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エッシャーの城>>接触>>6

 その夜眠りについた後、気がつくとまたあの廊下に立っていた。アレクはぶらぶらと散歩を始めたが、昼間城の事を話してしまった事を思い出し、自ずと中庭からは足が遠ざかってしまう。適当に城の中をうろつき、結局アレクは特に何をするでもなく自分の扉まで戻ってきてしまった。次の日も、そのまた次の日も、カルラに会いに行けぬままアレクは散策で時間をつぶした。

 城の中を散策していると、嫌でも扉が目についてしまう。所々に並んでいる部屋の扉を見かけるたび、アレクは立ち止まり、あるいは道を引き返して扉をしげしげと眺めたりした。カルラは絶対開けるなと言ったが、あの中には何があるのだろうか。黄色がかったクルミ材に飾り気のない真鍮の取っ手と、アレクの扉と変わらないどころか、全く同じものに見える。アレクの扉があるということはカルラの扉は別にあるわけで、あの扉からも、誰かがここにやってくるのかもしれない。アレクがまだ居合わせていないだけで、知らない人間が出入りしていたとしても、何もおかしい事はないのだ。

 一方、目が覚めてみると身体の方はちゃっかり睡眠をとっているらしい。仕事中にポカをやらかすこともなくなり、調子が戻ってきたのを見てユーゴはアレクをバスケに誘ってくれた。暫く大事を取ってコートから遠ざかっていたせいか、なかなかカンは戻ってこない。手すきの相手をマークするのに精一杯で、あっという間に息が切れてしまった。 

「鈍ってるねぇ、アレク君」

 ユーゴは歯を見せてにやにやと笑った。苦し紛れに押し付けられたバックパスを受け取って3人抜きのダンクを決めたばかりであるにも関わらず、少しも息が上がっていない。

「リハビリだからな……まあ、こんな、もんだろ」

 途切れ途切れの強がりに、ユーゴは風通しのよい笑いを返した。

「からかい甲斐のない奴め……ヤコブたちは続けるらしいけど、どうする? こんなもんにしときます?」

 アレクは膝に手をついて立ち上がり、一つ大きな息を吐き出すと、金網越しのアムール川に一瞥をくれた。夕日にきらめくアムール川を、小さな貨物船が下ってゆく。小型船はハバロフスクと下流の街を往復するものがほとんどだが、中には外海に出てゆく船もあるらしい。

「ああ、これくらいにしておくよ。暫く無理は禁物だな」

 ユーゴはアレクの肩を叩き、駅に向かう後姿を浮かない顔で見送った。検査の結果は異状なしでも、次の発作がいつ起こるかはわからない。元通りにプレーできる日は、果たしてやってくるのだろうか。


 アレクは夕食後部屋に戻ってくると、そのままシャワーを浴び、髪も乾かないうちに横になった。体が疲れていたせいであっという間に眠りに落ち、気がついた時にはあのドアの前に立っていた。今までは思いつきもしなかったが、ずっと待っていれば、そのうち誰かがここから出てくるかもしれない。アレクは廊下を出たところの長椅子に寝転がり、夢の中で昼寝を始めた。

 目を閉じ、ざっくりとした麻布の肌触りに身を任せながら、一時間、二時間、三時間。それとなく聞き耳を立てていたものの、ドアの閉まる音どころか、ノブの回る音さえ鳴る気配がない。寝返りを打ったアレクの目の前では、チェッカー模様が入った床が身じろぎ一つせずに畏まっている。

 時計などないので正確な時間は分からないが、外ではもう夜が明けているのではないか。アレクは生欠伸とともに起き上がり、廊下につながるアーチをくぐった。左側の一番手前がアレクの扉、それ以外の5つは他人の扉なのだろう。自分の扉の中に入ると夢から覚めるのは分かっているが、他の扉の内側で、一体何がアレクを待ち受けているのだろうか。誰かが中にいるかもしれない。他人として目覚めるのかもしれない。そもそも他人の扉などというものはなく、さらなる迷宮が広がっているだけなのかもしれない。そのとき果たして、アレクはここに、そして現実に戻ってくることが出来るだろうか。

 だが、全ての答えは、この扉の中にある。アレクは生唾を呑みこみ、ドアノブに震える手を伸ばした。ノブから伝わる冷たい重みはアレクの手を強く捉え、放そうにも放せない。

簡単なことではないか。この扉を開けさえすれば、全てが分かるのだ。この城の持つ秘密も、カルラがそれを禁じた理由も。汗に濡れた掌がゆっくりとノブを傾け、謎のはらわたに突き刺さる、小さく、そして取り返しの付かない音がした。


 部屋の中は、暗闇に満たされている。中から何かが出てくるでもなく、アレクに何かが起こるでもなく、釘を刺されていた割には味気ない結末だ。アレクは浅いため息をつき、つなぎのポケットに手を突っ込むと、何気なく足を踏み入れた。焼けついた寒気の渦巻く、おののきのただ中に。

「奴が来る、追いつかれる!」

 アレクは息せき切って工場の中を走っていた。肺の中の息は焼けつき、心臓が肋骨の中で暴れている。靴のつま先にぶつかる小指が踏み出すたびにひりひりと痛んだ。安っぽい光を放つパイプの間を伝って来るのは、反吐の混じったうめき声と粘液に濡れた足音だ。

このままでは妻のように、あのモップもどきの餌にされてしまう。

「誰か! 誰か助けてくれ!」

 触手に埋もれた二つの目を爛々と輝かせ、怪物はアレクを追いかけた。一体何がどうなっているのか。これが扉の中だというなら、出口はどこにあるのだろう。そんなものを探す余裕がある筈もなく、パイプとメーターと青白いフットライトが後ろに流れ去ってゆく。

 手足が引き千切れんばかりにひた走るうち、不意に狭い通路が途切れ、アレクは広い部屋に転がり出た。二列に並んだタンクの中では黄緑色に光る液が撹拌されているらしいが、今のアレクにとって重要なのは、ここが行き止まりであるという一点だけだ。

「目を閉じて、手足をゆっくりと伸ばしてください」

 カルラの声だ。アレクは部屋の中を見渡そうとしたが、体は勝手にタラップの下へと駆け出している。この身体を、一体誰が動かしているのだろう。

「アレクさん、目を閉じてください。手足を伸ばして、指先に意識を集中して」

 ところが、アレクには目を閉じることさえ出来なかった。身体はひたすら屋上目指してタラップを上り続け、モップもどきは建屋の壁を喚きながら叩いている。金縛りを解くために、アレクはせわしなく動く手足を強引に押しとどめた。止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ。しつこく念じた甲斐あって手足から魂だけが抜け出し、手先の感覚は宙を彷徨っている。

「あと一息です。自分の身体を意識して、思い出してください!」

 梯子を上る身体の外側に、アレクは自分の身体をイメージした。そう、この身体は、アレクの物ではない。アレクが持っているはずの身体が記憶の中に蘇り、漂っていた魂をつなぎとめたそのとき、アレクは既に扉の前に立っていた。


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