何も、見えませんでした
の団地は、巨大な水槽の底に似ている。
音は水圧に押し潰されたように遠く、空気は湿り気を帯びて肌にまとわりつく。
私の視界は、常に分厚い曇りガラスの向こう側にある。
世界は輪郭を失い、色彩は水に溶けた絵の具のように滲んでいる。強い光は白い飛沫として、影は濃淡のある黒い染みとして網膜に映る。だから私は、音と、匂いと、温度でこの世界の形を確かめる。
カツ、カツ。
白杖がアスファルトを叩く乾いた音が、静寂に吸い込まれていく。
ここは、来月には取り壊しが始まる予定の古い団地だ。
かつて三千人が暮らしたコンクリートの群れは、いまや電気も止まり、巨大な墓標のように夜空を切り取っている。住人の気配はなく、窓ガラスにはベニヤ板が打ち付けられている。
なぜこんな場所に来たのかと問われれば、感傷だと答えるしかない。
目が悪くなる前、十歳の頃まで暮らした四号棟。その前にある公園のベンチで、ただ少しだけ、あの頃の風の匂いを嗅ぎたかった。
それだけのために、私は終バスを降り、フェンスの隙間を抜けてここへ来た。
公園の入り口で、私は足を止めた。
風が止まった。
虫の声もしない。
世界が真空パックされたような、不自然な静寂。
その時、首筋の産毛が粟立つ感覚があった。
――誰か、いる。
視覚情報はあてにならない。けれど、私の聴覚は、風の音とは異なる質の「淀み」を捉えていた。
右前方、かつて滑り台があったあたり。
呼吸音は聞こえない。衣擦れの音もしない。ただ、そこに「質量」が存在することで、夜の空気の流れがわずかに歪んでいる。
警備員だろうか。それとも、私と同じような物好きな侵入者か。
逃げるべきか迷い、白杖を握り直した時だった。
「危ないよ」
声がした。
低く、平坦で、感情の色が抜け落ちた男の声だった。
驚きに身を硬くする私に、その声は淡々と続けた。
「その先、マンホールの蓋がずれてる」
私は足元を探る。杖の先が空洞に触れ、カランと虚しい音を立てた。あと二歩進んでいたら、私は足をとられて転倒していただろう。
「……ありがとうございます」
「いいや」
会話が途切れる。
不自然な沈黙が落ちた。
普通なら、「こんな時間に何をしているのか」とか「一人なのか」といった問いかけがあるはずだ。しかし、男は何も訊かない。ただ、そこに佇んでいる。
私は、最近ラジオで聞いたニュースを思い出していた。
この界隈で発生している、連続通り魔事件。
被害者は夜道を歩く女性ばかり。刃物で首を一突きにされるというが、目撃情報は皆無。犯人は音もなく近づき、音もなく去る影のような存在だと言われている。
心臓が肋骨を叩く音が、耳の奥でうるさいほど響く。
この男がそうだという証拠はない。けれど、そうではないという保証もどこにもない。
視界の端に映る男の影は、ただ黒く、滲んでいて、その表情を読み取ることはできない。
「座らないのか」
不意に男が言った。
「え?」
「ベンチに座りに来たんだろう。あんたの足、迷いがないから」
観察されていた。
私は躊躇いながらも、「ええ」と答えて数歩進み、記憶の中にあるベンチに腰を下ろした。
男の気配が動く。
彼は私の隣、人が一人入れるくらいの距離を開けて座った。
コンクリートのベンチは冷たく、その冷気がデニム越しに太腿へと伝わってくる。
隣からは、雨に濡れた古新聞のような匂いと、微かな鉄の臭いがした。工事現場のような匂いだ、と私は思った。
「静かだな」
男が独り言のように呟く。
「はい」
「俺は、ここが好きだ。誰もいない。誰も見なくていい」
「……私もです」
私は同意した。「私の目は、あまりよく見えないので。人が多い場所は、色が混ざりすぎて疲れるんです」
「そうか」
男の声のトーンが、わずかに下がったように感じた。
「見えないほうが、いいこともある」
男が言う。
「世界の汚さとか。人の悪意ある表情とか」
「そうですね」
「自分の手についた、落ちない汚れとか」
最後の言葉は、あまりに小さく、風の音に紛れてしまいそうだった。
