蔵の中2
2
ハッハハハハ。アハハハハ。
大丈夫。僕は何にも、狂ってなどいませんよ。
ここまで来るとね、もう涙も出なくって、笑うしかなくなってしまうのですよ。
ふふ。ねえ刑事さん。僕の話を聞いたら、あなたも一緒に笑ってくれますか。
ハハハハ。こうなったら、何もかもお話ししますよ。
僕の罪、僕の卑怯、僕の不幸をね。
僕の十字架は、妹の鈴子でした。兄の口から言うのもなんですが、鈴子はそれあもう、可愛い娘でね。動く人形のような、愛らしい美しい子でしたよ。
僕が妹を可愛がったのは、彼女が三、四歳くらいまででしたっけ。ちょっと言葉の遅い子でね。もしかしてこいつは知恵遅れじゃないかしらん……そう思うと、僕は可愛かった妹が、なんだか気味悪く思えてしまいましてね。
五つになってようやく喋るようになったけれども、どうも話すことがおかしい。こいつはいよいよ変だぞと思って、僕は妹から離れました。
そのうちに、親父が死にました。性病が発覚して、政財界から失脚しましてね。妾宅に入り浸っているうちに、病気を貰っちまったんでしょう。いい恥さらしだ……。
そんなことはいいから、土蔵の死体について話せ?
ふ、ふ、ふ。駄目ですよ刑事さん。僕は、もう来る所まで来てしまった、どん詰まりの罪人なのだ、逃げ道がないのだということを思い知ったのだから、一から十まで、話につきあってもらいます。
刑事さんにとってはただの事情聴取なのかもしれないが、僕にとっては罪の告白、懺悔なのですからね。
どうにも知恵の遅れた妹を、母が心配して、方々の病院に診せて回りましてね。それで分かったのは、鈴子の頭が弱いのは、親父の性病のせいだったのです。病気を孕んだ精で妊娠したものだから、鈴子は生まれつきの病気持ち、キチガイでしてね。生まれ持った病気は妹の脳髄を腐らせてしまい、どうしようもないのです。
それを聞いて母は泣きましたよ。そんな母の横で、鈴子はケタケタ笑っていましたが。
あああ、こいつは病気持ちのキチガイだキチガイだ……。僕は、妹を心底恐ろしく厭らしく思いました。
父親が醜聞のうちに死んだというだけでも恥さらしなのに、そのうえ鈴子が狂人ときている。いくら遺産があっても、世間の白眼視といったら、それあもう……。
母は、人里離れた森の奥に、屋敷を構えました。鈴子を世間から隠すのだと言って、土蔵を作ってそこに鈴子を閉じこめてしまいました。
僕は、あの土蔵が厭でたまらなかったし、森の奥の陰気な屋敷も、嫌いでならなかった。僕は東京の学校に行きたいと駄々をこね、屋敷を飛び出しました。学校なんかどうでもよかった、とにかくあの厭らしいキチガイ屋敷から、逃げ出したかったのです。
東京で、僕は水を得た魚のようになりました。妹が横にいたのでは味わえない自由と青春の楽しみを、僕ははじめて知りました。
故郷を離れた都会では、誰も僕の家族のことなぞ知りません。白眼視されたり陰口を叩かれることもありません。それどころか、僕には大勢の友人が出来ました。ふふ、恋人だって、一人ではなかったのですよ。
母からは、たびたび手紙が来ました。早く帰ってきて、家を継いで欲しいという内容でした。あんな家に誰が戻りたいものか。僕は仕送りの無心だけをして、中学を出るとさらに上の学校に進みました。
大学まで進み、学位取得の目前まで来ました。博士になって、将来を立てようと、僕は考えていました。家族のことなど頭から閉め出し、僕は輝かしい未来に胸をときめかせていました。
そんな時です。母の訃報が届きました。
僕は、驚愕し打ちひしがれました。母の死が悲しかったというより、学位を目前にして将来を断ち、あの陰気な屋敷に戻らねばならないことが、涙が出るほど悔しかった。
親の死の悲しみを越えるほど、僕は、自分の将来がうち砕かれたことが、切なくて辛かった。そして、捨ててきたあの家、森の奥のひっそりとしたキチガイ屋敷に戻らなければならないことが、僕を戦慄させました。
母は死んだ。僕が、あの妹の面倒をみなくてはならないのか。
目眩がしました。頭痛がしました。目の前が、暗くなりました。
僕は、三人の恋人に、一緒に故郷に来てくれないかと誘いました。家族のことを話すと、恋人たちは離れていきました。僕は、一人で故郷に向かいました。十年ぶりの帰郷でした。
十年の年月で、新築だった家屋敷は、黒ずんで蔦だらけになっていました。森の木々も繁殖、成長し、さらに鬱蒼となった感じです。
