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蔵の中  作者: dydy
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蔵の中1

    1


 ああ、ああ、失楽の時が遂にやってきたのだわ。私の罪、私の変質を、世に晒す時が来たのだわ。でも、いつか破局が訪れるのは、分かっていたことじゃないの。嘆いていても、仕方がないわ。

 ええと。どこからお話しすればいいのかしら。

 やはり、最初からお話しするべきでしょうね。私も混乱してしまって、要点だてて事のあらましを話すのは無理ですし。もどかしいかもしれませんが、一からお話することにいたしましょう。

 最初からというなら、私が神野のお屋敷に奉公にあがった段から、お話せねばなりますまい。

 口利き屋の紹介で、私、はじめて神野さまのお屋敷を見た時は、それはもう驚きましたわ。だって、まわりが鬱蒼とした森でしょう。人里を離れ、なんだか昼でも薄暗いような所を延々歩かされ、ようやく見えてきた神野のお屋敷。

 大きくて、立派なお屋敷でした。お城のようでございました。けれど何でしょう、どこやら陰気で、なにがしか妖怪でも棲み着いているのではないか、そのような印象を受けるお屋敷でした。

 親もない十六の小娘は、故郷を離れたはじめての奉公に、言いしれぬ不安と、なぜだか知れぬときめきを覚えたものでございます。

 何でもここを紹介してくれた口利き屋の話によると、神野のお屋敷に何人女中を紹介しても、すぐに辞めていってしまうんだそうでございます。

 そのような因縁ありげなお屋敷に奉公の口をあてがわれたのは、やはり私が身よりのない小娘だったからでございましょう。

 大きなお屋敷の離れには、土蔵が一つございまして、蔦が這い上がってなんとも不気味でありました。あそこはお化けを閉じこめている蔵ではないかしら、馬鹿馬鹿しいけれど、半分本気でそんなことを思ってしまったものです。

 人里離れているせいか、しいいんとしていて、聞こえるものといえば、時折響く風の音くらい。風が木々を揺らしてザワザワと音をたてるのが、これまた恐ろしく感じられました。

 さてさて、いつまでも怖がっているわけにもまいりません。

 私は屋敷のあるじと対面することになりました。

 屋敷の中は静まり返っていて、誰もいないようなのが、私をまた怖がらせました。これほど大きな屋敷なのだから、使用人が大勢いても良さそうなものなのに、誰の姿も見えないのです。

 神野の家はお金持ちそうだったけれど、どういうわけか使用人を置いていないようでした。気味悪がって、使用人が居着かないのかもしれません。

 神野のあるじは、このような化け物屋敷じみた所に住んでおられるような人だから、きっと偏屈で気味の悪い老人なのだろう、私はそんなふうに身構えておりました。

 しばし待たされ、神野のあるじ、神野敬一郎が私の前に現れたのでございます。

 私、目を見張ってしまいました。どんな怖い人が来るのだろうと怯えていた私の前に現れたのは、老人などではなく、まだ若い、それも滴の垂れるような美青年だったのでございます。なんて美しい人と、私、挨拶も忘れて彼に見入ってしまったほどですわ。

「はじめまして、川村初さん」

 敬一郎さんのほうから声をかけられて、私はようやく我に返りました。私、しどろもどろになりながら、よろしくお願いしますと頭を下げたものです。赤面してしまうのが、恥ずかしくてなりませんでした。

 とにかくあるじと対面したばかりの時は、舞い上がってしまって、なにを訊くことも出来なかったのですけれど、夜になって、あてがわれた女中部屋で横になっていると、不思議なことが次々浮かんでくるのでありました。

 どうして敬一郎さんのような若い人が、こんな大きな屋敷に住めるのか。なぜこんな奥まった所で、一人寂しく暮らしているのか。家族はいないのか。あんなに綺麗な人なら、女中が辞めるはずがないのに、皆次々辞めていってしまうのはどうしたわけなのか。

 考えても考えても分からないのですけれど、それは翌日、すべて解き明かされることとなるのです。ただ、はじめの日、私は、夜具にくるまり、不安の中にも、言いしれぬ興奮とときめきに眠れませんでした。

 神野のお屋敷は不気味だけれど、その主のなんと美男子なことか。

 私は、敬一郎さんの蒼白で憂鬱な男ぶりと、お屋敷の気味悪さに、何とも言えぬ魅力を感じておりました。


 はじめは、初日ということで、とくに仕事らしい仕事もございませんでしたが、二日目からは、敬一郎さんは私に仕事を指示するようになりました。

「お初さん。君には、僕の妹、鈴子の世話を頼みたい」

 初日には紹介されませんでしたが、敬一郎さんには妹さんがおありになったのです。それを知って、私、驚いてしまいました。だって、屋敷は静まり返っていて、敬一郎さんと私以外に、人の気配なんてなかったのですもの。鈴子さんはどこにいらっしゃるのかしら。不思議でたまりませんでした。

「鈴子は土蔵に閉じこめてあるのだ」

 敬一郎さんの言葉に、私、どれだけびっくりしたか知れません。なるほど、土蔵にいるのなら、お屋敷で姿が見えなかったのも納得できます。けれど閉じこめてあるとは、どういうことなのでしょう。

「あれは、少しおかしいのだ」

 そう言って敬一郎さんは、こめかみをトントンと指で叩いてみせました。どうも、神野鈴子という人は、正気ではない人間のようなのです。

 そんな人の世話を任されるなんて。私、言いしれぬ怖さを感じました。鈴子さんは、私と同い年の少女だということでしたが、そう聞いても怖いのは変わりませんでした。年が同じであるということ、それは私に親しみを感じさせるどころか、かえって怖がらせたくらいでありました。

 だって同い年なのに、私は正常で自由の身、鈴子さんは狂気で閉じこめられているというのですから、私と彼女、二少女の境遇の開きが、ついぞ恐ろしく感じられました。

 私は敬一郎さんに連れられ、例のあの土蔵、何やらお化けを閉じこめているといった感じのあの離れの土蔵へと、向かいました。ああ、私の印象は間違いではなかったのだ。本当にお化けが閉じこめられていたのだ。私、逃げ出したいのを堪え、敬一郎さんの背中についていきました。