私は聞き返せなかった。
沈黙が戻る。しかし、それは最初の緊張した沈黙とは違い、どこか共犯めいた、奇妙に平穏な静けさだった。
私たちはしばらくの間、並んで夜の闇を見ていた。
私には滲んだ黒い世界しか見えていないし、彼が何を見ているのかはわからない。
けれど、世界から弾き出された者同士が、ほんの一瞬だけ共有する「底」のような場所が、そこにはあった。
不意に、遠くでサイレンの音が聞こえた。
パトカーのサイレンだ。音は一つではなく、複数。そして、明らかにこの団地の方角へ近づいてきている。
赤い回転灯の光が、遠くの建物の壁を舐めるように走るのが、私の弱い視力でもわかった。赤、黒、赤、黒。明滅する世界。
隣にいる男の空気が、瞬時に変質した。
それまでの静穏が、張り詰めたピアノ線のような鋭利な緊張へと変わる。
「……行かないと」
男が立ち上がる気配がした。
「待ってください」
私は思わず声を上げた。何故引き止めたのか、自分でもわからなかった。
恐怖の対象であるはずの男を、私は引き止めようとしていた。
男は立ち止まった。
私の目の前には、ぼんやりとした黒い影があるだけ。
サイレンの音が大きくなる。
男が一歩、私に近づいた。
「あんた」
男の声が、今までで一番近くで聞こえた。
彼が顔を近づけたのだとわかった。冷たい吐息が私の頬にかかる。
「俺の顔が、見えなくてよかったな」
それは、安堵のようでもあり、深い絶望のようでもあった。
男の手が伸びてくる気配がした。
私は身を強張らせた。首を絞められるのか。それとも、凶器が振り下ろされるのか。
私は身動きが取れなかった。恐怖よりも、この奇妙な時間の終わりを見届けたいという欲求が勝っていた。
けれど、男の手は私の首元に伸び、マフラーの乱れを直しただけだった。
荒れた指先が、首筋の動脈の上をかすめる。
その一瞬、男の指が微かに震えているのを私は感じた。
「風邪を引く。早く帰れ」
それだけ言い残し、男は闇の中へと消えた。
足音は、やはりしなかった。
数分後、駆けつけてきた警察官たちに私は保護された。
彼らは懐中電灯の強烈な光を私の顔に向け、口々に「無事か」「怪我はないか」と叫んだ。その騒々しさと明るさが、私にはひどく暴力的に感じられた。光の暴力が、私の守ろうとした静寂を引き裂いていく。
警官の話によると、この団地内に逃げ込んでいた連続通り魔犯の男が、つい先ほど近くで目撃されたらしい。
全身黒ずくめで、手には血のついたナイフを持っていたという。
そして、その男の特徴は、犯行現場において徹底して「無言」であることと、被害者の首を一突きにすることだったそうだ。
「誰か見ませんでしたか? 怪しい男とか」
若い警官が、息を切らしながら私に尋ねた。
私は自分の首筋に手をやる。
あの冷たい手の感触。マフラーを直した、不器用な優しさ。
鉄の臭いは、もしかしたら血の臭いだったのかもしれない。
彼が私を殺さなかったのは、私が彼の顔を「見る」ことができなかったからかもしれない。あるいは、闇に溶けた私を、彼が同類だと見なしたからかもしれない。
それでも。
あの暗闇の中で、私と彼の間には、確かに人間的な体温が通っていた。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
視界の端で、赤色灯がクルクルと回っている。その光は、私の網膜に残る夜の闇を、無遠慮に焼き払っていく。
「何も、見えませんでした。私の目は、あまりよく見えないんです」
警官は同情的な溜息をつき、私の肩を支えて歩き出した。
私は一度だけ振り返った。
そこには、ただ深い闇が広がっているだけだった。
団地は来月、取り壊される。
私たちが並んで座ったベンチも、彼が吐き出した微かな後悔も、すべて瓦礫の下に埋もれて消えていくのだろう。
私は白杖を握り直し、光の溢れるほうへと歩き出した。
首筋には、まだ微かに、あの冷たい指先の感触が残っていた。それは洗っても落ちない染みのように、私の記憶に張り付いて離れない予感がした。




