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第8話:白紙撤回



親族控室に、式場の支配人がおずおずと入ってきた。

 彼の手には、現実の重みを象徴するような、厚みのある封筒が握られている。


「えー……本日のお支払いについてですが……」


支配人の視線が、真っ二つに分断された両家の間を彷徨う。


通常であれば、新郎新婦が笑顔で精算を済ませ、新しい生活へと踏み出す場面だ。

 しかし、今の空気は「精算」というより「賠償交渉」に近い。


「総額で、520万円になります」


提示された明細書。

 料理、衣装、引き出物、演出料、そして会場使用料。私たちが一年かけて準備し、こだわって選んだ夢の残骸だ。


ユウジが青ざめた顔で明細書を覗き込み、私を見た。


「み、ミオ。とりあえず半分ずつ……いつもの口座から振り込めばいいよな? ご祝儀も回収すれば、なんとか……」


「お断りします」


私は即答した。氷のように冷たい声で。


「は?」


「なぜ私が、自分を侮辱し、親族を傷つけ、社会的な信用を失墜させるためのイベントに、一円でも払わなきゃいけないの?」


正論だ。ぐうの音も出ない正論。

 けれど、ユウジはまだ食い下がる。


「だ、だからドッキリだって! 悪気はなかったんだってば! それに、料理も食べたし、衣装だって着ただろ!?」


「契約不履行よ」


私は支配人に向き直り、淡々と告げた。


「私が契約したのは『結婚披露宴』です。新郎とその友人が共謀して新婦を陥れる『ドッキリショー』ではありません。提供されたサービスが契約内容と著しく異なる以上、支払い義務は主催者にあると考えます」


支配人は困り顔だが、同情的な目をしていた。

 あんな惨状を見せられれば、心情的には私に味方したくもなるだろう。


「そ、そんな理屈通るわけ……」


ユウジが狼狽える。


「通るか通らないか、弁護士を入れて争ってもいいのよ? 名誉毀損に精神的苦痛への慰謝料。式場キャンセルに伴う実損害。全部含めて請求することになるけど」


「弁護士」「慰謝料」という言葉が出た瞬間、ユウジの母・トモエが金切り声を上げた。


「なんですって!? あんた、そこまでする気かい!? たかが冗談一つで!」


「冗談で人の人生を壊そうとしたのは、あなたの息子さんです」


私はトモエを一瞥し、次に部屋の隅で縮こまっているサヤカに視線を移した。

 彼女は私と目が合うと、ビクリと肩を震わせた。


「サ、サヤカは関係ないよね? 頼まれただけだし……」


サヤカが蚊の鳴くような声で言う。


「関係ない? あなたが実行犯でしょう」


私は冷たく微笑んだ。


「偽造写真の作成、虚偽の事実の流布。これ、立派な犯罪よ? 私のパソコンからデータを盗んだ件については、不正アクセス禁止法違反も問えるかもしれないわね」


「え……嘘……」


サヤカの顔から血の気が引いていく。

 ブランドバッグ一つで引き受けた代償にしては、あまりに大きすぎる。


「法的措置を取らない条件は一つだけ。この費用の負担、あなたも持ちなさい」


「はああ!? 無理だよ! 500万なんて払えるわけないじゃん!」


サヤカが叫ぶ。


「なら、新郎と折半すれば? 『共犯者』なんでしょ?」


私は腕組みをして、突き放した。


ユウジとサヤカ、そしてトモエ。

 三人が絶望的な顔を見合わせる。


520万円。笑って済ませようとした「ドッキリ」の値段だ。


「おい、ユウジ……どうすんだよこれ……」


サヤカが泣きそうな声でユウジを責める。


「お前が『絶対大丈夫』って言ったからやったのに!」


「俺だって、こんなことになるなんて思わなかったんだよ! 母さんもなんか言ってよ!」


「私に振るんじゃないよ! 情けないねえ、あんたが男なら自分でなんとかおし!」


醜い。

 ついさっきまで「感動のサプライズ」を演じていた仲間たちが、今は金の押し付け合いで罵り合っている。

 これが、彼らの言う「絆」の正体だ。


父が、重々しく口を開いた。


「白石家としては、本日頂いたご祝儀はすべて返却させていただきます。当然、そちら側のご祝儀も、返却の手続きが必要でしょうな」


それはつまり、ご祝儀で支払いを補填することすらできないという宣告だった。全額、自腹。


「そ、そんな……」


ユウジが膝から崩れ落ちる。


私はバッグを手に取り、出口へと向かった。もう、ここに用はない。


「期限は明日まで。もし支払いが確認されなかったり、私に請求が来たりするようなら、即座に法的措置に移行します。……あ、それと」


私は最後に振り返り、真っ青な顔の元婚約者に告げた。


「指輪、質屋に入れたら? 少しは足しになるんじゃない?」


バタン。


扉を閉めると、中から男の情けない泣き声が聞こえてきた。

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