なんてことだろう、こんな鬱陶しい屋敷で、僕は気狂いの妹と二人きりで暮らすのか。
おぞけがしました。耐えられない。
金はあるのだ。人を雇おう。
僕は、女中を募集しました。給金の高さにひかれて、こんな不便な屋敷にも、応募がありました。
僕は、女中らに、鈴子の世話を申しつけました。
「まあ、なんて可愛らしい」
土蔵の中の鈴子に、女中らは目を細めました。あれは見た目は天使だけれど、中身はどうしようもないのだ。僕は女中らの後ろで、そっとため息をつきました。
まあいい。鈴子の世話は女中たちがやってくれる。僕は胸をなで下ろしていました。
けれども、女中らはことごとく、三日もしないうちに、暇を告げに来ました。
「鈴子さんにはつき合っていられません」
鈴子は、ひどい癇癪を起こし、手に余るというのです。給金を高くするから仕事を続けてほしいと言っても、女中らは振り切って出ていってしまいました。
土蔵の中は、地震と台風がいっぺんに来たような有様になっていました。女中が音を上げる癇癪ぶりが、うかがえました。
「うっふふふふ」
鈴子は、立ちつくす僕を見て、笑いました。
「駄目よ、兄様ぁ……やっと帰っていらしたのに、鈴子の相手をしてくれないなんて」
すねた子供のように言います。どうやら鈴子は、女中ではなく、僕に世話をしてほしいようでした。
「どうして鈴子と遊んでくれないのぉ……」
童女のようにあどけなく笑いながら言います。その無邪気さは、僕をゾッとさせました。
僕はすぐに、次の女中を募集しました。鈴子はまた凄まじい癇癪を破裂させ、女中を追い出してしまいました。
「畜生、なんて奴だ。次から次に、女中を追いだしやがって」
僕は頭を抱えました。土蔵からは、僕をあざ笑うように「ホホホホホホホホホ」と、甲高い笑い声が聞こえてきました。
僕は好条件で、女中の募集をし続けました。女中が見つかるまで、僕が妹の世話をしなければならないのが、厭でたまりませんでした。僕はとにかく妹と顔も合わせたくなかったので、土蔵の扉に小さな窓を作って、そこから食事を差し出すだけにしていました。
女中が辞めて、一週間も経ったでしょうか。夜中、僕は重苦しさに、目が覚めました。
長い髪の白い顔が、僕にのしかかっていました。
幽霊か? 化け物か? 僕はいっぺんで目が覚めました。
「うっふふふふ」
子供のような笑い声に、僕は幽霊の正体を知りました。
僕の体に重なるようにして覗き込んでいるのは、鈴子だったのです。
幽霊かと思った時よりも、恐ろしくなりました。
「うっふふふふ」
「す、鈴子……」
「やっと目が覚めたの……? 鈴子、ずっとずっと、兄様を見ていてよ……よく眠っていらしたわね、うふふふふ……」
「ど、どうやってここに?」
鈴子が土蔵から脱走して、僕の部屋に来た。戦慄しました。妖怪が夜這ってきたように思いました。
「兄様はずるいから、逃げるのよねぇ……鈴子、ずるい人は嫌いだなあ……」
僕の恐怖を楽しむように、クスクス笑って、鈴子は僕の鎖骨を指で撫でました。
「やめろ!」
僕は跳ね起き、鈴子の細い手首を掴みました。
「このキチガイ……土蔵に戻してやる」
「うっふふふふ。あはははは」
僕は笑う鈴子を引きずり土蔵に鍵をかけました。見ると、土蔵の鍵は、長年の月日の間に錆びていて、鈴子はどうやら、体当たりでもして、古い鍵を開いたようでした。
また、夜中に鈴子にのしかかられてはたまらない。あのキチガイに自由に外を歩かれてはたまらない。
僕は、古い鍵を取り去り、土蔵に二つ新しい鍵をつけ、絶対に鈴子が脱走しないようにしました。
やがて、新しい女中がやって来ました。川村初という、十六歳の少女でした。
はじめて初と対面して、僕は、彼女のあどけない表情の底に、かすかな戦慄を感じました。一見すると、礼儀正しい大人しそうな可愛らしい娘なのですが、何か、どこか、僕を震えさせる奇妙さがありました。
初の雰囲気が鈴子に似ていることに気づき、僕はそれをうち消すように、頭を振りました。鈴子のような娘が、二人もいてはたまらない。初が妹と同い年で、あどけない可愛い顔をしているから、似ているように思うのだ……僕は、心中で初と鈴子の相違を否定しました。
けれど、僕の第一印象は、正しかったのです。初は、まともな娘ではなかったのです。彼女もまた、鈴子と同じように、狂気を内包した娘だったのです。