 敬一郎さんは土蔵の鍵を開くと、暗ぁい中へと入っていき、私は彼の背にしがみつかんばかりになりながら、足を踏み入れました。

 目が慣れますと、階段があるのが見えました。鈴子という人が閉じこめられているのは、どうも土蔵の二階のようでした。

 ギシ、ギシと不気味にきしむ音をたてながら、敬一郎さんに続いて、私は階段を上がっていきました。もう、自分が怪談のなかに入り込んだようで、恐ろしくて恐ろしくてなりませんでした。それは敬一郎さんも同じだったのか、薄闇のなか、彼の顔も青ざめていたように思います。

 二階には、どんな化け物が閉じこめられているのだろう。

 私は恐怖に粟立ちながら、二階に上がりました。敬一郎さんは扉の前に立ち、また鍵を取り出しました。なんと鈴子さんは二重に閉じこめられているのです。なんでも、以前に一度脱走しようとしたことがあったので、用心して一階と二階の両方に鍵をつけるようになったというのです。

 そのように厳重に閉じこめて置かねばならない狂人だなんて。私は震え上がってしまいました。敬一郎さんが扉の鍵を開くのを、私は肝を冷やして見ておりました。開いた途端に、狂人が飛びかかってくるのではないか、そのように思いました。

 よくよく考えてみれば、いくら狂人とはいえ、相手はまだ十六歳の少女なのだから、たいした力があるわけではございませんのに、私は神野のお屋敷の怪しい空気に押され、必要以上に怯えていたのでございます。

 敬一郎さんが扉を開き、私は勇気を振り絞って、彼の後に続き、二階の部屋に入りました。


 そこはおとぎの国のようでした。幼い子供の部屋のようでした。

 可愛らしいお人形が並んでいて、積み木やブリキのオモチャなどが散在しておりました。本棚には絵本ばかりが並んでいて、まるで五、六歳の幼児の部屋のようでありました。

 たくさんのお人形のなかで、一際目を引いたのは、一番大きな、そして一番愛らしい少女のお人形でした。そのお人形が動いたので、私は飛び上がりそうになりました。

 そう、それはお人形ではなく、生きている人間だったのでございます。

 それが、鈴子さんだったのです。

 ああ、さすがは敬一郎さんの妹御だけあって、とても美しい人でした。同性であっても、思わず見とれてしまうような、美少女でありました。

 鈴子さんはびっくりしたような目で、私と敬一郎さんを見ておりました。十六歳と聞いておりましたが、それよりも幼く見えました。

 鈴子さんの大きな真っ黒い瞳に見つめられて、私が立ちつくしておりますと、鈴子さんがニイコリと微笑みました。その微笑みに、私は寒気のくるような思いがいたしました。同性ながら、震えのくるような美しい笑みでありました。

「鈴子や。この人は川村初さんと言って、今日からおまえの世話をしてくれる子だよ。年も同じだし、仲良くしておくれ」

 敬一郎さんが鈴子さんに言います。鈴子さんは答えずに、ただニイコリと笑っておりました。

「良かった。鈴子は、君が気に入ったようだ」

 敬一郎さんは、胸をなで下ろして言いました。なんでも鈴子さんは気むずかしい人で、雇う女中を片端から追い出しておしまいになるというのです。女中らは、鈴子さんの癇癪についていけず、辞めていってしまうのだそうです。神野のお屋敷に使用人が居着かない訳は、そういうことなのでありました。

 鈴子さんのお眼鏡にかなったらしい私は、嬉しいやら恐ろしいやら、何とも言えぬ気持ちでした。

 ただ、ひたすら気味悪がっていた私は、鈴子さんの美貌と対面した途端、敬一郎さんと会った時と同じように、蔵の陰鬱とその住人の病的な美しさに、戸惑いと恐れの中にも、疼くような興奮とときめきを覚えたのでありました。


 さて、こうして私は鈴子さんの世話付き女中となったのですが、女中として働くうちに、神野家の事情が分かってくるようになりました。

 神野家の当主の敬一郎さんが、若いのに似合わず裕福なのは、お父様の遺産があるからだそうです。敬一郎さんは去年まで、東京に下宿して大学に通っていらしたそうだけれど、お母さんが亡くなったので、遺産の管理と妹の世話のため、大学を辞めて故郷に戻ったのだそうです。

 この辺のことは、あまり大きな声では申し上げられないのですけれど……敬一郎さんと鈴子さん兄妹のお父様は、政財界で名高い富豪でした。ただ、そうした偉人にありがちなことで、あちこちに別宅を構えていらしたようです。

 ですから、まあ、そのう、英雄色を好むと申しますか、お父様はお盛んな方だったようで、そのう、悪い病気を貰ってしまったようなのですね。お父様はその悪い病気が発覚し醜聞のため失脚、財産だけを残して亡くなったそうです。

 鈴子さんの気の毒な境遇は、その悪い病気が原因なのだそうです。父親の悪い病気を、遺伝されてしまったのですね。病気が脳に作用して、夢の国の住人になっておしまいになったのです。


 鈴子さんは、土蔵の二階の子供部屋で、自分だけの世界の中に暮らしておいででした。話しかけても返事をなさることはまずありませんし、いきなり何の脈絡もない、突拍子もないことを喋りだしたりなさいます。ご機嫌の良い時は始終ニコニコなさっておいでですが、ご機嫌斜めの時は、人形を打ち壊しておしまいになります。何が彼女にとって気分が良く、何が気に入らないのか、予測をするのはまったくの不可能でございました。

 このように気まぐれな人ですから、私はビクビクオドオドしながら、お食事を運んだものです。

 気狂いの人とはいえ、やはり若い娘さんですから、気まぐれな鈴子さんも、甘いモノを好むようでした。私がボンボンや金平糖などを持っていきますと、大抵、ご機嫌よくなさいます。

「私は西洋童話のラプンツェルなの。魔女に塔に閉じこめられているの」

 鈴子さんが、夢見るような目でたわいなく語るのを、私は相づちをうちながら聞いておりました。その声は名前の通り鈴のようで、その鈴が語るのが何の意味もない戯言であることに、何とも言えぬ戦慄を感じたものです。

