表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/172

エッシャーの城>>潜在>>4

 二人はいつもと同じように、イポリートの張り込みを始めた。カルラも持ち直しつつあるが、今夜も一番手はアレクが務める。オレンジ色の扉を開けると、そこは見慣れた執務室だ。壁一面の窓からは、カベルネの赤に染まる空と、黒く切り抜かれたビルが見える。街の明かりはまばらに咲き始めたばかりで、夜景と呼ぶには心もとない。

 柱時計が時を刻む、まめまめしく聡い音。実に穏やかな、ハバロフスクの夕暮れ時。溜息を洩らしそうになり、アレクは思いとどまった。違う。これはアレクではない。イポリートなのだ。

 イポリートは相変わらず移住計画と宅地開発の段取りにかかりっきりで、アレクのこともユレシュのことも、名前さえ出てこない。

 コーヒーカップをソーサーに戻し、イポリートは未読の企画書を手に取った。カベリニ島とハバロフスクを結ぶ、3連続旋回橋の建設プラン。開通すれば、不便な温泉地が都心の高級住宅地に様変わりする。モスクワの延命策と比べれば、何倍も将来性のある投資だ。こうしたアイデアが下から上がってくるのは、頼もしいことでもあり、また用心すべきことでもある。

 読み終わった企画書を別のファイルに移し、アレクは革張りの椅子に沈み込んだ。デミタスと革の香りが染め上げる特等席に、硬いノックの音が響いた。

「局長、失礼します」

 ユーリだ。この時間に、秘書以外が訪れるとは珍しい。

「入りたまえ」

 扉が開き、見慣れた男が入って来た。ダークブルーのスーツに、黒いシャツと銀色のネクタイ。凡そ医療部の役員らしからぬ服装が、彼の出自を物語っている。

「行政局長につきましては、ご機嫌麗しゅう。大学病院を修復して頂いた件で、一つお礼をと思いまして……」

 ユーリは頭を下げ、紙袋を差し出した。今日の手土産も、例年通りフルーツゼリーの詰め合わせなのだろう。箱は小さいが、手に取るとしっかりとした手ごたえがある。この時期のお茶請けには、まさにうってつけの品だ。

「……頼み事は、上手くいっているかね?」

 ゼリーの箱を睨んだまま、イポリートはぞんざいに尋ねた。オレンジ色の明かりが、水色の包装紙に浮かび上がる。

「残念ながら。ですが、脳の質量と刺激時間の関係は徐々に絞り込めつつあります……」

 刺激時間。カルラも店で口にしていた。イポリートは、やはり今でもユレシュにつながっているのだろうか。ちらついたユレシュの影に、アレクはじっと耳を澄ませた。刺激とは、電気刺激のことか。刺激したのは、ブローカ野なのか。一体どこで、誰が実験を行っているのか。

 一週間待ち続けた、たった一つの手がかりは、しかし、それ以上近づいては来なかった。お小言を貰う前に、ユーリが先手を打ったのだ。

「あまり長居しても、怪しまれますから」

 人影は踵を返し、藪の奥へと逃げてゆく。それを追いかける理由が、アレクにあってもイポリートには全くない。イポリートは目前で、あっさりユーリを逃がしてしまった。

 結局手元に残ったのは、ユーリという男と、実験が続いている可能性だけ。本当なら十二分の筈の釣果が、逃した魚の前ではあまりにも小さい。すごすごと帰ろうとするアレクをよそに、イポリートはおもむろにゼリーの包装紙を破いた。ボール箱の中には、9つのフルーツゼリーが入っている。ピューレを惜しまず練り込んだ、贈答用の品だ。品定めをするでもなく早々に中身を取り出すと、イポリートは台紙の縁に爪をかけ、ぎこちなく引き抜いた。

 ホチキスで止めただけの、真っ白な小冊子。オハからの進歩報告だ。8年前灰となった実験結果に追いつくだけで、最初の5年を費やした。測定の精度を上げ、新たな実験を始めてから早3年、成功の兆しはまだ見えない。進歩というには、余りにも遅々たる歩み。片手でページをめくり、時間と質量の散布図を眺めながら、イポリートはコーヒーの苦味を確かめた。

 間違いない。ユレシュの実験だ。ユレシュが行っていた血なまぐさい実験の続きが、そこでは行われている。ユーリ、そしてオハ。たった二つの名前を、アレクは何度も繰り返した。これだけは、是が非でもカルラの下に持ち帰らなければならない。

「やはり……」

 被験者側の問題が大きい。適性の高い被験者が、もう連邦内には残っていないのだ。情けない話だが、現状期待できるのは例の男くらいのものか。イポリートは冊子を閉じ、ゼリーを箱に戻していった。

「クラーラ、手土産にゼリーを貰った。冷やしておいてくれ。ついでに、新しいコーヒーを頼むよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