でもこの時の僕は、自分の六感を否定し、初の表面的な可愛らしさに目を留めました。初は今までの女中のなかで一番綺麗な顔をしていて、挙動も初々しく、僕は彼女が長続きしてくれると良いと思いました。
僕は、初を土蔵に案内しました。
「妹の鈴子は、少しおかしいのだ。君には鈴子の世話をしてもらいたいのだが……」
「旦那様の妹なら、きっと可愛らしい方なのでしょうね」
「……」
僕は、土蔵の二階の扉の鍵を開きました。初を庇うように、彼女の前に立って、部屋に入りました。
「うふふふふ」
僕の登場を、鈴子は笑顔で迎えました。機嫌が良いようなので、僕は脇に退き、初と鈴子を対面させました。
「まあ、可愛らしい」
初が、多くの女中と同じことを、鈴子を見て言いました。
「鈴子や。この人は川村初さんと言って、今日からおまえの世話をしてくれる子だよ。年も同じだし、仲良くしておくれ」
僕は鈴子に初を紹介しました。鈴子は、ニコニコ笑って、初に近づきました。良かった、鈴子は初を気に入ったようだ。僕はほっとしました。
「よろしくお願いします、鈴子お嬢様」
初も笑顔で、鈴子に言いました。
「うふふふふ」
鈴子は初に屈託のない笑みを向けたまま、初の横面を叩きました。
「鈴子!」
僕は驚いて鈴子を突き飛ばしました。鈴子は微笑んだままです。
「大丈夫かい、初さん」
初は、痛みよりも驚きに目を開いていました。いきなり、なんてことをするのだろう。今更ながら、僕は鈴子の非常識に呆れました。初は辞めてしまうかもしれない。僕は歯噛みしました。
初の驚きの表情に、ゆっくり笑みが浮かびました。
「……大丈夫。夢見の人がしたことですもの。あまり痛くもありませんでしたし」
初が頬から手を離すと、彼女の頬は赤く腫れていました。痛くないなんて嘘です。
「すまない。妹がひどいことを」
僕は項垂れました。妹の代わりに謝りました。
「いいのです。鈴子さんのような人は、子供や動物と同じなのだから。私、可愛い小動物、大好きですわ」
怒るでもなく、初は微笑んでいました。鈴子は初を追い出そうとしたようですが、痛い洗礼で初が逃げ出さないことに、鼻白んでいるようでした。
初は気丈な娘なのだなと、僕は単純に感心しました。
「改めて、よろしくね、お嬢様」
初は、笑顔で鈴子に手を差し出しました。鈴子は戸惑った表情を見せました。今までの女中なら、もう不審と怯えで逃げ腰になっている所なのに、初の気丈な態度には、さすがの鈴子も面食らったようでした。
初が、これまでの女中と違い、芯の通った娘らしいことに、気狂い鈴子も、少し心を開いたようです。鈴子は、差し出された初の手を、指先だけ軽く握って、離しました。
初は、鈴子の世話をよくやってくれているようでした。時折、鈴子の癇癪が聞こえてきましたが、初は負けることなく、土蔵に足繁く通っていました。
良い娘が来てくれたと、僕は喜んでいました。僕は妹の世話から解放され、肩の荷がおりたように思いました。
僕は初の労を労い、時折お菓子の缶詰を与えました。鈴子は菓子が好物で、それを初と分け合って食べることで、初と鈴子に仲良くなってもらおうと思ったのです。初と鈴子が友達になってくれれば、初は鈴子の相手をしてくれますからね。
初に、鈴子の様子を訊くと、鈴子とは友達になったようでした。
「私、鈴子さん大好きですわ。人形のように可愛いのですもの」
初は、鈴子の世話を楽しんでいるようでした。
初は鈴子だけではなく、僕の身の回り世話もしてくれていました。初はまめに働いてくれて、暗く埃をかぶっていた屋敷は明るく綺麗になり、陰鬱な日々が快適になりました。
森の奥の屋敷ですから、リスやウサギなど、動物が紛れ込んでくることが、たまにありました。そういった小動物が紛れ込んでくると、初は嬉しがって、餌付けし、可愛がっていたものです。初が可愛い小動物が好きだと言ったのは本当だったのだなと、初の少女らしい動物愛玩に、僕は目を細めたものでした。
「私ねえ、よく子犬だとか子猫だとか小鳥だとか、飼っていたんですのよ」
ウサギを抱きながら、初はニコニコと言いました。可愛いものが好きでたまらないようでした。
数日後、僕は森を散策していて、ウサギやリスの死骸を見つけました。可哀相に、きっとイタチか何かにやられたのだろう。初がこれを見たら悲しむだろうなと胸を痛めていると、驚いたことに補食動物であるイタチやキツネの死骸もありました。
ウサギらは、天敵にやられたわけではないのか?
