エッシャーの城>>潜在>>4
二人はいつもと同じように、イポリートの張り込みを始めた。カルラも持ち直しつつあるが、今夜も一番手はアレクが務める。オレンジ色の扉を開けると、そこは見慣れた執務室だ。壁一面の窓からは、カベルネの赤に染まる空と、黒く切り抜かれたビルが見える。街の明かりはまばらに咲き始めたばかりで、夜景と呼ぶには心もとない。
柱時計が時を刻む、まめまめしく聡い音。実に穏やかな、ハバロフスクの夕暮れ時。溜息を洩らしそうになり、アレクは思いとどまった。違う。これはアレクではない。イポリートなのだ。
イポリートは相変わらず移住計画と宅地開発の段取りにかかりっきりで、アレクのこともユレシュのことも、名前さえ出てこない。
コーヒーカップをソーサーに戻し、イポリートは未読の企画書を手に取った。カベリニ島とハバロフスクを結ぶ、3連続旋回橋の建設プラン。開通すれば、不便な温泉地が都心の高級住宅地に様変わりする。モスクワの延命策と比べれば、何倍も将来性のある投資だ。こうしたアイデアが下から上がってくるのは、頼もしいことでもあり、また用心すべきことでもある。
読み終わった企画書を別のファイルに移し、アレクは革張りの椅子に沈み込んだ。デミタスと革の香りが染め上げる特等席に、硬いノックの音が響いた。
「局長、失礼します」
ユーリだ。この時間に、秘書以外が訪れるとは珍しい。
「入りたまえ」
扉が開き、見慣れた男が入って来た。ダークブルーのスーツに、黒いシャツと銀色のネクタイ。凡そ医療部の役員らしからぬ服装が、彼の出自を物語っている。
「行政局長につきましては、ご機嫌麗しゅう。大学病院を修復して頂いた件で、一つお礼をと思いまして……」
ユーリは頭を下げ、紙袋を差し出した。今日の手土産も、例年通りフルーツゼリーの詰め合わせなのだろう。箱は小さいが、手に取るとしっかりとした手ごたえがある。この時期のお茶請けには、まさにうってつけの品だ。
「……頼み事は、上手くいっているかね?」
ゼリーの箱を睨んだまま、イポリートはぞんざいに尋ねた。オレンジ色の明かりが、水色の包装紙に浮かび上がる。
「残念ながら。ですが、脳の質量と刺激時間の関係は徐々に絞り込めつつあります……」
刺激時間。カルラも店で口にしていた。イポリートは、やはり今でもユレシュにつながっているのだろうか。ちらついたユレシュの影に、アレクはじっと耳を澄ませた。刺激とは、電気刺激のことか。刺激したのは、ブローカ野なのか。一体どこで、誰が実験を行っているのか。
一週間待ち続けた、たった一つの手がかりは、しかし、それ以上近づいては来なかった。お小言を貰う前に、ユーリが先手を打ったのだ。
「あまり長居しても、怪しまれますから」
人影は踵を返し、藪の奥へと逃げてゆく。それを追いかける理由が、アレクにあってもイポリートには全くない。イポリートは目前で、あっさりユーリを逃がしてしまった。
結局手元に残ったのは、ユーリという男と、実験が続いている可能性だけ。本当なら十二分の筈の釣果が、逃した魚の前ではあまりにも小さい。すごすごと帰ろうとするアレクをよそに、イポリートはおもむろにゼリーの包装紙を破いた。ボール箱の中には、9つのフルーツゼリーが入っている。ピューレを惜しまず練り込んだ、贈答用の品だ。品定めをするでもなく早々に中身を取り出すと、イポリートは台紙の縁に爪をかけ、ぎこちなく引き抜いた。
ホチキスで止めただけの、真っ白な小冊子。オハからの進歩報告だ。8年前灰となった実験結果に追いつくだけで、最初の5年を費やした。測定の精度を上げ、新たな実験を始めてから早3年、成功の兆しはまだ見えない。進歩というには、余りにも遅々たる歩み。片手でページをめくり、時間と質量の散布図を眺めながら、イポリートはコーヒーの苦味を確かめた。
間違いない。ユレシュの実験だ。ユレシュが行っていた血なまぐさい実験の続きが、そこでは行われている。ユーリ、そしてオハ。たった二つの名前を、アレクは何度も繰り返した。これだけは、是が非でもカルラの下に持ち帰らなければならない。
「やはり……」
被験者側の問題が大きい。適性の高い被験者が、もう連邦内には残っていないのだ。情けない話だが、現状期待できるのは例の男くらいのものか。イポリートは冊子を閉じ、ゼリーを箱に戻していった。
「クラーラ、手土産にゼリーを貰った。冷やしておいてくれ。ついでに、新しいコーヒーを頼むよ」




