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エッシャーの城>>認識>>5

 帰り道、アレクは脇目も振らずにひた走った。バルコニーを駆け抜け、階段を駆け降り、中庭を横切ってアラベスクの大広間へ。分厚い靴底が重い足音を立て、ツナギの金具が一斉に喚き散らす。夢の中にいるはずなのに息は次第に浅くなり、喉が乾いて強く痛んだ。カルラの話が正しければ、アジートの夜はまだ続いているのだろう。寝ているニコライを叩き起こして、果たして取り合ってもらえるかどうか。そもそも面会する権利がアレクにはないかもしれない。短い睨み合いの後、アレクは思い切り扉を開け放った。ニコライは無理でも、知り合いを捕まればなんとかなるかもしれない。

 飛び起きた。折りたたみベッドは硬く、背中には冷たいシャツが張り付いている。フットライトの黄色い灯りは壁の上に大きな影を投げかけ、目覚まし時計の窓を塗りつぶしている。ベッドを降りて時計を手に取り時間の位置を確かめると、午後13時27分。女の言った時間にも、まだいくらか余裕がある。Tシャツと短パンのまま、アレクは着替えもせずに部屋を飛び出した。

 側道はともかく、アジートの大通りは行き交う人で賑わっている。甘ったるいネオンや店からもれた黄色い灯りが、岩肌に木霊する、人々の怒鳴り声。アレク達が寝ているというだけで、アジートが夜になっているわけではないらしい。

 この様子なら。アレクは足を速めた。ニコライも起きている可能性がある。通りにはいつもと変わらぬ雑多な臭いが塗りたくられているにも関わらず、吐き気は少しも昇ってこない。時計屋の前を通り過ぎたところに銀色の隔壁があり、溝に足を取られぬようアレクは小さく飛び越えた。重たく響く足音は、銀色の天井に少しずつ染み込んでゆく。音がすっかり止んでからアレクは大きく息を吸い込み、合金の扉を叩いた。

「ニコライ、アレクだ! 夢を見た! ウスリー島の倉庫が国安に見つかったぞ!」

 痺れた拳を張り上げて、かすれた声を振り下ろす。ニコライ、ニコライ。何度も名前を読んでいると不意に隔壁が動き出し、アレクは拳をすかされて扉の間に倒れ込んだ。

「煩えな。インターホンを使いやがれ」

 ニコライは、分厚いテーブルの上で手を組んでいる。シャツ一面にプリントされたハイビスカスの赤が眩しい。

「それで? 何があった」

 アレクは絨毯に手をつき、立ち上がりながら答えた。

「寝てる間に、城を見て回ってたんだ。そしたら、軍人か何かに当って……」

 悪い報せに、ニコライは歯を見せて笑った。アレクが見つけた蜂の巣が、ニコライには蜂蜜に見えているとでもいうのだろうか。

「幸先いいじゃねえか」

 分厚い隔壁が閉じる、取り返しのつかない音がした。唾が粘つき、息が重い。

「でも、不味いことになってるんだよ。密輸品の倉庫が見つかって、そこで待ち伏せして、テロリストを襲撃するって」

 焼けついた言葉が、干からびた頭蓋骨にこだまする。あの女は、見せしめだと言っていた。このままでは多くの仲間が命を落とすことになるだろう。ニコライはデスクに聳えたまま、いまだに身じろぎ一つ見せない。切子の入った琥珀色の灯りに、アレクの訴えを透かしているのだ。細かな音を重ねながら、壁掛け時計の針だけが数字の上を進んでゆく。1時42分。3時までは1時間と少ししかない。

「――どこだ。その倉庫ってのは」

 ニコライが訊ね返したのは、秒針が三度廻った後だった。怖れ知らずのデタラメにも怒らず、アジートの一大事にもひるまない、穏やかで厳かな声。

「ウスリー島と言っていた。3時までに部隊が合流するとか」

 1時45分。横目で時計を窺ったアレクを、ニコライは溜息まじりに宥めた。

「どうせ夜中にしか開けねえよ。他に分かったことは?」

 密輸品。ウスリー島の倉庫。テロリスト。3時に合流。皆殺し。どぎつい言葉の隙間に、何か挟まってはいないだろうか。

「何かあったんだけど、何だったっけ……」

 アレクが目を瞑って天井を仰ぐと、答えは、俄かに降って湧いた。頬を打つ温かい雫、体を包む軽い水音。『指令室、指令室、こちらモハメド』。あの部屋で、女はシャワーを浴びていたのだ。

「そうか――おっぱいだ。隊長って呼ばれてたのは女だった」

 アレクが晴れやかに叫ぶと、サングラスの間に皺が寄った。不味い。これではからかいにしか聞こえない。テロリストの首領を相手に、一体どんな命知らずだ。

「フン、どうやら出任せじゃねえみたいだな……分かった。手は打つ」

 信じてくれた割に、両手の指が手の甲に深々と食い込んでいる。小声で恨み言を零すニコライに、口を挟むのことなどとてもできそうにない。しばらくするとニコライは顔を上げ、立ち尽くすアレクに目を向けた。

「助かったぜ。また頼む」

 果たしてこれは、本当に人助けだったのだろうか。アレクは少し迷ってから、半分だけ答えることにした。

「礼はいらないさ。俺の方が世話になってるからな」

 ともかく、これで無駄な血は流れない。アレクは小さく片手を上げ、そそくさと執務室を後にした。

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