動物の大量死に首を捻りつつ、僕は屋敷に戻りました。
付近の動物が死んでしまい、屋敷にウサギやリスが来ることがなくなったので、僕は可愛い子猫を買い、初に与えました。初は喜んでいました。けれども何日かして、子猫の姿が見えなくなりました。
逃げてしまったと、初は悲しそうにしていました。
僕は、菓子の缶詰だけでなく、色々なものを、初に与えました。ドレスや人形など、少女が喜びそうな物を。初は、はじめて長続きした女中で、よく働いてくれて、僕は可愛い女中に好感を持つようになっていたのです。
三人の恋人に去られ、女中らも居着かなかった経験から、自分は陰鬱な屋敷で一生独身で過ごさねばならぬのだろうと絶望していましたが、初の存在に、僕は暗闇に光明を見いだしたように思いました。
初ならば、この暗い屋敷でも、朗らかに、ずっと居てくれるのではないか。
鬱々と孤独な日々を送っていた僕は、明るく甲斐甲斐しい美人女中に、すっかり舞い上がっていたのです。三人も恋人を持っていた都会の遊び人が、純情な少年のように、妹と同い年の小娘に、熱を上げていたのです。
僕は、それとなく初に好意を示しました。プレゼントをしたり言葉をかけたり。初は微笑みを返してくれました。僕はいよいよ舞い上がり、思い切って彼女に求愛してみました。
初は、やはり微笑みながら、やんわりと、けれどはっきりと、僕の求愛を断りました。
僕は打ちひしがれ、逃げるように屋敷を出ました。初と顔を合わせたくなく、僕は森を彷徨いました。
そういえば初は、僕がプレゼントした服に、一度も袖を通したことがなかった。彼女はただ、使用人という立場上、愛想で微笑んでくれていただけだったのだ。それなのに舞い上がって。僕は、自分が情けなく恥ずかしくてたまりませんでした。
僕は足を止め、目を開きました。そこは、以前に通りかかった、動物の死骸ばかりある場所でした。半分白骨と化した死骸の束の中に、僕は見覚えのある死骸を見つけたのです。
それはまだ新しい死骸で、白骨化しておらず、子猫のもののようでした。その首にはリボンの首輪がついていて、それは紛れもなく、僕が初にプレゼントした子猫に違いありませんでした。
僕は立ちつくし、子猫の死体と、その他の動物の死骸を眺めました。
背筋が、ゾオーッと寒くなりました。
初は、子猫が逃げたと言っていたけれど、その猫はここで死体となっていたのです。彼女が可愛がっていた、他の動物たちも。
初が、殺したのだろうか。
まさか、とは思いました。あの可憐な初が、動物好きの彼女が、こんな残酷なことをするなんて。
「違う違う違う……」
僕は、動物の墓場から目をそらし、そこを離れました。
初の異常を否定しつつも、僕は屋敷に帰るのが恐ろしくなり、日が沈んでようやく、帰途につきました。
「おかえりなさいませ、旦那様。お帰りが遅いものですから、心配しましたわ」
初は、普段と変わらぬ笑顔で、僕を迎えてくれました。
やはり、僕の戦慄は邪推だったのか……。僕は、初を疑ったことを、すまなく思いました。
疑いが消えると、僕は、失恋した少女の前に立つのが切なくなり、そそくさと自室に引き上げ、夕食もそこそこに、早くに床につきました。
早くに寝たせいでしょうか。僕は、物音に目を覚ましました。
泥棒かと思って起き出してみると、薄闇の中、初が歩いていくのが見えました。厠とは方角が違います。
何だろう……僕は不審に思い、ヒッソリと後をつけました。
初が向かったのは、土蔵でした。
こんな時間にあんな土蔵に何を? 僕の不審はますます高まり、嫌悪を押さえ、初に続いて、そっと土蔵に入りました。初は、土蔵の二階にあがっているようです。階段はきしむので、僕は階下から、上の様子に耳を立てました。
「うふふふ……」
初の、忍び笑いが、闇の中から聞こえてきました。
「可愛い……可愛いわあ……私のお人形……」
初の呟きの間に、鈴子の寝息が聞こえます。
なんだ?
