エッシャーの城>>潜在>>2
「ええぞ。入れ」
コルレルの声に引っ張られ、アレクはソファから立ち上がった。カルラの話に出てきた、ブローカ野の三角部。コルレルが見れば、何か新しいことがわかるのかもしれない。ドアの向うで待っていたのは、しかし、やけに神妙な顔つきのコルレルだった。
「あれ? どこか悪かったんですか」
アレクは、固い声で聞き返した。シャウカステンの上に、二組のCT画像が並んでいる。コルレルに手招きされて恐る恐る覗きこむと、どちらも大して変わらなかった。
「右が病院で撮影されたもの、左がさっき撮影したものだ。分かるか?」
言いながら、コルレルは下の方の画像を指した。問題のブローカ野だ。
「左側ブローカ野の内側、この溝だ。前回撮影されたものよりも、若干広がっとる」
大脳に打ちこまれた一本の重たい影が、ゆっくりと鳩尾に沈んでゆく。三角部の萎縮。テルミンの見立てでは問題なしということだったが、そんなものはアテにならない。アレクは画像に食いつき、それからコルレルを振り返った。
「感電が原因でしょ……なんで進行してるんですか?」
コルレルは一瞥もよこさず、じっと画像を睨み付けている。鋭く皺の刻まれた眉間を、時間をかけて這い降りる、汗。刑事やニコライが何度か見せた、これはあの顔つきだ。コルレルの目の前には、油断ならない敵がいる。アレクは生唾を飲み込み、コルレルの言葉を待った。
「事故で破壊されたニューロンからの信号が途絶え、機能を喪失したニューロンが分解された……説明はつくが、通常の経過ではありえん。むしろ他のニューロンが伸長して、破壊されたニューロンを代替するところだ」
紛れもない事実を前に、二人は言葉を失った。脆い音を立てて蛍光灯が瞬き、陰の間を緑の床が漂っている。三角部の萎縮は一体どこで止まるのか。ニューロンが擦り切れていった先には、一体何が待っているのか。答えどころか、疑問さえも口に出来ないまま、時間を秒針が追い立てるのを見守った。時計の左側が、じりじりと減ってゆく。これだけ鈍い歩みを止める術さえ、今のアレクは持っていない。
終わってしまう。時間がなくなって、このまま、何も止められず。アレクがいなくなった後に、無傷の党とユレシュが残る。カルラから聞かされた虐待が繰り返され、エッシャーの城はユレシュの手に落ち、党が作った事実の中に、人々はいつまでも閉じ込められる。アレクが、このまま何もしなければ。
「先生。この調子だと、いつまで持ちますか。俺」
顔を上げたアレクの目には、鋭く硬い光が灯っている。暢気な街の青年に手負いの獣の激しさを見て、コルレルはたじろいだ。
「やけに強気で聞くな……ふん、いいだろう。それなら正直に答えてやる」
今のアレクには、まだ言語障害は出ていない。このまま萎縮が進行しても、何不自由なく生活できる可能性はある。コルレルは赤いペンで、CT画像に予測を書きこんだ。
「だが、今のまま萎縮が進めば、4か月後には三角部の大きさが半分になる。一般的には、文章の反復がほぼ不可能になった状態だ」
金臭い音を立て、コルレルの椅子が回った。見上げた先に広がるのは、灰色の天井だけ。上を向いたコルレルをじっと見据えたまま、アレクは答えた。
「4か月、いや、3か月かな……分かりました」
油染みた両手は、つなぎの膝を握りしめている。どんなにか細い可能性も、決して話さないように。
「それまでの間、俺にもっとできることがあるなら――」
教えて下さい。アレクは低い声で、力を込めて訴えた。
「俺も力になりたいんです。党の陰謀を止めるために……このまま、奴らに好き勝手させてたまるか」
もう一度アレクの眼差しを確かめ、それからコルレルは大きく深呼吸した。
「コーリャが聞いたら、さぞ喜ぶだろうが……他人に吹き込まれて、勢いで言っとるわけじゃなかろうな」
コルレルの顔がぐっと近づき、目の前が僅かに暗くなった。アレクの知る医師の顔とは、まるで似ても似つかない。それもそのはず、この男が属していたのは、病院ではなく軍隊なのだ。
「俺が自分で決めたことです」
アレクがひるまず念を押すと、コルレルは漸く折れた。
「分かった。一つ心当たりがある……」




