エッシャーの城>>認識>>2
聖堂には重たい日差しが差し込み、人いきれが渦を巻いている。窓が全て開け放たれているというのに、これではまるでオーブンだ。ブラジャーのベルトの下が汗に蒸れて死ぬほど痒く、アレクはパルミの目を盗んでこっそりと脇を掻いた。この席でもこれだけ暑いのだから、光にかすんだ壇上で説教する司祭様は、たまったものではないだろう。リャサを着こんだまま半時間も直射日光を浴びて、よく平気でいられるものだ。
「……『あなた方の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである』。主に愛されるだけの値打ちがあるかどうか、地上で得たもので推しはかろうとしてはいけません。主は、あなたが活きることを望んでいらっしゃいます」
窓には蝉時雨が打ち付け、司祭様の声が遠い。浅くて重い息を数えながら、並んだ背中の向こうに浮かんだ至聖所を眺めているうちに、いつの間にか讃美歌が始まっていた。暑苦しいパイプオルガンに気の抜けた歌声が少しずつ溶け出し、遠い天井まで昇ってゆく。随分と声が小さいが、本当にみんな歌っているのだろうか。こっそり薄目を開けた拍子にイコンが目に入り、アレクは小さく頭を振った。そうだ。アレクが無事に治るように、ちゃんとお祈りしなくては。
おかしい。これではまるで他人事ではないか。アレクが漸く気が付いたのは、当たり前のことだった。今見ているこの夢は、アレク以外の誰かのものだ。口をついて勝手に出て来るアーメンに誘われて、静かな祈りがそよぎだす。
「主よ、どうかアレクをお守り下さい。一日も早く、アレクが戻ってこれますように」
聞き間違えるはずもない。アレクが一番耳にした、一番アレクが耳にしていた、それはノンナの声だった。別れがあれば出会いもあるとレフは物知り顔に言ったが、ノンナはそんな安物ではない。いつでもアレクを一番に想い、今もこうして、帰りを待ち望んでくれている。アレクは再び座る日の為、ベンチの隅にとっておかれた空席の場所を確かめた。
「アレク、早く良くなるといいね」
ミサが終わるとパルミはノンナの肩を抱き寄せ、柔らかな声で囁いた。壁画の上の天使たちが褪せて見えるこんな日にも、肩に灯った掌の温もりは頼もしい。すらりとしたパルミの手に、思わず自分の手を重ねていた。
パルミの慰めは、しかし、あまり長くは続かなかった。西口の方でユーゴの影が振り返り、楽観論を広げたのだ。
「まあまあ。ただの検査なんだろ? 肩透かしを食らって、あっさり帰ってくるかもしれないんだし」
アレクは検査入院されたことにされていた。感電事故の時と同じだ。表に薄らと影が差し、蝉の声がゆっくり遠のいてゆく。重くべたついた風がアムール川の臭いを運び、ノンナの短い茶髪をさらった。
「でも、何も言わずにいきなりスターリングラードなんて……やっぱり……」
目を伏せたノンナの背中を、パルミが軽く押し出した。ほら、早くしないとカフェが満員になっちゃうよ。立方体のパターンで埋め尽くされた広場では、教会帰りの人々が所々にたむろしている。スターリングラードなんかじゃない、俺もここにいるじゃないか。アレクは何度も呼びかけたが、ぶり返した蝉時雨にたやすく押し流されてしまった。
「思い詰めると体に毒だよ。子供の家、プールとか忙しいのもわかるけどさ。一度……ちゃんと診てもらった方がいいかもね」
うん。ノンナが小さく頷き、つばの広い麦わら帽子を被った。白い日差しが降り注ぐざらついた音の波が、か弱いミュールの足音を一息にさらってゆく。温帯に入ってから60年、Cwに入ってから40年。ハバロフスクを洗う夏は、あまりにも暑く眩しい。ゆっくりと培ったかけがえない思い出を、たやすく塗りつぶしてしまうほどに。




