エッシャーの城>>髄質>>3
アレクの提案を、カルラはあっさり受け入れた。明日の朝10時、レスメンナヤ通りのカフェで。カルラが望んだ待ち合わせ場所は、市内で最も静かな通りだった。水没した湿地に杭を打ちこみ、ケーブルで吊るした極東のヴェネツィア。オフシーズンの別荘地からは、なるほど警官の足も遠ざかる。仕事上がりと同時に寝てしまえば、5時間程度は眠れるだろう。アレクは別れを告げ、アジートに帰っていった。
翌日仕事に出ると、バザールの片づけが始まっていた。名残を惜しむ仲間たちの間で、アレクは船をこぎながら一日を乗りきったが、余裕のない見通しほど壊れやすいものはない。漸く帰れるというところで、ニコライ達がハンガーを訪れたのだ。
「流石に間が空き過ぎたからな。一日でも早く回したくてよ」
翌日に点検を回しても、ハンガーを閉めるために誰か一人残らなくてはならない。当然のように新入りが選ばれ、青い顔をしていると、レフが代わりを買って出た。
「俺が残るっス。昨日初トロッコで、アレク君は膝ガクガクだったからねぇ」
首に腕を回したまま、レフはアレクを隅に連行した。
「何よ? 明日予定あんの?」
相変わらず、嫌なところで勘がいい。
「実は、また街に行くことになった」
苦笑いしたアレクに、レフは粘っこい笑みを返した。
「昨日今日振られたばっかりで新しい女を見つけて来ちゃうんだからさ、心配し甲斐がないというか、ふてぶてしい奴だよねぇ、君も」
後でちゃんと報告するように。レフは文句の一つも言わず、貧乏くじを引き受けた。わざとらしい先輩風にも、アレクは感謝するしかない。トロッコならば、レフこそアレクの倍も漕いでいたのだ。
「で? どうだ、その後は。何か目ぼしいもんは見つかったか」
レフから解放されたアレクに、ニコライが歩み寄った。逆光の奥底でサングラスが隠した目付きは、アレクに何も教えてくれない。
「ああ。イポリートという男なんだが、俺の逮捕に一枚噛んでいたみたいだ。これから暫く、あの男を追うつもりをしてる」
見えない眼差しを、アレクはじっと見据えた。逃げない。本当に何もないのか。
「奴か……お前に目をつけたのは。てっきり保安局だと思ってたが……いや、その方が分かりやすいか」
ニコライは、イポリートを庇いもせず、種明かしもしなかった。やはり、違うのだ。
「研究者には見えなかったぞ? 何者なんだ? あいつは」
鋭いエンジン音が、ハンガーから出て行った。イワンのボルゾイだ。アレクはまだ当っていないが、一台だけ旧型で、エンジンの種類が違うのだという。イワンを見送ってから、ニコライはアレクに答えた。
「敵さ。再構築派の急先鋒だ」
続いて2台、3台とボルゾイが発進していった。自分のボルゾイをチェックする隊員たちの中、エカチェリーナだけが手を止めて、アレク達をじっと見つめている。
「俺達が軍にいた頃、奴は国安の幹部だった。専門は容疑のでっち上げだ。あのヤロー――」
一体何人パクりやがった。絞り出した声は、怒鳴り声よりも重く、熱い。ニコライは鼻の頭に固い皺を刻み、大きな傷だらけの拳を握りしめた。
「ユレシュの味方で、間違いないんだな」
ニコライは答えず、ボルゾイに飛び乗った。4ローターのエンジンが、雄叫びとともに油圧を上げてゆく。狙っているのだ。彼方から漂って来た、仲間達の血の臭いを。
「ああ、お手柄だ。絶対にそいつを逃がすな」
スロットルを緩め、ニコライはアレクに命じた。
「そいつの後ろには、絶対にユレシュがいる」
ニコライのボルゾイはハンガーを飛び出し、小さくパワースライドしてホールの出口に頭を向けた。2台分の間を守って、エカチェリーナも同じ軌道で付いてゆく。残された整備班はその場で解散し、アレクはレフに礼を言い直すと、真っ直ぐ固いベッドに戻った。