 土蔵に閉じこめられた狂気の美少女だなんて、なんだか怪奇小説のようではありませんか。小娘の私は、鈴子さんの境遇に戦慄しながらも、その倒錯の美に酔っておりました。

 けれども、本当の怪奇は、これからだったのでございます。いいえ、真実の怪奇は、鈴子さんではなく、私の中にこそあったのかもしれません。


 私は鈴子さんのお世話だけでなく、敬一郎さんの身の回りのことも、お世話させていただいておりました。

 敬一郎さんは、お屋敷に閉じこもって暮らしていらっしゃいました。妹のことがあるので、家を出るわけにはいかないと言うのです。そう言いながらも、鈴子さんを閉じこめている土蔵には、滅多に、いえ、まったく、足を向けようとなさいませんでした。

「鈴子がいるがために、僕は屋敷を出ることも結婚することも出来ない」

 そんなふうに敬一郎さんが漏らしていたのを、何度か聞きました。妹のことが無ければ、今頃は大学を卒業して学位を取って、前途洋々の未来が開けていたのに、と悔しそうになさっていました。

 敬一郎さんは鈴子さんを重荷に思っているようでした。二人きりの兄妹なのに、寂しいことです。

「僕のことを、薄情な兄貴だと思うかい?」

 敬一郎さんは私に尋ねました。

「鈴子さんは、可哀相な人ですわ」

 私が答えると、敬一郎さんは寂しそうに微笑みました。

「僕だって、妹を哀れに思っているし、愛しているんだよ。でも、時々、何もかも投げ出してしまいたくなるんだ……」

 成長するにつれて、鈴子さんは様子がおかしくなり、何度も医者に診せて回ったのだそうです。けれど、悪い病気はすでに鈴子さんの脳髄にまで達しており、どの医者にも匙を投げられ、世間からは白い目で見られ、今のような暮らしをするしか、なくなってしまったのです。

 痛ましい話です。それでもお母さんが生きておられるうちはまだ良かったのですけれど、お母さんが亡くなってしまうと、もう鈴子さんにはお兄さんしかありません。

「僕が、鈴子の面倒を見なければいけないんだ……」

 敬一郎さんは、しきりに嘆息なさっていました。

 引きこもって暮らしているためか、敬一郎さんは塞ぎがちな人でした。私は彼の憂鬱を晴らすべく、親身になってお世話いたしました。


 私は神野家の奇怪に戸惑いながらも、美形の兄妹に仕えることに、耽美的な快感を抱くようになっておりました。もしかすると私は元来、こうした怪奇的な怪しい美に惹かれる性分であったのかもしれません。

 私も十六の乙女ですから、陰鬱な美青年にお仕えして、胸がときめいたものです。ね、このあたり、お分かりになってくださるでしょう。

 すべては、敬一郎さんの側に居たいという、乙女心だったのです。

 恋は、その激しさのために時として人を、狂気に陥れるのですわ。

 狂っていたのは鈴子さんよりも、私のほうであったのかしら……。


 勤め始めのうちは、鈴子さんは上機嫌なことが多いようでした。夢見の人であっても、世話付きの女中が同い年で、うち解けやすかったのかもしれません。

 鈴子さんは私と一緒に金平糖を頬張りながら、たわいのないお話をしていたものです。もっとも、一方的にまとまりなく話すのはもっぱら鈴子さんで、私は相づちをうつばかりでしたが。

 綺麗な鈴子さんのお相手をするのは、敬一郎さんにお仕えするのと同様、楽しいものでした。

 けれども日が経つにつれて、どうしてやら鈴子さんのご機嫌は、徐々に沈んでいきました。前はコロコロと可愛らしく笑ってくれたのに、いつの間にかむっつりと黙りこくり、睨むことが多くなりました。金平糖を持っていっても、口をつけることが少なくなりました。

 何が気に入らないのか。首を捻りましたが、夢見の人の好き嫌いを案じても、仕方がありません。私はため息をつきつき、鈴子さんの険悪を悲しく思いながら、嫌な空気を拭うために、私のほうから彼女に話しかけてみました。

「鈴子お嬢様。今日は、敬一郎様が」

 私と鈴子さんの共通の話題といえば敬一郎さんのことしか無いので、私が口を開きますと、鈴子さんは癇癪を起こしたように、叫びだしました。

「ワアアーアアアー!」

 まったく訳が分かりません。私は閉口いたしました。


「どうだね鈴子の様子は?」

 珍しく、敬一郎さんが鈴子さんのことを尋ねました。私は肩をすくめました。だんだん不機嫌になっていく鈴子さんを、私は持て余していました。

 はじめは私を気に入ってくれていた鈴子さんも、他の女中と同じように、私を追い出すつもりなのかもしれない。気狂いの人であっても、私は鈴子さんに奇妙な友情を感じておりましたので、彼女の豹変を悲しく思いました。

 鈴子さんの気まぐれや癇癪に、正直辟易することもございましたが、私は誠意を尽くして、鈴子さんにお仕えしました。鈴子さんが私を嫌いになっても、神野の家を追い出されたら、孤児の私には行くところがありません。

 いえ、本当のことを言いますと、私はただ行き場がなくなるから神野の家にしがみついていたわけではありません。私は美形兄妹にお仕えすることに、耽美な快感を抱いていたのです。とくに、敬一郎さんのお世話をすることは、私の至上の幸福でした。だから鈴子さんとの仲が険悪になっても、私は神野家の女中の職にしがみついていたのでした。

