エッシャーの城>>接触>>7
「今のは、一体……」
額に大粒の汗を浮かべかすれた息を吐きながら、アレクはぼやけた眼差しをカルラに向けた。あの工場は、怪物は、本当にこの城の一部なのだろうか。カルラは扉を見やり、腕まくりをした手でそっと撫でた。
「アレクさんが見たのは、この扉と繋がっている他の誰かの意識です……大方悪夢にでも巻き込まれたのでしょう。この時間には、寝ている人が殆どですから」
カルラの眼差しは、影の中で重く輝いている。忠告に背いたのだから、当たり前といえば当たり前だ。アレクは口ごたえを脇にのけ、素直に白状することにした。
「すいません。どうしても中が気になって……」
誘惑に負けたせいで酷い目に遭ったかと思いきや、どうも取り越し苦労だったらしい。たるみきった笑顔からは底抜けに明るい声が出た。
「でもよかった。人の夢でしたか……他の人は、どんな夢を見てるんでしょうね」
問題児が目を輝かせていたのでは、カルラも厳かなままではいられない。
「あなたという人は……どうしてそう……止めていただけませんか、興味本位で悩みの種を増やすのは」
額をドアに押し付け、カルラは泣き言と恨み言のごった煮を垂れ流した。
「そもそもなぜ霧の中を引き返そうと思ったのですか? 素直に帰ればよかったものを」
カルラは俯いたまま、アレクを再び横眼で睨んだ。思いのほか太い眉が黒髪の下からのぞいている。広間から差し込む光を受け、アレクはやけに明るい声で答えた。
「霧の中から出る時に風上に行けって言われたから、逆に風下に行ったらどうなるのか気になったんです。そこにいけば、ほら、天使様ともこうして会えたわけだし」
興味本位という指摘は、正に大当たりだったというわけだ。カルラは青白いため息をつき、それからアレクの前に立ちはだかった。
「……何がまずいのか、もうお分かりですね?」
ええ、まあ。アレクは少しずつ後ずさり、ワークブーツが石を擦る、狭苦しい音がした。背中から光を受け、白衣の輪郭が熾って見える。
「他人の考えてることが分かったら、まあ、悪事に役立ちそうですよね」
アレクの脇に冷たいものが触った。
「そう、だから城に出入りする人間は少ないほどいいんです」
アレクはあっという間に窓際まで追い詰められ、もうどこにも逃げ場がない。
「そして、それを知っている人間も――特にあなたのような軽率な人が勘付けば、方々で言いふらすのは目に見えています」
カルラの険しいまなざしから両手で体を庇いながら、アレクは恐る恐るカルラを窺った。
「あの、実はもう一つ……謝らないといけないことがあるんですけど」
誰ですか。カルラは淡々と聞き返したが、アレクの答えを聞いて僅かに目を剥いた。
「主治医のピョートル先生です。変な夢を見るようになったのも、脳味噌が縮み続けてる証拠かもしれないし、先生なら何か知ってると思ったんですよ」
本当に知っていたとしたら、それこそもう手遅れである。カルラは深く項垂れ、重い頭を左手で額を支え、息を整えてから訊ねた。
「それで、彼は何と?」
アレクは曖昧に口を動かしたが、やがて観念しひきつった笑いを浮かべた。
「大学時代の先生に聞いてみるそうです」
二人は目を見合わせ、焼けただれたため息を吐き出した。どんよりと濁った静けさに、細い廊下が沈んでゆく。
「……よりにもよって、考え得る最悪の相手に相談してくれましたね」
とにかく。カルラは人差し指をアレクに突き付けた。
「この次に会った時は、是が非でも誤魔化してください。それでだめなら――」
アレクはすっかり剣幕に押されて、首を縦に振ることしかできない。
「それでだめなら、私からも手を回してみます」
アレクが城に出入りしていることは、何が何でも隠し通さなければならない。今後の方針が決まったところで、この日の密会はお開きとなった。
