第八話「椿の色」
「きゃっ!?」
突如、月冴は少女の腕を引っ張り、少女の身体を抱き寄せて腕枕をする。
「どうしてこんなことを願った?」
どうしてだろう――と考えて少女は吐き気のする欲を喉から押し出した。
「母親ってこんな感じかなと」
「母親?」
「私は母を知らないのです。顔を覚えるより先に両親は亡くなったそうですから。月冴さまはとても美しいので……その」
奇妙な欲だ。
こんなのは絶対に変だと少女は口ごもり、チラチラと月冴に視線を送った。
「男性とは思えないといいますか……」
消え入りそうな声で呟くと、月冴は目を見開き、眉をひそめた。
「それはずいぶんと舐められたものだ」
「ふぁっ……?」
月冴が少女の頬を摘む。
不意打ちに少女の口から間抜けた息が吹き出た。
顔にすべての熱が集まったかのようだ。
混乱してアタフタしていると、月冴が「ぷっ」と吹きだしてそのまま少女の頬をいじくった。
このイタズラは嫌ではない。
月明かりなんて目もくれず、銀色の光の粒の方がずっとずっと見ていたい。
うっとりしていると、口角がゆるくなった。
(月冴さまはあたたかい。私はどんな温度をしているのかな)
夢見心地と、ときどき突然目が覚めるような現実。
もう少しで答えにたどり着きそうな気がした。
前が見えないことは足元が見えないのと同義だが、月冴といれば歩けるかもしれない。
勇気。
不安でいっぱいだけど、月冴の背中を追うだけでなく、隣に並べたらと想いが強くなった。
***
広い敷地を探検すれば、一人で使うには持て余す露天風呂を発見した。
少女はドキドキしながら湯に足をつけ、自分の意志で動けることに頬を熱くした。
「あ……」
湯気の向こう側に人影がある。
「あら」
そこには先に椿がおり、豊満な身体を湯であたためリラックスモードになっていた。
奥へ進もうとしない少女に椿はニコリと笑って手招きをする。
(怖い。逃げたい。でも嫌だ)
キモチワルイと思う欲求を少しでも受け入れたい。
月冴が「鈍いままでいるな」と遠回しに言っていた。
この先、月冴に答えを求めるならば鈍いままでいてはダメなのだろう。
そのままでいるのも少女は嫌だと手のひらに爪を突きさした。
お湯をかき分け、意固地になって椿のとなりで肩まで湯に浸かった。
「私が怖い?」
あだっぽい声に少女は顔をあげる。
以前は甘いビードロの声だったと思い、トーンの低さに腕を擦る。
「怖く、ないです」
「あら、そう。わたしはあの方の妻となるのよ?」
「そんなことにはなりません、……月冴さまが受け入れない」
「どうしてそんなことが言えるの?」
その言葉に少女の胸が抉られる。
さんざん押し殺してきた感情がカッと爆発し、少女は八つ当たりのように水面を叩いた。
「月冴さまは誰のものにもならない。誰も愛さない。……それくらいわかってます!」
やさしさに触れ、もしかして……と勘違いをしていた。
月冴にとっては”生きてたどり着いた物珍しい人間”でしかない。
はじめて見たことで興味を持っただけ。
いつか飽きる。
最初こそ養父は少女の手を引いてくれたが、いつしか背中を向けるだけで怠惰な姿しか見せなくなった。
少女は養父にとって、勝手に金を稼いでくる道具でしかなかった。
わかっていて、少女は振り向いてほしいと願い愚直に動いた。
月冴にとってもすぐに退屈な存在になると想像した途端、大粒の涙があふれでた。
椿はぎょっと目を丸くし、少女の悲惨な泣き方にいたたまれないと目を反らした。