エッシャーの城>>髄質>>2
「イポリートと……キリールか!」
二人とも大物らしいが、イポリートは味方だから収穫は半分だろうか。名前を忘れないように口の中で繰り返しながら、アレクは中庭に引き返した。カルラなら、二人が何者かも教えてくれるだろう。屋上に出てバルコニーを辿り、白い宮殿を後にして、螺旋階段を駆け下りると、そこにはまだカルラの姿があった。腕を組んだまま、落ち着きなく芝の上を歩き回っている。
「天使様! 党の幹部、ぽいのを、見つけました」
息が上がって、話がぶつ切りになってしまった。焼けた喉から、痺れた鉄の臭いが立ち上る。
「本当ですか! アレクさん、落ち着いて、始めから聞かせてください。一体何を見てきたのか」
カルラはアレクに駆け寄り、背中をさすりながらベンチまで連れ添った。陰に漂う木漏れ日と、緑の匂いが肌に沁みる。じっくり息を整えてから、アレクはカルラに聞き返した。
「イポリート、って人、知ってます?」
名前を耳にした途端、すまし顔が小さく揺らいだ。やはり、カルラは知っている。狙っていた的の一つが、イポリートだったのだろうか。カルラはアレクの目を覗きこみ、小さく頷いた。
「イブレフスキの側近の一人です。保安局時代から直属の配下だったのは、たったの3人。イポリートとキリール、そして――」
ユレシュか。骨身に染みついた名前が、不意に話を遮った。
「あの男が、ユレシュの仲間の一人……」
こめかみを、鋭い汗がなぞる。キリールというのは、恐らく電話をかけてきた男だろう。アレクが通りがかった一幕は、在りし日のままの謀だったのだ。ただ一人、演出家を除いては。
「その後イポリートは行政局に移り、キリールは保安局の局長となりました。今のソビエトを動かしているのは、イブレフスキの取り巻きということです」
その筆頭だったユレシュは、今、どこで何をしているのか。二人の話に現れたのは、時代に呑まれた科学者だけだった。
「キリールからイポリートに電話がかかってきて……俺に逃げられたって話だったんだけど、何となく安心したんです。受け渡しが上手く行った、って」
木陰の中で、とりとめのない緑色が閃いた。カラスアゲハだ。黒い翅を翻し、ふらふらと陰の縁を縫ってゆく。
「受け渡し? それはアレクさんの考えですか。それとも――」
アレクは目頭を強く押さえ、沈んだ記憶を手繰り寄せた。テロリスト、略取、受け渡し、朗報。キリールの報告を、朗報と感じたのは誰か。
「イポリートだと思います。俺は、そう思ったことがなかったから」
黒い瞳に険しさが奔った。カルラはアレクを助けるために、ニコライ達と別の算段を立てていた。イポリートも、カルラの仲間ではなさそうだ。
「意外でした。テロリストに情報を流したのが、まさかイポリートだったとは」
カルラは俯き、長く思い息を吹いた。
「元々は、どういう男だったんですか?」
覗き込んだアレクに一瞥をくれると、再びカルラは芝生を睨んだ。
「決して実直な人物ではありませんが、彼は絶対的なユレシュの支持者でした。便宜を、アレクさんを受け渡すというなら……ユレシュの元へ送ったと言われた方がまだ納得できます」
考えこむカルラに、アレクは目を丸くした。イポリートは、内通者ではないのか。
「そんな、俺はてっきり味方だと……キリールにも、俺のことは隠してたし」
そうでなければ、アジートにアレクを寄こす理由がない。アレクが見守る中、カルラは深くため息をつき、芝生に足を投げ出した。
「……党の意向ではないのでしょうが、益々分かりませんね。一体誰に味方したのか」
結論を出すのは、もう少し、調べてからにしましょう。カルラはいそいそと立ち上がり、右手で白衣の裾を払った。細い背中は、まだやせ我慢を負っている。
「だから、天使様は待っててくださいって……って言っても、俺はそろそろ起きる時間かな」
馬車馬として鞭打たれた上に、帰ってくるのが遅すぎて碌な睡眠を摂れていない。今日は少しばかり険しい一日になるだろう。アレクは膝に手をついて、重い体を持ち上げた。
「すみません。せっかく手掛かりがつかめたというのに……」
ほんのわずかに覗いた指先が、袖口を握りしめている。カルラを振り向かせるために、アレクは軽く手を叩いた。
「手掛かりをつかめたんだから、今日は大いに前進、ってことにしましょう」
アレクにつられて、冷たいカルラの頬が緩んだ。
「ええ、本当に。前進していますよ。アレクさんのお陰で、調査は劇的に進展しました」
手放しに褒められて、アレクは僅かに目を逸らした。カルラがしてきた以上のことを、アレクがやったわけではない。
「まさか。言われた所を探しただけですよ」
だが、半分は正解だ。アレクの片手は、もうユレシュの手掛かりに届いている。
「でも、明日は一日探し放題です。ユレシュの尻尾、掴んでやりましょう」
今日一日を乗り切ってしまえば、明日は土曜日だ。土曜日。線描だけの約束が、歩き出したアレクを引き止めた。休みなら、街にまで足を延ばせる。
「そうだ、この間の約束。一度、街で会って相談できませんか?」