「あれの好物のお菓子を買ってきたのだよ。二人で食べるといい」

 敬一郎さんは、労うように、お菓子の詰まった素敵な缶詰をくださいました。私はそれを持って、いそいそと土蔵に向かいました。

 土蔵に入ると、鈴子さんはおかんむりのままでした。不機嫌に、人形を叩いております。

 はたして、お菓子で機嫌を直してくれるかしら。私は訝しみながら、人の話を聞いていないと分かっている鈴子さんに声をかけました。

「お嬢様。素敵なお菓子があるのですよ」

 鈴子さんはそっぽを向いたままでした。

「敬一郎様からいただいたのです」

「兄様」

 敬一郎さんの名前を聞いて、鈴子さんが反応しました。不機嫌にふくれていた顔を輝かせて、クルウリと振り返りました。

「うふふ」

 鈴子さんは上機嫌になり、私の手から缶詰を引ったくってしまいました。そうして、お菓子を独り占めしてしまいました。

 この時に私は、分かったのです。

 鈴子さんが不機嫌だった理由。彼女の歪んだ嫉妬を。

 鈴子さんはおそらく、実の兄の敬一郎さんを慕っておいでなのです。妹としてではなく、一人の女性として。

 そして私が敬一郎さんに淡く想いを寄せているのを、気狂いながら少女の六感で嗅ぎ取り、嫉妬していたのです。

 なんということ。

 私は、ご機嫌にお菓子を頬張る鈴子さんを、唖然と見つめました。

 近親の変態思慕です。けれども、考えてみれば、閉じこめられている鈴子さんには、異性は兄の敬一郎さんしかいないのです。まして夢見の人であれば、その恋情には何の倫理の枷もないのでしょう。

 今にして思うと、鈴子さんがことごとく女中を追い出しておしまいになったのは、女中らが美青年の敬一郎さんにのぼせるのを感じ取ったからなのかもしれません。


 ああ……ここから先のことは、お話ししたくない。けれど、ここで話をやめてしまっては、承知なさらないでしょう。ここからが本題なのだから。

 分かりました。観念して、お話します。


 きっかけは、ごく些細なことでした。

 その日、鈴子さんはすこぶる機嫌が悪く、土蔵の中で泣き叫んでおりました。その甲高い響きは、お屋敷のほうまで届いていました。

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 敬一郎さんは耳を押さえて怒鳴りました。

「お初、黙らせて来い!」

 普段は温厚な敬一郎さんが、声を荒げて命令しました。それほどに、鈴子さんの叫びは凄まじかったのです。私は狼狽えながら、土蔵に走りました。

「キイイイイイ!」

 鈴子さんは、金切り声をあげて、暴れておりました。

「鈴子さん!」

「キイイイイイ!」

 鈴子さんはますます暴れ、その拍子に彼女の手が私の頬を打ちました。

 瞬間、私の頭に血が上りました。

「何するのよっ!」

 叫び、私は鈴子さんの白い頬を、思い切り叩き返していました。鈴子さんは倒れた拍子に、頭を打ってしまいました。

「……」

 鈴子さんは倒れたっきり、起きあがりません。

 私は、我に返りました。使用人が、主人に手を挙げたのです。大変な不敬です。きっと、鈴子さんの癇癪に耐えてきた忍耐が、彼女に頬を叩かれたことで、切れてしまったのでしょう。

 死んでしまったのではないか。私は狼狽え、鈴子さんを抱き起こし、息を確かめました。気絶しているだけでした。私は安堵し、謝りました。

「大丈夫ですか、お嬢様。ごめんなさい」

 揺らすと、鈴子さんは人形のように私の腕の中でグウタリとなっています。

 目を覚まさなかったらどうしよう。私は自分の咄嗟の行為を後悔、鈴子さんの容態を案じながらも、気を失っている鈴子さんにウットリともなっていました。

 起きている時は憎らしいことばかりの鈴子さんも、気を失っていれば、美しいお人形なのです。私は鈴子さんを介抱しながら、耽美な思いに浸っておりました。

 やがて鈴子さんが目を覚まし、私は安堵いたしました。

「……」

 鈴子さんは、私を怯えたような目で見上げました。殴られ、気絶させられたことで、私を怖がっているようでした。おそらく、使用人に手をあげられたのは、はじめてだったのでしょう。

 怯える鈴子さんは、さらに可憐さが増したようでした。私は何やら、胸が締め付けられるような、不思議な切なさに囚われました。

 やはり私には、怪奇な怪しい美に惹かれる性質があったようです。

「ごめんなさい、お嬢様」

 私は鈴子さんに謝り、逃げるように、頭を下げ下げ、土蔵の鍵をしめました。

 いけないことをしてしまった。たしかに鈴子さんにも非がありますが、それにしても気絶するほどやり返すなんて、私もどうかしています。まして、鈴子さんは私の主人なのに。

 私は反省しながら、心の奥に、どこか清々しいようなくすぐったさを、たしかに抱いておりました。

 私を手こずらせるようになった鈴子さんにやり返してやったことで、復讐の喜びを感じていたのか、奇妙な恋敵である彼女を心底では憎んでいたのか、あるいは、鈴子さんのしどけない寝姿に奇怪な魅力を感じたためか……分かりませんが、私はとにかく何やら良い気分になっておりました。

「鈴子は、機嫌を直したのかい」

 土蔵を出ると、敬一郎さんがほっとしたように声をかけてきました。悲鳴が止んだので、鈴子さんがご機嫌を直したと思ったのでしょう。

「ああ、はい」と私は曖昧に返事をいたしました。まさか殴って気絶させたなどと、敬一郎さんに言えるはずもありません。

「そうかい、良かった」

 敬一郎さんは、私の返事に何の疑いも抱くことなく納得し、室に戻っていきました。敬一郎さんは、鈴子さんと関わりたくないようです。

 妹は兄を恋人のように慕っているのに、兄は妹を他人よりも遠ざけ、嫌っているのです。好悪の対比に、私は何とも言えぬ不思議な思いがいたしました。

 私は、敬一郎さんの後ろ姿を見送りながら、奇妙な思いつきを脳裏に閃かせておりました。

 敬一郎さんは、鈴子さんを疎み、関わろうとしない。妹を土蔵に閉じこめ世話を女中に任せたきり、背を向けてしまっている。女中が妹に怪我をさせたことも知らず、妹のうるさい悲鳴が止んだことにただ安堵している……。

 私が鈴子さんを咄嗟とはいえ殴ってしまったことを、敬一郎さんは知ることがない。もし私が故意に鈴子さんを傷つけたとしても、敬一郎さんには分からない。

 つまり私は、その気になれば、土蔵に閉じこめられて孤立無援の鈴子さんを、好きなように扱うことが出来るのです。鈴子さんに怪我をさせても虐めても、その事は誰にも分からないのです。

