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エッシャーの城>>潜在>>3

 城については、ほぼ何も知らんがな。コルレルは、但し書きから始めた。

「『ゼン』という言葉を聞いたことはあるか」

 聞きなれない言葉に、アレクは首を振った。

「ゼンというのは、仏教の一宗派だ。瞑想によって心を鎮め、ボンノウ――不安や怒り、苦しみといった不要な感情を捨て去るのが目的らしい」

 仏教といえば、アジアにはびこる邪教の代表格だ。医者であるにも関わらず、コルレルは神を信じていないというのか。アレクは思わず立ち上がり、パイプ椅子を倒してしまった。

「先生、俺、地獄行きは勘弁ですよ」

 後ずさるアレクを制し、コルレルは椅子を起こした。

「信仰や哲学とは別に、ゼンは技術を持っとる。街の医者でも、かじっとる者はゴマンといるさ」

 ゼンの核心は、意識を止めることにある。これが慢性的な痛みや不安に効くので、ソビエトでも重宝されているらしい。

「いいか。背筋を伸ばし、体から力を抜いて……そうだ。それから目を瞑って、自分の呼吸に集中しろ……」

 鼻を風が掠め、胸の中に沁み渡り、腹筋と肋骨を押し上げる。穏やかな音が繰り返し、薄暗い診察室に広がった。蛍光灯の冷たい音が時折静けさを横切るが、それもまたすぐ、深呼吸の感触に沈んでゆく。気がついたときには、アレクは倒れる一歩手前だった。

「そうそう、上手いもんだ。これなら空いた時間でも、城を調べられるだろう?」

 重たい瞼を瞬かせながら、欠伸混じりにアレクはこぼした。

「今は夜だから上手くいったけど、昼間に寝るのは難しいだろうな……」 

 コルレルは立ち上がり、ふらつくアレクの肩を叩いた。

「そのための瞑想法だ。せいぜい練習しておけ。いざというとき、『さあ眠れ』と言われても困らんようにな」

 さあ、帰った帰った。ウチはもう閉まっとるんだぞ。半ば押し出されるようにして、アレクは診療所を後にした。背筋を伸ばして力を抜き、目を閉じて息に集中。道中も口の中で繰り返し、これでは最早呪文である。実際効き目は確かなもので、アレクをあっという間に眠らせた。


 捻じれた廊下を一周して、目の前の階段を下り、外を回って螺旋階段へ。中庭へと戻ったアレクは、薄れた記憶を辿り、多面体の鏡を目指した。思えば城に来た日以来、一度も見に行っていない。霧の最奥に潜む裏口、入り乱れた城の入り口、アレクの受難が本当に始まった場所。石畳の広場から鏡の中の太陽を仰ぎ、アレクは小声で呟いた。

「一か月近くになるのか……」

 階段を下りてから反り返った床を上ると、石橋に辿りつく。幾重にも回廊をまとった、鏡へと伸びる橋。ツナギの金具が騒ぎ出し、厚い靴音が脛を伝った。向かい風が運ぶ、さめざめとした風の音。膝に手を乗せ、吹きすさぶ風に耐えながら、青い瞳だけは真っ直ぐに私を見つめている。

「これは……こんなに暗かったか?」

 アレクの姿を、鏡は半端に映している。あの時はアレクの姿そのものが見えたが、いつの間にか硝子が濁ったのだろうか。体を映す角度を変え、他の面を確かめるうち、アレクは漸く矛盾に気づいた。

 空と回廊が、やけに綺麗だ。普通の鏡に映ったのと変わらない青と白。肌色の墨が流れる、たおやかな白い手すり。大きな鏡の中で、アレクの姿だけが青みがかっている。

「おいおい、もうどうにかしてるのか? 俺――」

 手すりから身を乗り出し、アレクは鏡像と顔を突き合わせた。青っぽいだけではなく、見慣れた顔には何かの模様が重なっている。左右に体を動かすと模様は像の上を滑り、ぴたりと体が止まると同時に青い瞳が締まり出した。

 雲だ。背後の雲が、アレクに透けて見えている。アレクが、透けている。自分の体を見ないよう、ぎこちなく体を引きこんだ。アレクの体は、いつの間に透明になったのか。ここに来る道中、既に透明だったのか。それとも遥か以前から、徐々に薄まりつつあったのか。アレクは息を整え、恐る恐る自分の体を見降ろした。手。大丈夫だ。透けていない。服も含めて、他の部分も普通に見える。向うが見えるわけでもなく、手がすり抜けるわけでもない。体を一通りの叩き終わり、長い溜息をついたところに、なぜかカルラの声がした。

「珍しいですね。何かここに用事が?」

 アレクは何も言えないまま首を振り、こわばった顔でカルラの判決を待った。何も用事はなかったから一応嘘ではないのだが、何もなかったとまでは言えない。

「そうですか……まあ、見に来たくなる気持ちは分かります。私もここで最初に見たのは、この鏡でしたから」

 一瞬立ち止まってから、カルラは素通りしてくれた。してくれたのだが、難を逃れたときに限って鎌首をもたげてくるのが、藪蛇というものだ。

「カルラさんは――よく来るんですか? ここ」

 言いかけてから、アレクは幾つもの問いを飲み込んだ。安心させるような答えは、絶対に返ってこない。風に流れる黒髪に、暗い閃きがちらついた。

「ええ、時々ですが」

 髪を押さえながら、カルラはぎこちなく笑った。やはりカルラは、鏡の謎を知っている。アレクは汗ばんだ手で、冷たい手すりを握りしめた。鏡が日差しを折り曲げたのだろう。鏡が回るのと同じ速さで、白い回廊の上を透明な光が滑ってくる。几帳面な手すりの影は、二人の足元にも浮かび上がった。

「それより、偵察に向かいましょう。今日は何か収穫があるかもしれませんよ」

 イポリートの奴、絶対何か知ってますよね。アレクは相槌を打ったが、カルラが歩き出してから、一瞬だけ立ち止まり、密かに鏡を振り返った。カルラがここまで見に来たもの、アレクよりも薄い、彼女の後姿を。

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