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エッシャーの城>>盲視>>2

 指の付け根の皮がめくれ、血がにじみ出したころ、闇の奥底に黄色い光が見えてきた。

「ラーニャ、ゴールって、いうのは、あれか?」

 シーソーにもたれかかり、途切れ途切れの質問を吐き出した。膝も肩も擦り切れて、震えているのがトロッコなのか、体なのかも分からない。

「そそ、お二人ともお疲れ様」

 濁った闇の中に、転結機とボロ小屋が浮かび上がっている。重労働だった割には誰かが迎えてくれるわけでもなく、どことなく侘しい終点だ。レフもいつの間にか手を止めており、トロッコは次第に遅くなった。止まったからには、ここが街の地下なのだろう。

「それじゃ、先に買い出しを済ませっか」

 レフとアグラーヤはトロッコから飛び降り、ボロ小屋の中に消えた。首を傾げながらも、アレクにはついて行くほかない。

「レフ、ここに何が――」

 言いかけて、アレクは声を上げた。扉をくぐった先が、アジートにあったのと同じ、細い階段になっている。隠し通路というわけだ。

「何って、パーツ屋だよ? 整備工場をやってるのは、表だけだからねぇ」

 レフの影は肩を竦め、逆光の中でにやついている。アレクはレフを押しのけて階段を駆けあがり、熱気の中に躍り出た。埃っぽい薄闇の中で、トタンの天窓と開き戸の隙間だけが白く切り抜かれている。

「よう、兄ちゃん、新入りかい?」

 ツナギを着た年寄りはアレクに一瞥をくれ、それからまたテレビに目を戻した。ブラウン管からは青白い光がにじみ出し、ノイズ混じりのリポーターが吹雪の中で愛の不毛叫んでいる。

「ああ、よろしく。整備班の下っ端だから、これからは世話になる……どこだ? オーストラリア?」

 アレクは目を細め、画面のテロップを追いかけた。ハバロフスクに夏が居座っているときは、オーストラリアに冬が来る。

「パースだ。随分ひどいらしいな」

 振り向きもせず、老人は頬杖によりかかった。真っ白なデッキの向うは雪嵐にかき消され、どうなっているのか分からない。ただ、辛うじて見えているのは、何もない大きな広場だけだ。

「ちわっす、爺さん、俺がこないと暇だったんじゃない?」

 レフがアレクの後ろから、老人をからかった。地下では寒そうだったレフのバミューダパンツが、地上に出た途端涼し気に見える。それがアレクにジーンズをはかせた張本人なら、なおさら。

「馬鹿言え、野郎が何人来たって――」

 振り返ってアグラーヤの姿を認るが早いか、老人は飛び起きてボスの娘を大歓迎した。

「お嬢! こらたまげた! しばらく見ない間に、また別嬪さんになったんじゃねえかい?」

 座った座った。パイプ椅子の埃と錆を払い、老人はアグラーヤに差し出した。

「先月来たばっかりじゃん。ナブ爺は大げさなんだから」

 肘で小突かれたわき腹から、早速酔いが回ったらしい。一か月分の口説き文句を、老人は一気にまくし立てた。

「いやいや、お嬢の顔が見れねえと、たったの3週間が5年、いや10年あるんじゃねえかってくらい、とにかく、長くってよお。それもこんな錆臭い倉庫で、ずっと一人きりさあ。このオイボレは、もうお嬢に会えるのだけが唯一の楽しみで、なんとか死に損なってるんだから」

 この御大の舞い上がりようには、アジートきっての三枚目も苦笑せずにはいられない。

「年が行くと5年、10年が数日に感じられるって、この前言ってなかったっけか?」

 レフの冷やかしに、老人は噛みつき返した。

「それがどうした! 数日が10年なら10年は1200年だ!」

 アグラーヤは、アグラーヤで腹を抱えて笑い出し、倉庫の中は大騒ぎだ。この倉庫も、一応隠れ家の一つではなかったのか。アレクは老人の肩を軽く叩いた。

「爺さん、俺たちの他にも、客が来ることはあるのか?」

 老人はアレクを振り返り、腰を丸めて歩き出した。

「たまーにな。普段は解体で手に入れたパーツを、整理するのがワシの仕事だ」

 老人が指さした先には、くたびれた段ボールが山と積まれている。

「表側に並んでるのが中古、奥にしまってあるのが新品。修理で使った中古のうちいくらかを新品だったことにして、お前たちに回してやってるってわけよ」

 アレクの目を見て、老人は唇の端を曲げて見せた。擦り減った唇には、もうあまり皺が残っていない。

「そうか……そういう風に党からいろいろ流れてるのか。テロリストの物資は、全部アメリカの援助だと思ってた」

 的外れな思い込みに、レフは小さく項垂れた。

「アレク君、あれは封鎖破りなんだぜ? 安いもん運んだって、割に合わないでしょうが」

 反政府活動には、アメリカが関与しているものと見られます。街にいた頃は、それがニュースの決まり文句だった。エカチェリーナやコルレルの話を聞き、彼らの出自を分かっていても、刷り込まれたまやかしは薄れない。テロリストは、アメリカの差し金なのだと。

「見て見て! 船が刺さってる!」

 男たちの話など気にもとめず、アグラーヤはニュースを見続けていたようだ。叫び声に引きずられ、アレク達はテレビの周りに集まった。家屋に船が突っ込んだのだろうか。見れば真っ白な雪原に、漁船が舳先を埋めている。広場のように見えたものは、港の海面だったのだ。

「港が全部氷付けか……」

 アレクが口元を覆うと、レフは相槌を打った。

「流石にこれは初めて見たわ。爺さん、これ、毎年こんなもんなの?」

 老人は、何も答えない。渋い顔が青ざめて見えるのは、テレビの光のせいだろうか。

「レフ、これ見てたら、なんかスケート行きたくなってきた……さっさと買い物済ませてこうよ」

 オマケだったアグラーヤが元の用事を思い出すとは、皮肉なこともあるものだ。レフは老人に最後のストッパーを見せ、同じ内径のストッパーを探してもらった。薄汚れた段ボールの山から同じ品が出て来るあたり、老人も長年倉庫番をやっているだけのことはある。アレク達は100ドルを支払い、一人ひと箱ずつ段ボールを持って降りた。

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