 ゾクリとしました。

 土蔵に閉じこめられた夢見の美少女を、オモチャにすることが出来る……。

 なんという変態的な陰湿な怪奇な、そして甘美な可能性でありましょうか。私は一瞬、その陰鬱で倒錯ゆえに恐ろしく魅力的な夢に、恍惚となりました。

「何を考えているの」

 私は、自分の怪しい欲望を、慌ててうち消しました。常識もへったくれもない、滅茶苦茶な思いつきです。耽美傾向のある夢見がちな年齢の少女に特有な、美しい同性への憧れと空想の気まぐれなのだと、私は自分の変態性を振り払いました。


 たしかに最初は……少女にありがちな浅い同性愛に過ぎなかったのだと思います。少女には、そういう時期があるものでしょう? 汗くさいたくましい男の子よりも、透明で美しい同性の少女に憧れを抱く時期が……。

 私が鈴子さんに友情以上の執着を持ったとしても、それを変態だと単純に決めつけることは出来ないと思います。多感な少女が通る、一過性の淡い同性愛に過ぎないのですから。

 少女は多感に夢を見ますが、その多くは夢のままで終わります。美少女との透明な純愛を思い描いたとしても、現実にはそのような美少女は存在せず、たとえ居たとしても、美少女が同性の少女に振り向くはずもないのです。こうして、少女の夢は夢のままに終わり、少女から大人になって、彼女は夢から覚め、現実の愛に目を開くのです。

 けれど。

 私は違ったのです。私もまた、淡い夢を見る平凡な少女であったことは、他の娘らと何ら変わることは無かったのだけれど、他の少女らと違い、私には少女の夢を実現させる環境が与えられていたのです。

 鈴子さんは稀代の美少女であり、彼女は閉じこめられていて、私だけがこの美少女の世話をすることが出来るのです。さらにこの美少女は孤立無援の夢見の人であり、私の手のひらにあるも同然なのです。そして私には、少女にありがちな怪奇な美への傾倒があったのです。

 なんという奇遇でしょうか。

 これだけの条件が与えられていたのだから、私があのような変質猟奇な行状に及んだのは、自然の成り行きだったのかもしれません。


 鈴子さんをはじめて殴って気絶させた日の翌日、私は多少の罪悪感を覚えながら、いつものように土蔵に食事を持っていきました。すると鈴子さんは、昨日の衝撃から立ち直り、元の不機嫌に戻っていました。

「お嬢様。お食事が冷めてしまいますよ」

 私が話しかけても、鈴子さんはそっぽを向いたままです。私は、なぜだか腹立たしく思いました。籠の中で飼っている鳥が、言うことをきかぬような、そんな思いがしたのです。

 一度は振り払ったものの、鈴子さんを自由にできるという閃きが、まだ私の脳裏に残っていたのでした。

「鈴子さん。召し上がってください」

 私が強引に膳を押しつけると、鈴子さんは袖で払いました。箸が落ち、料理がこぼれ、私は頭に血が上りました。

「この生意気な籠の鳥がッ」

 私は鈴子さんを平手で打ちました。鈴子さんの我が儘など当たり前であったのに、私が我慢がなりませんでした。鈴子さんをどうにでもすることが出来るのだと気づいてから、私は彼女の反抗を許せなくなっていたのです。

 鈴子さんはビックリしたように、大きな目をまん丸にして、私を見ました。

「ウッアアッ」

 鈴子さんは、意味のない声をあげて、私に飛びかかってきました。叩かれて頭に来たのでしょう、当然の反応です。けれど私は、彼女が私に反抗したことに、さらに激昂しました。

 同い年の少女同士とはいえ、鈴子さんは華奢な深窓の令嬢、私は連日家事仕事をこなす女中です。はしたない話ですが、つかみ合いの喧嘩では、私が鈴子さんに勝利しました。

「キイイイイ!」

 私に馬乗りにされて、鈴子さんが金切り声をあげました。私は、鈴子さんをねじ伏すことに、得も言われぬ快感を覚えました。

 この綺麗な人を、本当に自由に出来る……私は、少女の夢の実現に、ウットリとなりました。この時の私は、自分の変質を恥じるよりも、倒錯の快感に圧倒されていたのです。

「叫んだって、誰も助けに来ないのよ!」

 私は笑って、さらに鈴子さんの細腕をねじ上げました。鈴子さんが甲高い悲鳴をあげます。

「うるさいよ!」

 私はまた、鈴子さんを平手打ちにしました。鈴子さんは降参し、ついにシクシクと泣き出しました。

 ああ、なんて可愛いのだろう。私は鈴子さんを締め上げる手を緩めました。

「ウウウウ……」

「ほら鈴子さん、ご飯が冷めてしまいましたよ」

「兄様……」

 その呟きを聞いた途端、私はまた激昂の波に襲われました。

「兄様だって!」

 嫉妬の炎が、私の心中を焼きました。それは、鈴子さんへのものか、敬一郎さんへのものか、分かりません。とにかく、鈴子さんが敬一郎さんのことを口にするのが、不愉快でした。

「あんたの兄様は、助けに来ないよ!」

 私は、鈴子さんの黒絹の髪を引きずり、顔や体を叩きました。鈴子さんはワアワア泣きます。けれど敬一郎さんは、土蔵に来ることはありませんでした。


 こうして、私の二重生活が始まりました。お屋敷では、私は主人の敬一郎さんに従順に仕える、大人しい女中です。けれど土蔵の中では、私は鈴子さんに君臨する、女王です。

 私は、たったの一度で、鈴子さんを組み伏すことに味をしめたのでした。私が鈴子さんを折檻した後、鈴子さんの悲鳴を聞いていたはずなのに敬一郎さんは何も言わず、土蔵に様子を見に行こうともしませんでした。

 悪事が咎められない……私は、背徳の快感にのめりこんでいきました。罪というものは、悪事というものは、それが罪深ければ罪深いだけ、甘美な快感なのでしょう。

 道徳を守るのは苦しいものです。けれど悪事を働くのは、なんと楽しく甘美なことか!

