空っぽの金庫と、悪魔の領地
「将軍! 王国軍の絶対防衛線『黒嶺要塞』、すでに門が開いています! 抵抗の魔力反応、ゼロ!」
その報告を聞き、東方帝国の前線指揮官は拍子抜けしたように目を丸くした。
背後には、地平線を埋め尽くす3万の重魔導機甲師団。これほどの威容を見せつけられれば、逃げ出すのも無理はないが――。
「臆病風に吹かれたか、王国の豚共め。全軍、黒嶺要塞へ入城せよ! 備蓄物資を接収し、明日の『運河』越えの拠点とする!」
帝国軍が意気揚々と巨大な城門を潜り抜けていく。
だが、要塞の中枢に足を踏み入れた指揮官の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「し、将軍……! 巨大備蓄倉庫が……『空』です!」
「なんだと!? 隠し部屋を探せ! 撤退のドサクサに3万を養う兵糧と魔晶燃料をすべて焼き払えるわけがない!」
「焼き払われたのではありません! 倉庫の封印がすべて『正規の手続き』で解除され、帳簿上もゼロになっています! 奴ら、徹底的な書類上の合法手順で中身をカラにしてから逃げたんです!」
物理的な破壊ではなく、冷酷なまでの「制度ハック」。
目に見えない会計士の影に指揮官が戦慄した直後、さらなる絶望が報告される。
「残っていた機甲用の予備燃料タンクには、すべて『微細な砂』が混ぜられています! 気づかずにエンジンを回した先鋒部隊が次々と停止! シリンダーを全分解して洗浄するのに、1機あたり【丸3日の工数と交換部品】が飛びます!」
「なっ……!?」
「さらに要塞内の水源(井戸)はすべて分厚い石盤とコンクリートで封鎖されています! これを再掘削するには【重機と500樽の燃料、そして丸2日】が必要です!」
敵の兵士を殺すのではない。
財布と胃袋、そして「時間」を執拗に削り取る、悪魔のように陰湿な兵站の罠。
「おのれぇぇぇ! 逃げ足だけは早い王国の会計士めェェェッ!!」
指揮官の悲鳴が、水一滴ない空っぽの要塞に虚しく響き渡った。
***
「――帝国軍3万、見事に空の金庫(要塞)へ収まったな」
王都の執務室。俺の目の前の《解析簿記》には、敵の悲惨な台所事情がはっきりと可視化されていた。
【東方帝国軍3万・黒嶺要塞駐留コスト】
【1日の消費:魔晶燃料1200樽、食料9トン】
「食料9トン。3万の兵士が『1日1食』で飢えを凌ぐ限界ラインだ。そして現地調達可能な水はゼロ。48時間後には脱水症状で部隊が壊滅し始める」
『……なるほど。剣を交えずに敵を破産なせる気か』
通信魔導器の向こうで、退却中のレオナが感心したように息を吐く。
『それで、私たちはどこへ向かえばいい? 指示通り50キロ後退したが、この先には旧時代の廃村と荒野しかないぞ』
「そのまま進め。あんたたちの『新しい家』はそこだ」
俺の言葉に従い、レオナが小高い丘を越える。
その瞬間、彼女は息を呑んで手綱を強く引き絞った。
『……な、なんだこれは!? ユージン、お前、王都の執務室で一体何を……!』
レオナの眼下に広がっていたのは、廃村などではない。
無数の巨大な天幕。そして王都の巨大倉庫群から丸ごと移送された、山のような魔晶燃料と弾薬の山だった。
「旧第4鉱山の廃坑道を利用した。あそこは地形的に上空の魔導偵察から完全に死角になる。戦時規格の仮設レールを強引に敷き直し、昨日から民間ギルドを総動員して資材を運び込んだ」
『馬鹿な……これほどの設営と民間ギルドの買収、一体どこから予算を……』
「昨日ふん縛った豚局長の『裏帳簿』を全額差し押さえた。横領の金で前線の弾薬を買い占めてやったんだ。領収書は綺麗に国庫へ回してある」
王国の腐敗した官僚機構を切り離し、俺の権限だけで回る独立兵站拠点。
「そこはもう軍の管轄じゃない。俺の帳簿だ。そこにある物資は、すべて第7師団のためだけに使え。俺が最強の兵站を回す。あんたは無敗の矛になれ」
『――あぁ、いいだろう! この悪魔の領地、私が責任を持って使い潰してやる!』
レオナの顔に、俺の相棒としての獰猛な笑みが浮かんだ。
***
――同時刻。東方帝国圏・参謀本部。
黒衣の情報将校ザイードは、前線から届いた「黒嶺要塞制圧」の報告書を読み、ピタリと手を止めた。
「……砂の混入。水源のコンクリート封鎖。これは『破壊』ではない。我が軍の維持費と時間を削るための手口だ」
無能な将軍の思いつきではない。極めて合理的で、血も涙もない「数字の暴力」。
ザイードは薄暗い天幕の中で、王都の方角を見据えて歓喜に唇を歪めた。
「いいだろう、王国の会計士。ならば次は、貴様の『物流』を潰してやる」
――天才同士の視線が、盤上を越えて交錯する。
俺たちの戦争は、剣の数ではない。
帝国の国家予算を完全に破産させるまで、この帳簿は閉じない。




