エッシャーの城>>黎明>>5
水しぶきを振りまきながらアレクが表に出てくると、エカチェリーナが赤いペイズリーのハンカチを貸してくれた。
「服以外は何も持って来れなかったでしょ? それ、良かったら使ってね」
ありがとう。チノパンのポケットにハンカチを押し込むと、ハンカチの向こうにキーホルダーの固い手応えがあった。これはもう、記念品にしかならないだろう。アレクは何もなかったように微笑み返し、エカチェリーナについて歩き出した。
「これは、どこに向かってるんだ?」
アレクが訊ねるまでもなく、エカチェリーナは両開きの扉の前で立ち止まった。随分と大きいが、脇にボタンが付いているということはエレベーターなのだろう。
「まずは親方に顔見世だな。観光案内という訳にはいかないさ」
尖った顎をさすりながら、バトゥは肩をすくめて見せた。
「親方?」
ボタンの光が消え、エレベーターの扉が壁に吸い込まれた。エレベーターの中はアレクの部屋よりも広く、4人が操作パネルの周りになんとなく集まると妙に寂れた眺めになってしまう。塗装もされていないステンレスの壁は白熱灯に赤く照らし出され、アレク達の顔も微かな熱に上せて見えた。
「コーリャのことよ。このアジトのボスで、私達が軍隊にいたころからの仲間」
ワゴンの中で話した時、エカチェリーナは城目当てで助けたことを隠そうともしなかった。ボスに偵察だの監視だの協力を求められたとき、果たしてアレクには断ることが出来るだろうか。アレクはわざと瞼を下げ、髪をいじりながらたるんだ声で答えた。
「それもそうか。そうだな。挨拶はしておかないと」
しばらくして、不意にアレクの足から体の重みが抜けた。エレベーターが上に着いたらしい。ステンレスの扉が開き目の前に現れたのは、白熱灯の灯りに染まったオレンジ色の街並みだった。
「広い……中に街が?」
くりぬいた岩盤にタコヤキ屋や美容院が収まり、薄暗いトンネルの中で色とりどりの看板が喚いている。エレベーターの中で立ち尽くすアレクを見て、エカチェリーナは軽く笑った。
「坑道を広げて、道の両側に店舗を埋め込んであるの。少しずつ下りながら、一番下までずっと続いてるのよ」
夕焼け色の坂道は買い物する人々でにぎわい、ゴーダチーズや革鞄、燃えるガスや汗の入り混じったけばけばしい匂いで溢れかえっている。
「後で案内してやんよ。逮捕されてから、どうせ何も食ってねぇんだろ」
レフはアレクの首を抱き、反対の手で小さなカフェを指さした。一枚板のガラス戸には向かいのネオンが映り込み、店内の人影に被さっている。
「ちなみにあれがレフ様御用達のカフェテリアだ。ウェイトレスの女の子がかわいいこと以外は月並みだけどな」
気さくといえば聞こえはいいが、些か馴れ馴れしい男だ。アレクがレフの手を振りほどこうとすると、4人の後ろでガラスの割れる音がした。
「この野郎! やっぱり具をケチってやがったか! どうもおかしいと思ったら、タコの代わりにミノを入れてやがった!」
さっきのタコヤキ屋だ。タンクトップの大男が東洋人の店主に怒鳴りかかっている。穏やかとは言えないやり取りを人々は素知らぬ顔で通り過ぎ、地面に吐き捨てられた牛ミノを踏みつけ、蹴り飛ばしていった。
「なあ、アイツ、おかしくないか? なんで誰も病院に連れて行かなかったんだ?」
埃だらけになった牛ミノに一瞥をくれ、アレクはレフに尋ねた。あんな獣じみた男が世の中にいようとは、まさか神でも思いつくまい。あの男には、今すぐにでも治療が必要だ。
「病院? なんだそりゃ?」
レフは締まりなく口を開けっぱなし、首を傾げながらアレクの事をまじまじと見つめた。
「街の連中は、骨抜きにされるためにわざわざ病院通いするのさ。それが憂いなく人生を楽しむための秘訣ってわけだ」
目を白黒させるばかりのアレクに代わって、バトゥがレフの問いに答えた。
「うへぇ、イカレてるな」
まだタコヤキ屋の喧嘩は続いていたらしい。大男が悲鳴を上げ、坑道にどよめきが滾った。見れば、大男の右手に大振りなピックが突き刺さっているではないか。タコヤキ屋もタコヤキ屋でえげつないことをする。タコヤキ屋が具材を誤魔化したのが先であることを思えば、大男の方がいくらか弁護の余地があるかもしれない。
「そんな……って、普通だろ? おかしいのはお前達じゃないか」
客を騙したり、意趣返しに来たり、それを返り討ちにするなんて、既に十分病的だ。アレクはレフを突き放し、ひきつった声を張り上げたが、返ってきたのはため息混じりの説教だった。
「あれくらいの事で一々目くじら立ててたんじゃ、お前この先やってけないぜ」
アレクはこの先、こんな地獄との国境係争地でやって行かなければならないのだ。歩き出したレフの後ろを、アレクは覚束ない足取りで追いかけた。