 私は、憂鬱な美青年に誠心誠意仕えることも、籠の鳥の美少女をなぶることも、両方を楽しんでおりました。この時の私の中には、天使と悪魔が同時に棲んでいたのでしょう。

 私は、敬一郎さんの美形を純情に慕うと共に、鈴子さんの美貌を愛でてもおりました。

 敬一郎さんが私に労いの言葉をかけてくれたり、わずかに微笑んでくれるだけで、私は天にも昇る気持ちになり、彼の些細な叱責でも、奈落に落ち込む思いがしました。私は、敬一郎さんの前では、彼の一挙手一投足に振り回される、うぶな小娘でありました。

 まさか敬一郎さんは、このおぼこが、蔵の中で妹を虐め楽しんでいるなど、夢にも思わなかったことでしょう。

 蔵に入るや、私は、純情な小娘から、残酷な倒錯者に変貌するのです。

 私はもう、鈴子さんが可愛くて可愛くて、仕方がありませんでした。この可愛いお人形を、滅茶苦茶にしてしまいたい。

 私は鈴子さんを殴り、罵倒し、踏みつけました。彼女が私に怯えて泣くと、もうたまらなく可憐で、私は鈴子さんを抱きしめました。

 かつては気まぐれ我が儘なお嬢様だった鈴子さんは、もはや主従が逆転し、私のオモチャでありました。鈴子さんは、私の登場に怯え、部屋の隅で人形やオモチャに埋もれて、うずくまっておりました。

「魔女が来るの……魔女が来るのぉぉ……」

 恐怖に震えながら、鈴子さんは動かない人形に助けを求めるのです。その頭の壊れた様は、ますますもって私の嗜虐心を煽りました。


 私は日を追うごとに、鈴子さんへの虐待を増長させておりました。彼女を傷つけ、恐怖させ、嫌がるのを押さえて頬ずりすることは、私の日課、趣味となっておりました。

 閉鎖された蔵の中で、私は背徳の悪魔主義に浸りきり、自分の異常な行いを反省することがありませんでした。ひどいことです。皆様は私の嗜虐変質に戦いておいででしょう。この川村初という娘は、なんという異常者、狂った脳髄の持ち主なのだと、粟立っておいででしょう。

 そんな目で私を見ないでください。今となっては、己の恥知らずで残酷異常な振る舞いを、海よりも深く後悔しているのです。

 言い訳をさせていただくならば、私が残酷な倒錯の異常者だったからというより、神野の土蔵が道徳や建前から解放された、一種のパラダイスだったから、私の変質は増長したのではないでしょうか。

 皆様は、部屋で一人きりでいる時に、規律や道徳を守りますか? 厠の中で、修身の教科書を読みますか?

 人は、一人きりの時、誰の目も無い時は、礼儀や道徳の仮面を脱ぎ捨て、怠惰と欲望に満ちた尊大な素顔に立ち返るのではないでしょうか。そうして一人の時に行うあらゆる陰湿で邪悪で閉鎖的な行為には、何の良心の呵責もないのではないでしょうか。

 神野の蔵の中が、まさにそれでした。

 そこは、誰の監視もなく、何の道徳もなく、あらゆる束縛から解放された、外界から閉じた安全な箱だったのです。私は閉じた土蔵の中で、誰にも責められることなく、安全に、歪んだ欲望を満たすことが出来たのです。

 ええ、ええ。言い訳です。分かっています。でも、私の異常、変質を、正常で健全な皆様にご理解していただきたかったのです。人間の本心は倫理ではなく邪悪な欲望であり、それを解放してしまうか道徳の鎖で制御するかが、善人と悪人の違いなのでございましょう。善と悪、闇と光は、紙一重、皮一枚ほどの差異しか無いのでございます。道徳などという、およそ頼りない、ちっぽけで偽善的なもので、人はどうにか、己の闇を封じ込めているのですから。

 私は、幸せでした。

 道徳と規律、礼儀の束縛から解放され、幸せでした。

 神野の蔵の中は、私のパラダイスでありました。

 けれど、この陰気な閉じた悦楽に、終止符がうたれる日がやってきました。

 私が、歪んだ同性愛から覚め、正常な異性愛に目を開く日が。

 ああ、けれどそれは、健全なものなどではとても無く、さらなる異常、変質への入り口だったのでございます。


 些細なことでした。

 その日、私は、敬一郎さんからいただいたお菓子を、鈴子さんの前で悠然と食しておりました。お菓子を独り占めしている私を、鈴子さんはいじましい目で見ておりました。その哀れっぽい様に背筋をゾクゾクさせながら、私はお菓子の缶詰を、鈴子さんに見せつけました。

「ほうら、敬一郎さんからいただいたのよ。あなたの大好きな兄様が、私にプレゼントしてくだすったのよ」

「ウウウ……」

 怯えて滲んでいた鈴子さんの瞳に、嫉妬の炎がゆらめきました。

「アアアーッ」

 叫ぶと、鈴子さんは私を突き飛ばし、お菓子の缶詰を奪いました。すっかり私に怯え、従順になっていた鈴子さんの突然の反抗に、私は驚き、次いで激昂しました。

「このキチガイ!」

 私は鈴子さんに飛びかかりました。この頃には、私は傲岸不遜の女帝となっており、鈴子さんの小さな反逆も、許すことが出来なくなっていました。

「返せ、このキチガイ! 返せ返せ返せ!」

 私は鈴子さんを殴りました。鈴子さんは泣きながらも、缶詰をしっかり抱きかかえ、離そうとしません。鈴子さんの頑固さに、私はますます怒りに狂いました。

「近親変態のキチガイ! あんたの兄様は、あんたが嫌いなんだよ! 実の兄を恋い慕うなんて、どうかしてるんじゃないのか!」

「ウーウーウー」

 鈴子さんは首を振り、ボロボロ涙を流しました。私は、鈴子さんの細い腕から、やっと缶詰をもぎ取りました。

「手こずらせて……」

 私はフウフウ息をつき、戦利品の缶詰を高く掲げました。私は、散々に殴られてグッタリしている鈴子さんの前で、ゆっくり見せつけて、お菓子を頬張りました。もう満腹していて、二人分の甘いお菓子を平らげるのは苦しかったけれど、鈴子さんを虐めたい一心で、私は全部平らげました。

