エッシャーの城>>盲視>>6
「つか、何で帰ってきたんだっけ?」
首を傾げるユーゴに、パルミは溜め息交じりで返した。
「何でって、バカ。あんたそんなことも忘れちゃったわけ? そんなの……」
そんなの、アレクが入院したからに決まっているではないか。立ち上がろうとしたアレクのシャツを、レフは鋭く引っ張った。アレクの見守る中、台詞を忘れた役者たちは、パルミによるべのない眼差しを注いでいる。
「あれ? やだ。おかしい――」
分かりきったはずの答えが、いくら待っても出てこない。道理でいつもと変わらないはずだ。彼らには、本当に何も起こらなかったのだから。地下室での事故が、いつの間にかガス中毒になっていたように。
「お待たせいたしました。こちらマルゲリータ(大)です。まだチーズが熱いので、火傷なさいませんようお気を付けください」
皿の底がテーブルを叩く音が、ウェイトレスの注意に応えた。アグラーヤが煩わし気に一切れかじって見せたきり、アレクもレフも、手を付ける気配がない。知らないふりをすることも忘れて、表の茶番に目を奪われている。
「ユーゴが……腹を壊したんじゃなかったっけ? ……確か」
暫くして、ミーシャが苦し紛れ憶測を絞り出した。下痢程度のことで、旅行をきり上げるはずなどない。だというのに、アレクには見ていることしか出来なかった。あやふやな呼び水が笑い声を汲み上げるのを、口をだらりと開けたまま。
「そうそう、あれは大変だった! 顔も真っ青になっちゃって」
ノンナに背中を叩かれた後から、ユーゴは腹を壊したことを認めてしまった。
「そういや、そうだったな。いや、あの時はホント死ぬかと思ったし」
一斉に湧き上がる、冗談交じりのブーイング。一しきり文句を言い終わると、ノンナ達は再びグラスを手に取り、日帰りで遊びに行く相談を始めた。
おざなりなままごとには、それらしく見せようという巧みさの欠片もない。アレクは項垂れ、青ざめた溜息を吐き出した。あの舞台にはアレクの役などない。いや、ノンナが生まれたその日から、アレクが登場したことなどなかったのだ。少なくとも、今の筋書には。
「外から見ないと、分からないもんでしょ? これがアレク君の過ごしてきた、今までの人生ってわけよ」
アレク君の、人生。レフに相槌を打つことさえできず、アレクは震える両手で頭を抱えた。本当に、全てはデタラメだったのだろうか。手に負えないユーゴのバカ騒ぎも、パルミが時折見せる気づかいも、斜めに構えたミーシャの軽口も、ノンナだけが知っている、数えきれないありきたりな幸せも。
ティレニア海のセットでは、まだ歪なおしゃべりが続いている。縮こまったアレクの肩を、レフは軽く抱き寄せた。
「そろそろ帰ろうぜ。本物が待ってる、本当の世界に」
アレクの耳にはレフの囁きすら届かない。ただ、白波が思い出を飲み込み、沖合へと運んでゆく、とりとめのない音だけが聞こえた。