数日後、とうとう再診の日がやって来た。ピョートルの恩師とやらは、彼に何を教えたのだろうか。アレクは両手で頬を叩き、外来の受付に向かった。前の患者が長引いているのか、アレクはロビーでしばらく待たされたが、やがて診察室からの連絡があり、アレクは直接レントゲンを撮りに行くことになった。
「大丈夫。今回も委縮の進行は認められません」
血の気のない光を放つシャウカステンに写真を張り付け、ピョートルは穏やかな笑顔で頷いた。
「よかった。これでやっと安心して眠れます」
ついでにピョートルが夢の話を忘れていてくれれば完璧だ。アレクはそそくさと立ち上がろうとしたが、そう簡単に見逃してはもらえなかった。
「ですが、まだ油断してはいけませんよ。脳はデリケートな部位ですから、レントゲンでは発見できないところで致命的な問題が発生しているということもあります」
ピョートルは人差し指を軽く振り、それからアレクの目を覗き込んだ。決して声を荒げたりはしないものの、ピョートルの押し付けた静けさには冷たい居心地の悪さがある。
「いかがですか、アレクさん。例の夢はまだ頻繁に見ますか? もしなくならないようでしたら、それ自体が何かの兆候である可能性が高い。念のため、専門の研究機関で一度本格的な検査を受けることをお勧めしますよ」
手続きは、私がやっておきますから。ピョートルの目じりに深いしわが刻まれ、アレクのこめかみを冷たい汗が流れた。会話に入った小さな裂け目を冷媒の音だけが流れてゆく。アレクは目が泳がないようじっとピョートルを見つめ、出来る限りさりげなく答えた。
「いえ、あれきり一度も見ませんでした。ただの夢だったのかもしれません」
ピョートルは笑顔のまま頷くと、書類をまとめて軽く叩き、ぴったりと角をそろえた。
「それはなにより。もう再診の必要はありませんが、異常を感じたときは、面倒くさがらず、すぐ見せに来てください」
何とか誤魔化し通せただろうか。急いで立ち上がったせいでパイプ椅子に膝の裏が引っ掛かかり、やけに安っぽい音がした。
「本日は、どうもありがとうございました」
最後の最後にボロが飛び出してしまった。剥がれ落ちた微笑みを張り直す事さえできず、アレクはピョートルの顔を見つめたが、ピョートルの柔らかな笑顔には些かのしこりもない。ピョートルはただそのままの顔で空を眺め、天気を報せただけだった。
「日暮れまでに一雨来そうですね。少し急いだ方が良いでしょう」
言われずとも急ぐに決まっている。案外ピョートルは、察しの悪い男なのかもしれない。
「本当ですか? いや、参ったなぁ」
アレクは勧めに従い真っ直ぐ寮に戻ったが、バスに乗っている間に天気がぐずつきはじめ、バス停から玄関まで、十秒そこそこ降られることになった。果たしてピョートルは、カルラの言う『城を利用しようとしている連中』と繋がっていたのだろうか。それとも本当に老婆心で検査を進めてくれただけなのか。今となっては彼の本心など知る由もない。いずれにせよ深入りを無事に避けられたことに変わりはなく、アレクが気を付けていればもう目をつけられることもないだろう。夕食の後、アレクはユーゴ達より長く風呂場に居座り、束の間の平和を味わった。
なかなか心臓に悪い一日だったが、過ぎてしまえばあっけないものだ。首にタオルをかけ、スウェットのポケットに手を突っ込んだまま、アレクはたるんだ足取りで階段を上ったが、廊下の人影をにめて生唾を呑みこんだ。
部屋の前に、見覚えのある男が立っている。この暑い中スーツを着ているのは、よもやアレクをパーティーに誘うためではあるまい。男はアレクに気付くと、タバコをポケット灰皿に押し込みこちらに近づいて来た。
「夜分遅くにすみません。アフトダローガ署の者ですが、ご同行願えますか?」
見間違えるはずもない、それはアレクが病院で出会った山高帽の刑事だった。