エッシャーの城>>黎明>>2
エカチェリーナは席に戻り、夜明けを纏った尾根を見やった。冷たい熱を抱いた鋭く真っ直ぐな眼差しで。人を撃つのも街を壊すのも、みんな世のため人の為。思い上がった言い訳に、アレクは上目づかいで噛み付いた。
「でも、それなら――それこそあんな嫌がらせみたいなことで、世の中が元に戻ると思ってるのか?」
エカチェリーナが振り返ると、カールのかかった前髪が大きく揺れた。
「そこまでは望んだりしないわ。でも、聞いて。ユレシュのプランには――」
アレクはエカチェリーナを遮り、沈んだ声を濁った陰に吐き捨てた。
「俺はあそこで、ちゃんと幸せに生きてた……あんた達が来なければ、俺の頭はおかしくならなかった、俺はまだあそこにいられたんだ……」
鳶の声に打ちのめされて頭を垂れたアレクの肩に、バトゥが声をかけた。
「ユレシュの計画には、まだ続きがあった。奴は全ての人間の考えを監視して、そのまま『修正』できる方法があると言い出した。その鍵を握っていたのが、『エッシャーの城』と呼ばれたプロジェクトだ。今となっては眉唾もんだがな」
その名前が再び出ても、アレクは渋い顔のまま押し黙っていた。二人が何を知っていたとしても、一々応えてやる必要はない。
「こいつは党内でも総スカンを食らった。党の教育プログラムを免れた連中、腹にイチモツを抱えた天使階級の人間にとって、それは自分たちの特権を手放すに等しいことだった。結果、奴は飼い主のイブレフスキに殺された――ということになってる」
高架が終わり、道路は稜線に向かって再び坂を登り始めた。低木もまばらな山肌をワゴンの影が滑ってゆく。
「でもね。私達はそれがカモフラージュなんじゃないかって疑ってるの。ユレシュは見えないところで、まだ研究を続けてるんじゃないかって……今でもソ連中で、目的不明のロボトミーが行われているから」
そうだ。
赤みの差した山際をつぶさに見守るアレクの前を、いくつもの影が通り過ぎた。ユレシュの野望、エッシャーの城、それを食い止めようとする人々。映画の中のミニチュアでしか、そんなものは見たことがない。
「ユレシュ達のプロジェクトを放っておけば、いつか私達の残された暮らしも終わってしまう。街で暮らしている人々の暮らしも、きっと……誰もユレシュを止められなくなるわ」
アレクが重い頭を上げると、そこにはエカチェリーナの厳かな眼差しがあった。
「事故の経緯は調べた。俺達のせいだってことも。だが、お前は知っちまった、もう夢の中には戻れない。そうだろ?」
アレクはポケットの中で残ったキーホルダーを握りしめ、渋々頷いた。知ってしまったことを元に戻すことは出来ない。アレクはそれを知らずに、確かめようとしてしまったのだ。あの霧の奥に、一体何が眠っていたのかを。
「なるしかないんだな。あんた達の、仲間に」
おう、結構楽しいぜ。バトゥは歯をむき出しにして笑った。一度は唇を結んだものの、気がつけばアレクもつられて唇をゆがめている。
「ほら、夜が明けるわ」
エカチェリーナは窓から手を出し、向かいの尾根に向かって伸ばした。山々の間からは力強い光が漏れ出し、白くまどろむ空を穏やかに炙っている。
「……綺麗」
眩しさに目を細めながら、アレクはオレンジ色の朝焼けを見守った。肌からしみ込んだ太陽の熱は、血潮に乗ってくたびれた身体を巡っている。アレクはまだ生きた体がある。先は思いやられるが、悪夢の夜は終わったのだ。
「私達のこと、ちょっとは分かってもらえた?」
少しだけ振り返り、エカチェリーナが笑いかけた。アレクにはまだ真実を確かめる術がない。分かっているのは、この世界の殆どはアレクが見たことのない物で出来ていて、見えているものにすっかり覆い隠されている、ということだけ。
「まあ、少しくらいは」
アレクは朝日を見つめたまま、曖昧な返事で濁した。




