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エッシャーの城>>盲視>>7

「ああ、そうだな……帰らないと」

 アレクはレフと目を合わせ、それからテーブルの上を眺めた。見慣れた青いクロスと、花柄の円皿、数枚だけ抜き取られたピッツァ。こうして街に戻ってきさえすれば、そこには元通りの毎日がある。穏やかで優しく、満ち足りた街での暮らし。テロリストが潜んでいるとは、とても思えないほどの。

 アレクは重たい影を引きずり、二人の後について行った。そういや、班長達への土産がまだだったっけなぁ。レフは何かと話を振ったが、アレクから返ってくるのは曖昧なうわ言だけだ。

「そんなこと言ったら、アタシもリィファ達には何も買ってないよ」

 また今度、みんなで来ればいいじゃん。アグラーヤはレフに一瞥をくれ、路面電車の駅を指さした。

「そっか、そっか。だよね。決まってるよね」

 レフは苦笑いを浮かべ、アグラーヤの戦利品を持ち直した。指に噛みつく手提げの群れは、一つ残らず彼女のものだ。散歩に連れていくには、いささか数が多すぎる。レフは素直に引きさがり、駅のベンチに荷物を座らせた。他の客が居合わせていたら、二人は両手を食いちぎられていたことだろう。電車の席も空いていたのは幸運の極みだったと、トロッコを漕ぎながら二人は思い知らされた。

 アジートへの帰り道は、文字通りの地獄だった。背骨と指先は早々に悲鳴を上げ、トロッコのスピードは上がらない。元々鈍いアレクの動きは一漕ぎごとにますます萎れ、最後はレフの一頭立てだ。アジートに辿り着くと3人はその場で別れ、各々の部屋を目指した。

 アレクはすっかり打ちのめされ、シャワーも忘れてベッドの上に転がった。こうなってしまうと、首を動かすことさえ面倒くさい。力尽き、硬いベッドに打ち上げられた体は、しかし、安らかな眠りを受け付けてくれなかった。

 手首、膝、足首、肩。あちこちの筋が熱を持ち、しつこくアレクを呼び続ける。左手で右手引き寄せ、腹の上に横たえようと、耐えかねて短く怒鳴ってみても、しつこい痛みを振り払うには物足りない。長く青ざめた溜息が途切れると、アレクはもたもたと起き上がり、部屋の中を見渡した。

 空っぽだった部屋の中も、バザールのお陰で幾らか様になってきた。壁にかかったアロハ、隅に立てたラック、壁際に寄せられたコンポ。きな臭い常夜灯のオレンジ色に寝巻にサンダルをつっかけ、黴臭い部屋を後にした。

 

 アジートには、夜というものがない。大通りには人が行き交い、並んだ店から光が伸びている。人通りが少なく見えるのは、バザールに客足が流れているからだろう。足下はおぼつかないが、重みの抜けた体なら取り落とすこともない。熱い腕をさすりながらぼやけた景色の中を彷徨い、重力に誘われるままアレクは一番下まで滑り落ちた。

 開け放たれたゲートの向うでは、バザールがうごめいている。ざわめきに追い立てられ、ガレージに逃げ込むと、アレクは手探りで電灯をつけた。現れたガレージに先輩たちの姿はなく、待っていたのは段ボール箱だけ。レフはきちんと、バンプストッパーを運び込んでくれたらしい。ドアの前に居座った段ボールには、几帳面に付箋までつけてある。

「また今度、埋め合わせをしないとな……」

 壁際のソファに腰を下ろし、アレクは足を投げ出した。動かしていないというのに、筋肉がきしむ音は絶え間なく骨を伝わり、頭まで上ってくる。シャッター越しに聞こえる声も、焼けついた体には刺々しい。アレクは目を閉じ、ハンガーの天井を仰いだ。最初は鼻についた胡散臭い油の臭いが、いつの間にか当たり前になっている。借り受けたツナギの臭い、ボルゾイを流れる血の臭い、アジートで与えられた持ち場の臭い。既にそれらはアレクの臭いになりつつある。溜息をつき、ソファの上に倒れ込むと、ポケットの中で小さな音がした。

 こんなガラクタを、なぜ未だに持ち歩いているのか。無事な左手でぎこちなくポケットの中を探り、アレクは鍵を取り出した。この鍵で開く扉は、もはやどこにも残っていまい。とうの昔に、新しくまともな扉と交換されたことだろう。今までもそうすることで、保たれてきたのだから。アレクは鍵を電灯にかざし、唇をねじって笑った。

 白熱灯の下で見ると、六角形のキーホルダーはうっすらと日焼けして見える。ゆっくりと捻じれながら光を放つミツバチを、アレクはぼんやりと眺めた。

 変わってなどいない。街でアレクが見たものは、在りし日のままの姿だ。人々も、暮らしも、街角も、何一つ変わってなどいない。変わってしまったのは、アレクの方だ。あの穏やかな茶番の中には、二度と戻れないほどに。この鍵を持っていることに、一体何の意味があるのか。ぼんやりと見上げながら、しかし、捨てられずにいるうちに、ハンガーを一人の男が訪れた。

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