エッシャーの城>>盲視>>8
「ボルゾイは出せないぞ。ホールがあの騒ぎだからな」
見向きもせずに釘を刺すと、硬い返事が跳ねかえってきた。
「馬鹿が。知った風な口を聞くな」
イワンだ。痛む背中を黙らせて、アレクはどうにか起き上がった。前に一度見かけたときと同じ擦り切れたダスターコートが、肩を怒らせて壁際を歩いている。
「何だよ、他にもあるみたいな――」
アレクは鍵をしまい、重そうに立ち上がった。立ち止まったイワンの前には、二つの押しボタンが並んでいる。あること自体は知っているが、アレクは使われるところに立ち会ったことがない。酒が入っているのだろうか。イワンは大きくしゃっくりを巻き上げてから、赤い方のボタンを押した。
何の装置か確かめようとアレクがもたもた歩き出すと、安っぽいブザーが脅しかけてきた。壁の上を回転灯の黄色が滑り、足下では赤と緑のダイオードが瞬いている。床を走るステンレスのラインに気付き、アレクは小さく声を上げた。
「ああ、エレベーターか……俺も乗せてくれないか?」
イワンが足場の上に乗るのと同時に、ステンレスの銀色が黒い床から生えてきた。ボルゾイ用というのも、恐らくは本当だろう。剥き出しのエレベーターは、アレクの部屋より余程広い。
「勝手にしろ。落ちても知らんがな」
答えを貰うより早く、アレクはエレベーターに足をかけている。エレベーターは二人を乗せ、ゆっくりと地上へ滑り出した。ハンガーは少しずつ足下に沈んでゆき、エレベーターが縦穴に入ると完全に見えなくなった。ハッチまでには、どれくらいの時間がかかるのだろう。アレクはイワンに目をやったが、イワンは壁に向かい、それきり何も口を聞かない。滑車の呻きと警告音が、太い縦穴を上ってゆく。
「……結局、乗らないんだな」
床に直接腰を下ろし、アレクはイワンの背中に当てつけた。コートから出た右手には、スキットルが光っている。
「外の空気を吸いに行くだけだ。悪いか」
いや。アレクが答えると、そこで話は途切れてしまった。前々から分かっていた通り、取りつく島のない男だ。穴を支える鉄骨とナフサランプの黄色い縞が二人の周りをゆっくり滑り、足元に消えていく。今更降りることも出来ずにアレクが言葉を探すうち、エレベーターは音を立てて止まった。
「着いた……のか?」
イワンが答えるより早く、一面の黄色に切れ目が入った。赤い。目の前の壁は鈍い唸り声を上げ、外側に跳ねあがってゆく。やがてハッチの奥から現れたのは、山の端を焦がしながら沈みゆく太陽だった。遠くの山並は厚手の影を纏い、通路の床は赤く染まっている。ハッチが開き切ると、イワンは太陽に向かって進み、通路の縁に腰を下ろした。
「この間は、お手柄だったらしいな」
アレクが隣に屈み込むと、イワンは振り向かずにスキットルを差し出した。表面に指の跡がはびこり、あまり清潔そうには見えない。まさかそれを口実にするわけにもいかず、アレクは冷たいスキットルを受け取り、口をつけないように上から注いだ。アルコールの臭いに混じって、ココナツミルクの白い味がする。
「仕方なくだ……意外だったな。蒸留酒だと思ってた」
中を覗いてから、アレクは酒を返した。夕日を灯した細かい露に覆われ、スキットルは白熱して見える。イワンは一息に残りを飲み干し、焼けついた息をゆっくりと赤い空に返した。
「ヴォトカだ。中身はな」
それで。イワンは頬杖をついた。
「お前は何をしに来た。整備班こそもう店じまいだろうが」
実のところ、アレクにはハンガーまで来る理由がない。足腰にガタが来ていたのだから、猶更だ。うまい答えはなかなか見つからず、そのうち太陽が山際に触れた。
「ホールが煩いから、避難してきただけだ」
サンダルのつま先が、角ばった小石を転がした。山肌を覆う砂利に、小石はたやすく紛れてしまう。
「……今日、街に行った。友達にも会ったよ」
アレクが苦笑いを浮かべても、イワンは何も返さない。鼻を鳴らして、夕日に目を戻すだけだ。沈みかけた太陽は鋭い光を振り絞り、山肌を赤く染めている。
「きれいさっぱり――いや、初めからいなかったんだ。俺は……」
ポケットから取り出すと、ミツバチのキーホルダーは手の中で安っぽく輝いた。今のアレクにとって、これは何の願掛けなのか。今のノンナにとって、これは誰との思い出なのか。不思議と涙は流れず、枯れ果てた笑いが零れる。
「分からなくなってきた。どこからが本当なのか、どこから俺がやってきたのか」
握りしめた拳に、鍵の歯が食い込んだ。後にした部屋の鍵、与えられた暮らしの鍵。いつかは取り戻せるはずだった、穏やかな日々の鍵。
震える手を振りかぶり、アレクは力任せに鍵を投げ棄てた。少し山なりに飛んでから、鍵は赤い光をちらつかせ、谷底に落ちてゆく。夕闇の中に沈み、鍵が燃え尽きるのを見届けてから、イワンは立ち上がってコートの裾を払った。
「この国は、全部まやかしでできてる……連中がその気になれば、街でさえもなかったことになる」
二人はそれから口を聞かず、夜が坂を登ってくるまで赤い空を眺めていた。小石を雪ぐ風の中に、大きな蛾が電灯を叩く平べったい音だけが聞こえた。