僕は、冷たい手で、背中を撫でられたように感じました。どうやら初は、鈴子の寝姿を眺めているようなのです。鈴子の寝顔を見るために、こんな夜中に土蔵に出向いたのです。
なんでしょう、これは。僕は戸惑いました。
少女が少女を夜這う。異常です。倒錯です。
暗く閉鎖された蔵の中で、しどけなく眠りこけている鈴子を、初がねっとりと眺めている様を想像し、僕は鳥肌が立ちました。倒錯の美と怪奇の光景。二人が揃って美少女だから、よけいに怖く感じました。
僕は、そろりそろりと、土蔵から出ました。音をたてないように。初に気づかれないように。
初が女中を辞めない理由、彼女が僕の求愛を断った理由が、ようく分かりました。
初は、同性愛の変態だったのです。
なんということか。
僕は、眠れずに布団の中で悶々としていました。
「おはようございます」
翌日、初は普段通りの朗らかな挨拶をしてきました。僕は昨夜のことが頭から離れず、ボウとした返事を返しました。
初が朝食をいそいそと土蔵に運ぶのを、僕は不思議な気持ちで眺めていました。
初は変質者なのか……土蔵のなかで、鈴子と奇怪な逢瀬を楽しんでいるのか……。
気味の悪いような寂しいような、何とも言えぬ気持ちになりました。僕が恋した娘は、同性愛の変態だったのですから。
「キイイイイーー!」
土蔵から、鈴子の金切り声が聞こえてきました。今までにも時折、鈴子の癇癪は聞こえていましたが、この時の僕には、それがただの癇癪ではないのではないかと思えました。
あれは癇癪ではなく、悲鳴ではないのか。
同性愛の変態少女が、閉じた蔵の中で、鈴子に何をしているのか……。
もしかすると、動物を殺したのは、やはり初だったのかもしれない。彼女は、美しいものや可愛いものが好きで、愛しいものを滅茶苦茶にしてしまうことに快感を覚える、倒錯加虐の変質者なのではあるまいか……。
土蔵を見上げて立ちつくしていると、初が出てきました。
「どうかなさいまして、旦那様」
「いや……」
僕は、最前まで好ましく思っていた初が、気味悪く思えて、半歩後じさりました。
「鈴子は……鈴子の様子は、どうだい?」
「癇癪を起こしておしまいですわ。お菓子でもあれば、ご機嫌を直してくださるかもしれませんけれど……」
初は肩をすくめて言いました。変質同性愛者とは思えない、まったく普通の調子です。
昨夜見聞きしたものは夢だったのじゃないかしらん……僕はまたまた、キツネに化かされたような気になりました。
僕がお菓子の缶詰を与えると、初はそれを受け取って嬉しそうに土蔵に入っていきました。まもなく、鈴子の金切り声が聞こえてきました。
「兄ィ様ァァ……兄様ァァァァ」
糸を引くような、助けを求めるような声が、土蔵から聞こえてきます。やはり、初に虐められているのだろうか。僕は耳を塞ぎました。
突然、鈴子の叫びが止まりました。
僕は耳から手を離しました。シインとして、ただ森の木々が風にざわめく不気味な音だけが、響いていました。
土蔵は、静かなままでした。
夜になっても、初は土蔵から出てきません。人の声ひとつ無い森の奥の屋敷は、自分の家ながら幽玄じみているように思えました。
初に声をかけようかと思いましたが、土蔵に入るのは躊躇われ、僕は自室でじっとしていました。
朝になりましたが、静かなままでした。初の姿はありません。まだ土蔵にいるのか。僕は少し驚きました。
