが相手にとっても幸せだと信じて疑わなかった。
「高い勉強代だったと思って、これからの人生頑張って。……さようなら」
私は背を向けた。
「あ、待ってくれよミオ! 俺、会社にも居づらくてさ……これからどうすれば……」
背後から聞こえる情けない声を、私はドアを閉める音で遮断した。
マンションの外に出ると、夜風が心地よかった。
重たい荷物をすべて下ろしたような、不思議な浮遊感。
結婚というレールからは脱線してしまったけれど、不思議と後悔はなかった。
私はスマホを取り出し、登録されていた「高坂ユウジ」「高坂トモエ」「橘サヤカ」の連絡先を、一つずつ削除していった。
指先一つで消える関係。それくらい、脆いものだったのだ。
「さて」
私は夜空を見上げた。明日は有給を取ってある。
エステにでも行って、美味しいものでも食べよう。
私の人生は、まだ始まったばかりだ。