「……」

 鈴子さんは、空っぽの缶詰を、悲しそうに見つめていました。それは、単に好物のお菓子を奪われたというのではなく、最愛の兄の愛情を奪われたということの象徴だったのでしょう。

「可哀相にねえ、鈴ちゃん」

 私は最後の金平糖を口にふくむと、俯いている鈴子さんの顎を人差し指で持ち上げました。そのまま、口移しで金平糖を鈴子さんの小さな口に押し込みました。

「美味しい?」

 私はニイコリ笑って、鈴子さんの髪を撫でました。鈴子さんは呆けたように私を見つめ、やがてハラハラと泣き出しました。

「可哀相に。敬一郎さんの分も、私が可愛がってあげるからね」

 私がまた口づけしようとすると、鈴子さんは金切り声をあげました。

「イヤーーーー!」

 どこにそんな力が残っていたのか、鈴子さんは私を突き飛ばしました。私が激昂したのは言うまでもありません。

「このっ」

「イヤ! イヤ! イヤ!」

 鈴子さんは逃げ回り、角に追い込まれました。私は歪んだ愛情と嗜虐を持って、彼女ににじり寄りました。

「兄様ぁ……」

 鈴子さんは敬一郎さんに助けを求めましたが、無論彼が答えるはずもなく、鈴子さんの目が空の缶詰を見つめました。

「……」

 鈴子さんは、すべてを諦めたような表情をしました。

 兄が自分を愛しておらず、自分は見捨てられ閉じこめられ、女中の娘の嗜虐同性愛のオモチャになっているのだ……それがやっと分かったような、そんな表情でした。

 ツウウと、鈴子さんの唇の端から、真っ赤な血が、一筋垂れました。私は驚いて立ち止まりました。

 鈴子さんの唇が、紅をひいたように真っ赤に染まり、血の筋が二条、三条、垂れました。鈴子さんは、糸の切れたあやつり人形のように、スゥッと倒れていきました。

 私はしばし唖然となり、慌てて鈴子さんに駆け寄りました。

「鈴子さん?」

 なんと鈴子さんは、舌を噛み切って、絶命していました。


 どのくらい、呆然となっていたでしょうか。

 私はどうしていいやら分からず、腰が抜けたようにしゃがみこんでおりました。傍らでは、血の口紅を垂らした鈴子さんが、力無く横たわっておりました。

 ああ。ああ。この時になって、私はようやく、大変なことになったのだ、自分は鈴子さんにひどいことをしたのだと、悟りました。

 私は鈴子さんを自殺に追い込んでしまったのです。

 土蔵は安全なパラダイスではなくなり、死体と私だけが、取り残されてしまったのです。

「どうしよう。どうしよう」

 私は頭を抱えました。鈴子さんが死んでしまったのだから、彼女のお葬式をしなくてはなりません。

 閉じていた土蔵が、開かれる。

 そうなってはじめて、私は自分の罪を自覚し、恐れ戦きました。突然、忘れていた道徳が立ち上がり、私を責め立てました。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 私は鈴子さんの亡骸を抱き上げ、涙を流して謝りました。どれだけ泣いて謝罪したところで、鈴子さんは目を開きません。

 ああ。取り返しのつかないことをしてしまった。

 私は心の底から、自分の行いを悔いました。

 涙が枯れ、私はよろよろと立ち上がりました。鈴子さんの遺体を、このままにはしておけません。敬一郎さんに、お知らせしてこなくては。

 敬一郎さん。

 彼のことを思い、私は立ち止まりました。

 苦しいほどの切なさが、胸を締め付けました。

 鈴子さんは死んだのです。そうなれば、敬一郎さんは妹の束縛から解放され、この陰鬱な屋敷を出ていくに違いありません。敬一郎さんは都会に出ていき、私は彼に仕えることが出来なくなるでしょう。

 敬一郎さんと離れてしまう。

 それに思い至った途端、私は少女らしい同性愛から目が覚めました。少女の夢は砕け、異性愛に目を開いたのです。

 敬一郎さんと離れたくない。狂おしいほどの恋情が、私の心をしめました。あれほど愛玩していた鈴子さんへの執着が消え去り、私はただただ、敬一郎さんのことで一杯になりました。

 この時になって私は悟りました。私の鈴子さんへの歪んだ愛情は、少女の未熟な幻影、夢であったのだと。私が本当に愛しているのは鈴子さんではなく敬一郎さんで、私は同性愛の変質者ではなく、男性を愛する一人の女性なのだと。

 敬一郎さんの側に居たい、離れたくない。

 鈴子さんが死んでしまったことと、敬一郎さんを失う危機に、私は透明な同性愛の夢から覚め、現実の恋愛に目覚めました。異性愛は、ままごとの同性愛などとは比較にならぬ、激しい熱情でもって私を焼きました。

 ようやく現実の愛を自覚した私は、愛する異性を失う危機に、戦きました。後悔も罪悪感も、異性への恋情の激しさの前には、はかなく消え去りました。

 私は、土蔵の部屋を見回しました。

 狂人を閉じこめる檻。閉鎖空間。

 おお。私の脳裏に、悪魔的な閃光が走りました。

 ここは、密閉された秘密の部屋なのです。鈴子さんと外界をつなぐものは、私だけなのです。今、鈴子さんの死亡を知るのは、私の他に誰もいないのです。

 私が、鈴子さんの死を秘密にしてしまえば、世間は彼女の死を知ることがないのです。

 それは素敵な思いつきのように思えました。鈴子さんの死を隠蔽し、さも彼女が生きているかのように、世間を、敬一郎さんを騙す。そうすれば、私は敬一郎さんの側に居られるのだ。

 なんという悪魔的な、狂った思いつきでしょうか。

 敬一郎さんと離れたくない一心で、私は狂っていたのでありました。


 鈴子さんを虐めていた頃よりも、さらに恐ろしい二重生活が始まりました。私は、陰鬱な美青年に仕える幸福を噛みしめながら、同時に土蔵に横たわる死体に戦慄する日々を送りました。

