エッシャーの城>>認識>>1
その後ボルゾイのメンテナンスはアキュムレータ、ロータリーエンジン。ガトリング砲と順調に進み、オイルフィルターとブレーキキャリパー、送油パイプ以外には交換が必要なパーツも見当たらない。昼休みを挟んでバラしたボルゾイを組み直し、訓練から戻ってきた車体を軽くチェックしたところでアレクの初日は無事に終わった。
「それじゃあ、お疲れ様。今日は6号車しかばらせなかったけど、アレク君も入ったことだし、明日は手分けして3台片付けよう」
ういーっす。こうして整備班は解散となり、時差ボケ冷めやらぬアレクは食事もとらずにベッドに直行したのだった。
いつの間にかアレクは眠りに落ち、そして白いテラスの上に降り立った。今までアレクが出入りしていた、行き止まりの廊下ではない。大理石の手すりに飛びつき、身を乗り出して階下を見下ろすと、そこには見慣れたアラベスクが佇んでいた。同心円状に広がる無数の菱形。間違いない。中庭から入ってすぐの、いつも通る大広間だ。彫刻の溝に食らいついた指先は、中々手すりから離れない。焼けついた息を吐き出し一歩だけ後ずさると、アレクはゆっくりと振り向いた。
扉はいつもと変わらぬ姿で、アレクの前に立ちはだかっている。木目の隙間からは湿った風が吹き出しており、白い壁の上で薄い陰はなすすべなくはためいた。『ええ、現実に関わりの深い人間同士は、比較的近い所に扉を持っています』心強いアドバイスが、渦を巻いて風音の中に溶け込んでゆく。この扉の向こうにあるのは、ハバロフスクの長閑な日々ではない。薄汚い商店街と、手狭なワンルームと、オイルが染みついたガレージなのだ。
ツナギの金具が手すりにぶつかり、味気ない音を立てた。アレクが今まで過ごしてきた日々は、優しい夢に過ぎなかったのだろうか。一度醒めてしまったきり、ノンナたちの下につながる扉は二度と現れないのだろうか。アレクは語らぬ扉を前に立ち尽くしていたが、暫くして不意に顔を上げた。
あの廊下には、まだ他の扉が残っている筈だ。アレクはミツバチのキーホルダーを握りしめ、色濃い風音を背に走り出した。暗い廊下に並んでいた、3,4枚の似たような扉。あの中のどれか一つは、この鍵を知っている。外回りで広間に入り直し、中央の入り口から反り返った廊下を辿って突き当りを左の方へ。歩きなれた帰り道をがむしゃらに手繰り寄せ、アレクはささやかな広間に辿り着いた。チェッカー模様の床に麻布の白い長椅子、壁には赤い幟がかかり、燭台の温かな光が高い天井に打ち寄せている。最後に見た時と何も変わらない、記憶のままの部屋だった。
それでも、何かが違うとすれば。壁際のポーチに真っ直ぐ突き進み、アレクは一足飛びで段を登った。薄暗い廊下の左側、三っつあったはずの扉はやはり一つ減っている。眉間に寄った浅い皺はあっという間に通り過ぎ、細い目は漆喰の上を滑った。一体どの扉が、どの友人に繋がっているのだろう。見渡すうちに鼻が捉えた微かな香りに誘われて、失われた扉の向かいに眼差しが引っかかった。甘みを含んだこの田舎くさい香りを、アレクはよく知っている。肌寒い日の朝にノンナがいつも淹れていた、カモミールティーの香りだ。油じみた軍手は既にオーク材のノブを握りしめ、気が付くよりも早く扉に体重を乗せていた。




