エッシャーの城>>黎明>>10
「ロフタスという心理学者の実験でな。エピソードとして架空の出来事を信じ込むと、脳は関連した記憶を捏造することが実証されとる。お前さんの場合は偶然記憶が戻ってきたが、街におったらどうだ? おかしいと思ってもう一度病院に行くんじゃないのか?」
もう一度洗脳し直してもらうためにな。コルレルは冷ややかにアレクを見つめ、それから椅子の背もたれを鳴らした。
「今度の事故だけではない、お前さんが治療を受ける度、お前さんの過去は上書きされた筈だ。お前さんが生きてきたのが本当にお前さんの知っている通りの人生だと、今でもそう言いきれる自信はあるか?」
ごく普通の両親の間に生まれ、人と同じように子供の家に入り、そこそこの学校に通い、どこにでもある職場に配属され、当たり前の生活を享受していたアレク。確かに過ごした筈の日々は汲み上げようとするたびに指の隙間から滑り落ち、現実味の上に広がった染みの中へと消えてゆく。カルテのコピーは音もなく弧を描いてビニール張りの床に吸い付き、ニコライは立ち上がってバラバラになったコピーを拾い集めた。
「まあ、気い落とすなや。お前はちゃんと出てこれたんだからよ……ここにはお前の記憶をどうこうしようなんて奴はいねえから、安心しろ」
緑色の床に落ちた黒い影の中、アレクの名前が載ったカルテが確かな筆跡で呼びかけている。「マウリ・ユレシュの論文に記載されていた被験者の証言に酷似」。ビニールのめくれる薄っぺらい音が、冷たい静けさの後ろを通り過ぎてゆくのが聞こえた。
「待て。他にも証言が載っとったはずだ」
顔を覆っていた手で金髪をかき上げながら、アレクはしなびた声を絞り出した。
「俺、ユレシュの陰謀とか、そんなのはどこか見えないところでこそこそやってるんだと思ってた……」
エカチェリーナが言っていたことは、でまかせではなかった。アレクは最初から、陰謀の只中にいたのだ。アレクの知っている街は、見慣れた当たり前の日々は、何も起こらない場所ではない。既に何かが起こった後に、そこにあった何かを引きはがした後に、上から塗り固められた何かなのだ。
「まあ、陰謀とは言わねえのかもな。連中の計画は、とうの昔に当たり前になっちまった。騙されていることの方が、だから何でもないことなのかもしれねぇ」
ニコライは手を止めず、物陰に向かって語り続けた。
「だがな、世の中が変わった後もあの研究はどこかで進められてる。今度はお前の言う通り、見えないところで、しかし着実にな。党の考えて欲しいこと以外を誰も考えられなくなるその日が、遠からずやってくるのさ」
見つけた。コルレルはくぐもった声でいくつかの台詞を読み、それから二人に目当ての台詞を聞かせた。
「状況が変わったのは、城の発見から一か月後のことだった。担当医との会話の一部がここに載っておる。『その扉をくぐると、私はいつの間にか知らないところに座っていました。本のたくさんある、薄暗い部屋で――壁にお船のハンドルがかけてありました』Эの発言を書き取るうちに、担当医は気味が悪くなってきたそうだ」
アレクは顔を上げず、低い声で訊ねた。
「何があったんですか?」
ニコライは黙って赤いファイルに書類を納め、二人の会話を見守った。アレクが項垂れながらも記録への興味を示しているのを見て、首領は口元に薄らと笑みを浮かべている。
「担当医は、どうもその部屋が彼の書斎に似ているらしいことに気づいた。舵輪の形をした多機能時計、窓際に置かれた脳の模型。机の上の科学雑誌……無論、Эの夢の中にそのような部屋が出てきたところで驚くことはない。施設の中で見かけたものが夢に出てきただけの話だ、そう思っていたところに、だ」
コルレルは再びアレクにファイルを見せ、右下の引用を指さした。
「ここだ。二つ目の会話録。読んでみろ」
コルレルからファイルを押し付けられ、アレクは渋々対話を読み上げた。
「えー……『そのとき、頭の中に考えが浮かびました』、『言ってごらん。どんな考えだったんだい?』、『いつまでここに居させてもらえるだろうか。早く成果を上げなくては、早く、早く……私は机について、頭を抱えていました』……似てるな」
それが現実味のある光景であることを除けば、アレクが見たという「他人の夢」によく似ている。アレクの頭の中にも、こうして思考が流れ込んできたのだ。対話はそこで終わり、余白の下に医師の回想が綴られていた。
「『それは正に、夕べの私の悩み事だった。ここ数年私は目ぼしい成果を出せておらず、チームを外されることを恐れていたのだ。私はЭが夢の中で自分の思考に何らかの形で接触したのではないかと推測し、試しにいくつかの実験を試みた。即ち、他の扉を開け、その中で見たものを報告するよう、Эに指示を出した』」
アレクからファイルを取り上げ、コルレルは斜め読みを始めた。眼鏡の奥で動く瞳は、記事の向こう側を見ている。
「結果が彼の思い付きを裏付けた。Эは本人しか知らないはずの体験を次々に言い当て、世迷言だった筈の仮説が学会をリードし始めた。ユレシュは正しかった、人間の精神は未知の領域に存在するのだと」
コルレルがファイルを閉じると、僅かに埃が舞い上がり、緑色の床に淡い陰が渦巻いた。
「より激しい反響があったのは、応用分野だ。冗談交じりにつけられた『エッシャーの城』という名前は党の最重要プロジェクトを指すようになり、Эが受けた手術が、数えきれない被験者に施された……結局Э以外にエッシャーの城に辿り着く者が現れぬまま、研究所は火災で全焼。生存者は一人もおらず、プロジェクトは凍結された」
コルレルの言葉に、アレクは眉を寄せた。ここだけ話が食い違っている。
「火事? バトゥには暗殺と聞きましたが」
アレクがコルレルに尋ねると、ニコライが代わりに答えた。
「火事が起こったとき、そういう噂が立ったんだ。ユレシュが大きくなり過ぎるのを総書記が危惧したとか、党内の分裂を防ぐ為だとか、大体の連中は適当に理由をつけて納得したが、ユレシュは一方的にやられるほど間抜けじゃねえ。俺はあの事故が反対派の目を眩ますための狂言だったと思ってる」
相槌を打つことも言い返すことも出来ず、アレクは低い声で唸った。常識で考えれば明らかに考えすぎだが、それはカルラの警告も同じことだ。カルラの話が嘘ではなかったのだから、もう世の中に考え過ぎなどというものは残っていないのかもしれない。
「何か、気になることはあるか」
コルレルに聞かれてアレクは何度か首を傾げ、しばらくして一つだけ問いを見つけた。
「Эと呼ばれた女の子は、火事が起こったとき研究所にいたんでしょうか」
カルラかもしれないЭという少女は、その後一体どうなったのか。アレクはコルレルは首を傾げ、ニコライに質問を押し付けた。
「事前に逃がしたって話は聞いてねえ。連中がお前に飛びついたのを見ると、案外本当に死んでるのかもな」
そうか。なら少しはマシなのかな。アレクが話を流そうとしたそのとき、背後で診察室の扉が開き、不揃いな悲鳴が上がった。




