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エッシャーの城>>指向>>6

「病棟への入り口は、やはり一か所だけのようですね」

 流れる雲を眺めながら、カルラは膝の上に頬杖をついた。研究室や会議室から見える、窓の小さな白い病棟。環状の研究棟にすっぽりと囲われているものの、二つの棟をつなぐのは窓のない廊下だけだ。

「それに外から見てるだけじゃ、中の様子がさっぱり分かりませんよ。やっぱり、看護師を探さないと」

 ベンチの縁を掴み、アレクはぐっとのけぞった。逆さの床は見慣れていても、頭に血が溜まり、頭上に髪が引かれるのは目新しい。

「ええ。そちらはアレクさんにお任せします。私は、警備の方を探りましょう」

 アレクを振り返ってから、カルラは弾みをつけて立ち上がった。兵員の扉が集まる広場が、螺旋階段を下ったところにあるのだという。歩き出したカルラの肩越しに白い広場が見え、アレクは思わず息をのんだ。アレクが訪れるまで、カルラは一人でどれだけの広間を、回廊を、扉を探ってきたのだろうか。何年にも渡って積み上げられた計り知れない歩みの前には、この宮殿などささやかな東屋に過ぎないのかもしれない。アレクはゆっくりと立ち上がり、反り返った吹き抜けに戻っていった。

 看護師の扉は、下層のバルコニーにあった。二つ目に選んだ扉が運よく新米の看護師に当たり、アレクは夕食の配膳に便乗することができたのだ。窓がない廊下の奥、鉄の扉の先には寮の半分ほどの食堂があり、壁一面に広がった緑とピンクのマーブル模様を、蛍光灯が煌々と照らしている。テーブルを拭いていた看護師がこちらに気づき、フォンで上階の監視室を呼び出した。

「マイ、夕食の準備が整ったよ」

 向うからの返事があり、ほどなくして看護師が子供たちを連れて降りてきた。何もない研究所で、数少ない楽しみの一つだというのに、スリッパの足音は生温い。これではまるで本物の病人か、そうでなければ死人の行列だ。並んだ子供たちの青い顔を眺め、アレクは密かにため息をついた。

「お腹……減ってない」

 ロイズは首を振り、アレクが差し出した皿を拒んだ。手術を受けた上に、こんな所で暮らしていては、体が弱るのも無理はない。戻そうとした手がトレーに皿を載せてしまい、アレクはそれが自分の体ではないことに気づいた。

「ほらほら、ちゃんと食べないと、元気になれないよ」

 明るい言葉を塗ったところで病院ごっこに変わりはないと、お互いに分かっている。唇を固く結んでロイズが先に進もうとしたとき、近くのテーブルで悲鳴が上がった。頬のこけたカールが、テーブルクロスにポタージュスープを塗りたくっている。看護師が目配せすると、マイがすぐさまカールを取り押さえた。

「止めなさい! スープは絵具じゃありません!」

 カールは必死にもがいたが、マイを振りほどくような力はもうどこにも残っていない。取り上げられたカンバスに向かって首を伸ばし、言葉にならない叫びを上げるのがせいぜいだ。嘗てはおとなしかったカールの奇行を、子供たちは遠巻きに、震えながら見守っている。

「リンダ、鎮静剤を」

 名前を呼ばれて、看護師はトングを大皿の縁にかけた。ワゴンの一番下の段に、注射器のケースがある。注射器に針を取り付けてフラスコから薬を吸い上げ、看護師はマイに駆け寄った。鎮静剤を射つとカールはたちまち大人しくなり、離れていた子供たちが戻ってくる。

 後片付けもさることながら、何より面倒なのは怖気づいた子供たちだ。年少組は理解できずに恐れ、年長組は理解しているので恐れる。全く恐れないのは、既に正気を失った者だけだ。食事が終わった子供たちを病室に帰すのは、いつにもまして骨が折れた。

 ここからは、マイと入れ替わりで見張り役だ。病院だったころの名残で3階と2階が吹き抜けになっており、四方に伸びた廊下は監視室からもれなく見渡せる。黒ずんだカウンターに肘をつき、看護師は大きく背伸びをした。

 病棟の内部を、ついに捉えることができた。カルラの言う通り、入り口は鉄の扉に閉ざされた一本の廊下だけ。特に一階には、外が見えるような窓も見当たらない。その代わりに塗りたくられた緑とピンクのマーブル模様を、子供たちは見続けていなければならないのだ。精神が擦り切れ、死が迎えに来る、その時まで。アレクは額を押さえてため息をつき、対岸の扉を眺めた。惨たらしい最後を待ちながら、子供たちが震えている。カルラが囚われていたのも、あんな場所だったのだろうか。

 その後アレクは一旦城に戻り他の扉を調べてみたが、研究棟で医師への報告書を書いていたり、食堂で遅い夕食を摂っていたりと大した収穫は得られなかった。カルラも出ていったきり戻ってくる様子はなく、報告を諦めてアレクは自分の扉に戻った。

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