エッシャーの城>>認識>>4
黄色いロープが視界に入り、一、二の三で肩を沈める。駄目だ。息を吸い損なった。これではしっかり伸びきれない。足を引き寄せ壁を蹴ると大粒の水音が頭と肩にのしかかった。掬び手に引き寄せられる、水鏡の冷たい輝き。早々に浮かび上がり、アレクは水をかき寄せながら大きく息を吸った。
出だしは調子が良かったのに、どうも今日はツイていない。アレクはペースを落としたままプールサイドまで平泳ぎをして、ターンせずに上がってしまった。キャップとゴーグルを外して流しの縁にかけ、蛇口を空けるのは少しだけ。噴きあがるシャワーに目をあてがった。昼前には響いていた水音と話声も、もうあまり聞こえてこない。昼休みもそろそろ終わりだ。早く着替えないと、また隊長にどやされる。
隊長。アレクはゆっくりと息を吸い、瞬きを試みた。目に当るざらついた痛みが体から遠ざかってゆく。隊長ということは、消防か、軍人か。科学者ほどではないものの、これは当たりかもしれない。
そういえば。男は顔を上げ、強く蛇口を閉めた。モハメドが例の倉庫に出向いているのだ。密輸品の取り締まりで浮上した、ウスリー島の倉庫群。場合によっては、武力衝突も起こりうる。キャップとゴーグルを拾い上げ、男は歩き出した。
ここまでくれば間違いない。男の素性が分かったところで、アレクは手足を宙に突っ張った。体から剥がれた感覚がうるさくぶれはじめ、男の下からしきりに飛び出そうとする。甲高いがたつきが極まったかと思うと、アレクはもうバルコニーにいた。
保安局が見つかったのは、ありがたい誤算だった。機密に接する機会が多く、アレクやカルラを狙うかもしれない。壁を覆うつる草の影には、まだ二つの扉が残っている。この機会に、少しでも回っておくべきだろうか。アレクは次の扉に近づき、金色のノブをつかんで開け放った。
降り注ぐ水音に、アレクは小さく目を開けた。赤く波打つ前髪越しに大理石を模したパネル。洗っても洗っても、なかなか匂いは落ちてくれない。前髪から滴り落ちる流れが、乳房の上を滑って、ざらついた床板に滔々と吸い込まれてゆく。
シャワールームにいることに気付いて、アレクは引き返そうとした。偵察のつもりが、これでは単なる覗きではないか。女がバルブを閉め、ドアにかけたタオルを引っ張った。髪を叩き、二の腕を擦り、脇の下をなぞり、贅沢な肌触りは少しずつ降りてゆく。アレクは手を抑え込んだが、体は女から中々抜けてくれず、ついにタオルが辿り着くかと思われた、その時だった。
フックにかけた無線機の中で、太い紐が切れる音がした。
「指令室、指令室。こちらモハメド、見つけました。コーヒーです。アルゼンチン産。日付も新しい。まず間違いなく、連中が持ち込んだものでしょう」
湯煙に軽く滲む、無線機のランプ。赤い光は鋭く重くアレクの目に突きささる。アルゼンチンは西側の国だ。先ほど覗いた男が思い浮かべたのも、恐らくこいつらのことだろう。女は無線機を耳にはかけず、手に持ったまま話しかけた。こちら、シャワールームだ。
「よくやった。一旦離れて監視に移れ。3時までには我々も合流する」
腹の底に沈み込む、冷たくて低い声。冗談さえも嘲けりに聞こえる程に。
「失礼いたしました。隊長。動きが確認でき次第、再度ご報告します」
部下が生真面目に謝るのを聞いて、女は唇を歪めた。モハメド。
「見せしめだ。徹底的に潰すぞ」
生け捕りにするのは、一匹で十分だ。後は皆殺しにしても構わない。テロリストなど、母なるソビエトには存在しないのだから。女は通信を切り、赤い下着の上に黒いトレパンを履いた。引っ張られたキャミソールは二本の紐をぶら下げ、ドアの上から少しずつずり落ちている。
テロリストは存在しない。かつてのアレクにとっても、それは真実だった。耳にすることはあっても、彼らは日々の暮らしから果てしなく遠い所にいたのだ。血なまぐさい台詞が木霊するうちにキャミソールはドアから剥がれ落ち、女は足で器用にそれを受け止めた。 だが、アレクはもう知っている。そのテロリストというのが、レフであり、班長であり、アグラーヤであり、エカチェリーナであり、バトゥであり、コルレルであり、そして、ニコライであるということを。
女は頭からキャミソールを被り、首の後ろで紐を結んで、洗濯物を手提げに詰め込んだ。鍵の外れる音は硬く、女の足音はひどく柔らかい。アジートで暮らしているのと同じ人々のところに、この歩みは向かっている。アレクは死に物狂いでもがき、影のバルコニーに辿り着いた。
ニコライ達に知らせなければ、大変なことになる。