少し迷い、僕は土蔵に赴きました。中には入らず、外から、土蔵に呼びかけます。
「初さん……初さん……」
返事はありません。土蔵にもいないようです。
はて、一体どこに行ったのだろう……。何の断りもなくいなくなった初に、僕は首を捻りました。戻ってきたら、訳を訊かないと。
昼になっても静かで、初は見あたらず、僕は焦燥してきました。初が心配なのもありましたが、土蔵に放っておかれた鈴子の世話への苛立ちのほうが、大きいものでした。
「畜生、初め。どこに行ったんだ」
静かな土蔵、消えた初。僕は、ふと、寒いものを感じました。
もしや、初は逃げたのではないだろうか。
疑っては払拭したものの、やはり初は変質異常者だったのではないか。彼女はその加虐嗜好のために、鈴子を重篤に至らしめ、遁走したのではないか。
そんな考えが不意に浮かび、脳裏にあの恐ろしい動物墓場が横切りました。
「考えすぎだ、考えすぎだ。こんな陰気な化け物屋敷で暮らしているから、キチガイじみた考えに囚われるのだ」
僕は、恐ろしい考えを、必死に振り払いました。可憐な女中が変質異常者で、気狂いの妹が土蔵で死んでいる……考えただけでゾッとする、狂人の妄想のような光景です。
きっと初は、土蔵で鈴子と一緒に眠り込んでいるのだ、きっとそうだ……僕は、無理矢理自分に言い聞かせました。死体と二人、取り残されたなんて、想像するだけでも恐ろしい。そんなことになってはたまらない。
鈴子は生きていると思いこみながらも、僕は土蔵に食事を入れようとはしませんでした。もし鈴子が生きているなら……そんな気配は一つも感じられませんでしたが……土蔵に閉じこめられたまま水も食事も与えられず、大変なことになっているはずです。でも僕は、厭らしい恐ろしい土蔵に入るのが厭で、身の毛のよだつ真実を見るのが厭で、放置していました。
一日経っても、初が戻ることはありませんでした。土蔵は静かなままです。いよいよおかしい。もう、自分を騙すことは出来ません。
何かがあったのです。鈴子の悲鳴が突然途絶えた、何かが。
夕方になると、かすかに、変な臭いが、土蔵から漏れてくるような気がしました。もうとても、土蔵の中に入る勇気はありませんでした。
土蔵の中で、鈴子はなぶり殺しにされたのだ……あの暗ぁい部屋で、死体が腐っているのだ……あいつは最期に「兄様ァ」と僕を呼んだのだ……。
発狂しそうなほど恐ろしい。僕は意気地無くガタガタ震えました。
初が鈴子を殺したという証拠があるわけではありません。すべては僕の推論に過ぎない。けれど、動物の死骸や初の行動を思い返すと、どうしても最悪の事態を想像してしまいました。
どうしよう……。僕はおそらく蒼白になっていたと思います。
警察。警察に届けようと思いました。とても、一人で土蔵に入って確かめる勇気など、ありませんでした。
「ホホホホ……」
土蔵から、突如、笑い声が聞こえてきました。
心臓を鷲掴みにされたように思いました。こんな恐ろしい笑い声は、聞いたことがありません。
「ホオオホホホホホ……」
笑い声は、いつまでも、いつまでも、響いています。誰もいないと思われた土蔵で、女が笑っているのです。
誰が笑っているのか。発狂した初か?
初は、逃げたのではなく、死体と共に土蔵に残っていて、気が違ってしまったのか?
