エッシャーの城>>髄質>>1
その夜アレクが中庭に向かうと、カルラは既にそこにいた。人々が眠らぬうちに城を見て回るため、日が沈んですぐ横になるのだという。
「無理はしないでくださいよ。この間倒れたばかりなんだし」
日当たりが良いからか、カルラの顔色は、昨晩よりも幾分マシに見える。
「ええ。今日は大人しくしていますとも……すみません、私ばかり」
アレクは手を横に振り、弱々しく笑った。
「そう言わないでください。俺なんて、何度も天使様に助けてもらってるんですから」
今日は、あまり時間がない。世間話もそこそこに、アレクは白い宮殿に向かった。昨日はカルラが倒れたところで切り上げてしまったから、最後に入った広間はほとんど手つかずだ。あの広間の中にも、ユレシュへの入り口が一つくらい隠れているかもしれない。手摺りの上に身を乗り出し、アレクはアラベスクの踊り場から吹き抜けを見下ろした。壁のあちらこちらには、オレンジ色の扉が散りばめられている。アレクは一番下まで降りると、捻じれた通路と向き合った。
カルラが手前から調べたのなら、一番奥から見ていくのが正解か。アレクは通路の突き当りから、オレンジ色の扉を見上げた。今更悪が滅んだところで、アレクのいない世間はもう出来上がってしまっている。元通りへの帰り道は、あの扉の先にはない。冷え切った溜息が、唇の間を抜けて行った。惰性か、暇つぶしか、それとも興味本位なのか。気が付くとアレクは、いつものように扉を開けていた。
夜の執務室、深い時間の下を緩やかな水音が流れている。各部署からの予算案を見比べながら、アレクは底に残ったコーヒーをすすった。やはり中央ロシアの再開発が、全体の予算を食いつぶしている。幾つかの地域を放棄し、シベリアへの移住計画を推進するべきだろう。部下に試算させるプランを検討していると、眠っていた電話が俄かに鳴り出した。
「こちら行政局局長室」
軽く凄みを利かせると、電話の向うからキリールのだみ声が返ってきた。
「イポリート、私だ」
イポリート。そう、この男の名前だ。気付くと同時にアレクはキリールのことを思い出した。保安局時代から、帰り支度を始める頃に限ってキリールは厄介事を持ち込んでくるのだ。
「例の男が護送中テロリストに略取された」
アレクのことだ。保安局はまだ、アレクのことを探している。失敗を打ち明けられながら、なぜかイポリートは胸をなで下ろした。今回ばかりは朗報だ。受け渡しが上手く行ったらしい。
「シベリアの猟犬も堕ちたものだな……冷戦中ならありえなかった事態だ」
頬が緩んだのを気取られぬよう、イポリートは冷たく突き放した。カルラのいう協力者か、それともアジートの仲間か。
「耳が痛いな。現場には冷戦を知らない世代が浸透しつつある」
字面とは裏腹に、キリールの声は冷たい。次に打つ手が、もう決まっているのだろう。
「分かっているな……城はユレシュの捏造だった」
イポリートは声を落とし、キリールに釘を刺した。放っておけばいいとまでは、流石に言えるはずもない。
「秘密裏に進めるとも。党内にもメーソンが紛れ込んでいるからな」
全く持って油断ならん。キリールは吐き捨て、そのまま電話を切ってしまった。ごもっともな意見なだけに、ますますもって愚かしい。イポリートが受話器を置くと、アレクは手足をばたつかせ、椅子に根のついた体から浮かび上がった。