 敬一郎さんは相変わらず、鈴子さんに構おうとなさいません。彼の薄情は、私にとっては好都合でありました。それでも時折、彼が「鈴子の様子はどうだい?」と尋ねると、私は背に汗をかきながら、適当な返事を返したものです。鈴子さんが静かになったことを、敬一郎さんは怪しむどころか、清々したように思っておいでのようでした。

 鈴子さんはもう死んでいるのに、私は彼女が生きているかのように、振る舞わなければなりません。私は土蔵に食事を運び、鈴子さんの話し相手をしているような振りをしました。

 恐ろしいことです。死体が物を食べるはずはなく、話などするはずがないのに。

 鈴子さんの死体はやがて腐敗し始め、たまらない悪臭を放つようになりました。美しかった顔は膨れ上がり、化け物のようです。私は、土蔵に行くのが恐ろしくてたまりませんでした。

「なんだか、臭わないかい」

 敬一郎さんが眉をしかめて言うのに、私は飛び上がりそうになりました。

「き、気のせいでございましょう」

 私はぎこちなく取り繕いました。敬一郎さんは、しきりに首を捻っておいででした。

 いつか、露見する。いつか、露見する。それは分かっていました。いくら神野兄妹の仲が疎遠で、鈴子さんが監禁され世間から隔絶されているといっても、いつまでもいつまでも、人間一人の死を、隠し通せるはずがないのです。死体は腐ります、死体は食べません、死体は話しません、死体は動きません。

 いくら敬一郎さんが、妹から目を背けていても、いつか不審に気づきます。私の罪、隠蔽は、いつか必ず、白日に晒されるのです。

 分かっていても、私は恐ろしい二重生活を続けていました。破綻が一日でも先に延びるように、あらゆる努力をいたしました。

 腐敗臭が漏れないように、鈴子さんの死体を何重にも包み、石灰をまきました。屋敷中に、香料を置きました。鈴子さんが生きていると思わせるために、彼女になりすまして土蔵の中で金切り声をあげもしました。

 奇怪至極の二重生活。怪奇小説を上回る怪奇。これほどの陰鬱で奇怪で猟奇な生活が、他にあるでしょうか。

 私は、毎日を罪と恐怖に怯えながら、ビクビクと暮らしておりました。私の慰めは、敬一郎さんの側にいて、彼に仕えることでした。

「よくやってくれるねえ、お初さん」

 私が身を粉にして働くのを、敬一郎さんが誉めてくれました。以前ならば、天にも昇る気持ちになってはしゃいだものですが、今は罪悪感で一杯で、敬一郎さんに誉められても、素直に感激することは出来ません。

「そんなに一日中、働かなくてもいいんだよ。休みたまえ。疲れただろう」

 敬一郎さんが、お茶をいれてくれました。主人が女中にお茶をいれるなど、はじめてです。私の働きぶりが、よほど敬一郎さんを感心させたようでした。

「今までの女中は皆辞めてしまったのに、君は頑張ってくれて、僕は本当に感謝しているよ」

 いつも陰気な敬一郎さんが、珍しく微笑んで言いました。

「君には、鈴子の世話を全部押しつけてしまって、すまないと思っている」

「いいえそんな、旦那様」

「敬一郎でいいよ。君がよくしてくれるおかげで、鈴子の奴も大人しくなったし、陰鬱な屋敷も明るくなったようだ」

 鈴子さんが大人しくなったと言われて、私は胸を針で突かれたように思いました。敬一郎さんは微笑んだまま、続けます。

「僕はね。二十二歳にしてこんな隠居のような生活をしていて、一生気狂いの妹を抱えて生きていくのかと、人生に絶望していたよ。でも……」

 敬一郎さんは、普段白い頬を、少し赤らめました。

「こんな陰気な屋敷にずっと居てくれた女中は、君がはじめてだ。それも、よく働いてくれて。僕の人生は孤独だと、もう諦めていたのに……」

「旦那様」

「敬一郎と呼んでくれ。僕の孤独を、ずっとずっと、慰めてくれないか。僕も、孤児の君の孤独を、慰めるから。一生」

「……」

 私は、敬一郎さんの求愛に、嬉しくなるよりも驚いてしまいました。私の恋情、懸命の奉仕が、敬一郎さんに届いたのです。

 なんて素敵なこと。敬一郎さんの求愛は、私を溶けさせました。

 けれども、私の頭の隅には、常に土蔵の死体のことがありました。私が土蔵に鈴子さんの死体を隠していると知ったら、敬一郎さんはどう思うでしょうか。妹が、もうとっくに死んでいると知ったら。

「……あまりに突然で。どうお答えしていいのか、分かりませんわ」

 私は、敬一郎さんの求婚から逃げました。


 私は、敬一郎さんの求愛をのらりくらりとかわしながら、今まで以上に仕事に打ち込みました。敬一郎さんに尽くしていないと、申し訳なくてたまらなかったのです。

 私は、敬一郎さんのたった一人の肉親を、死に追いやった上、それを隠しているのですから。

 敬一郎さんとは、結婚できない。

 これは、私の罪業への罰なのでしょう。罪悪感と切なさと、罪が露見する恐怖に、私の心臓はキリキリと痛みました。

 心労と過労が重なり、私は倒れてしまいました。

「言わないことじゃない。君は頑張りすぎなのだよ」

 敬一郎さんが、介抱してくれました。

「すみません。少し休めば、もう大丈夫ですから」

 仕事を休むわけにはいかない。土蔵の死体を、放っておくわけにはいかない。私は焦りました。

 何も知らない敬一郎さんが、優しく言います。

「いいから、寝ておいで。君が病気の間くらい、家のことは僕がやろう。たまには、鈴子の世話をしないとね」

 敬一郎さんが、媚びるように言いました。求婚に首を縦に振らない私の機嫌を取ろうというような。

 私は、戦慄しました。

 敬一郎さんが、土蔵に!

「駄目! 鈴子さんのお世話は、私がやります!」

「いいんだよ。君にばかり任せて、悪かった。僕の妹なんだから、僕が面倒みないとね」

「駄目エエエ!」

 私は布団に押し戻されてしまい、敬一郎さんは白い顔をして、土蔵に向かっていきました。

 ……まもなくして、敬一郎さんの悲鳴が聞こえ、すべてが明るみになったのでございます。


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