「ホオオホホホホホヒヒヒアハホホホホホ……」
笑い声は、どこまでもどこまでも、続きます。僕にはそれが、僕を責めるように、呼びかけるように聞こえました。この声を黙らせるには、僕が土蔵に入るしかないのではないか……そう思えてなりませんでした。
「やめてくれ……やめてくれよ」
「ホオオホホホホホホホホホホ……」
「黙れ、やめろ、キチガイ!」
「ヒイイイヒヒヒヒヒヒ……」
耳を塞いでも、笑い声はいよいよ高く、鼓膜をつんざきます。もう、この屋敷には、僕と狂人しかいないようです。
僕は屋敷に入り、警察に通報しました。警官が来るということでしたが、到着に一時間もかかると言われました。
「ホオオホホホホホホホホホホ……ヒイイイヒヒヒヒヒヒ……」
笑い声が、いつまでも続きます。これを一時間も聞いていたら、おかしくなってしまう。
「やめて……やめて……」
「ホオオホホホホホホホホホホ……ヒイイイヒヒヒヒヒヒ……」
「やめろ!」
僕はついに、土蔵に入る決心をしました。
鈴子の悲鳴が止んでから三日経ちます。死体は腐り始め、初はやせ衰えていることでしょう。
一階の扉を開いた途端、うるさく響いていた笑い声が止まりました。
僕は、全身に鳥肌をたてながら、階段をきしませ、ゆっくりゆっくり上りました。
階段を上りきり、二階の扉の前に立ちました。
狂った初と、死体と対面するのだ……。
怒りも悲しみもなく、ただ恐怖だけがありました。僕は扉を開きました……。
開けた途端、死臭が鼻をつきました。
部屋の中には、僕が初に送った服が並んでいました。着せ替え人形の部屋のようでした。初は、自分では着ずに、鈴子にドレスを着せていたのでしょう。
そして思った通り、死体が、紫色に太った死体が、横たわっていました。
けれど僕は、死体よりも、その脇に立っている少女のほうが、恐ろしかった。少女の足下には、空の缶詰が転がっていて、彼女がお菓子で命を繋いでいたことが分かりました。
「やっと来てくれたのねぇ、兄様ぁ……」
鈴子はそう言ってニイコリ微笑むと、体力が尽きたように、倒れてしまいました……。
ハハハハ。これで、お話はお仕舞いです。
死んでいたのは、鈴子ではなく、初だったのです。舌を切られて死んでいたのでしょう? きっと、鈴子に無理矢理口づけをして、舌を入れて噛み切られてしまったのでしょうね。鈴子の悲鳴が止んだのは、口を塞がれたからだったのです。
鈴子はもう完全におかしくなってしまったのでしょう? 自分を初だと言っているんですって?
ハッハッハッハア。正常な人間だって、死体と一緒に三日も閉じこめられたんじゃあ、おかしくなりますよ。しかも兄貴が、いつまでも助けに来ないんだから。
僕は、分かっていたのに。鈴子がずっと待っていること、鈴子には僕しかいないこと、初が鈴子を虐めていたこと。分かっていたのに、僕は……。
ハハハハ。なるほど、鈴子は狂った人殺し、初は変質異常者だ。でも、一番悪いのは、僕だったのではないですかね?
僕は妹を、たった一人の肉親の鈴子を、見捨てて知らぬふりをしていたのですからねえ。面倒や不愉快が厭で、逃げ回っていたのですからねえ。人殺しよりも罪が重いかもしれませんねえ。
認めますよ、僕がずるい卑怯者だということをね。
僕は、面倒をかける鈴子が厭で気味悪くて仕方なかった、世話を母に押しつけて逃げた、母が死んだら、女中に任せた!
ハハ……これが、実の兄のやることですかね。
僕が逃げなければ、面倒を厭わなければ、初も死なずにすんだかもしれません。こんなひどいことには、ならなかったかもしれません。
土蔵、死体、腐った死体……なんてことだ。あれはもう、一生焼き付いて離れないだろう。可哀相だとか悲しいだとか、そんな甘い感傷なんてわきません。恐怖と戦慄です。
ああ、おそろしい……なんて恐ろしい……。
ウワアアア……。
どうしてこんな事になったんでしょうね? ねえ、どうして?
初はどうなりますか。彼女は孤児だ。無縁仏で葬られるのですか? 手厚く葬ってやってください。
鈴子は、どうなりますかねえ。殺人罪で、裁かれますか? でも彼女は夢見の人間だし、初が鈴子にしたことを考えると、正当防衛のような気もしますね。無罪か、罪に問われたとしても重くはないのでしょう。
そしてこんな事件が起こってしまったのでは、神野の家に女中なんて誰も来てくれないでしょうね。懇意にしている口利き屋にハッキリ言われましたよ、もう女中は世話できないって。
ハハハハ……。
新聞にも書き立てられるし、鈴子は微罪で戻ってくるし、僕にはもう、逃げ場がないんですね。
ねえ刑事さん。鈴子に会ったら、伝えてくれませんか。もう兄様は逃げないと。東京にも行かないし、人任せにもしない。側にいて、ちゃんと鈴子を見るからと。卑怯者はやめるから、ずるい兄様を許してくれと、伝えておいてください。
楽しんでいただけたなら、幸いです。
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