エッシャーの城>>接触>>5
「あ、あんたは……」
アレクが目を見開き、唇をわななかせているのを見て、カルラは薄く笑みを浮かべた。間違いない。霧の中で聞いた声は、この女の物なのだ。
「あのとき俺を助けてくれたのは、あんただった……ですか?」
いつの間にか風は止み、木立ちがじっと息を潜めている。底の見えない笑顔から何かを読み取ろうとしてアレクが静かに見つめる中、カルラは両手を腰の高さでそっと小さく広げて見せた。
「同じくユレシュ様に仕えるものとして、当然のことをしたまでです。何も気にすることはありません」
聞き慣れない名前に、アレクは小さく眉を寄せた。係長の名前はレフで、課長は確かウラディミル、部長以上は良く知らないが、果たしてユレシュという男はいただろうか。それどころかカルラは研究医だった筈で、府からして同じ筈が無い。ぐらついた静けさにまかれて、アレクは苦し紛れに白状した。
「すいません、俺はその、ユレシュって人とお会いしたことすらないんですけど……やっぱ、偉い人なんですか?」
アレクが目を泳がせながらちらちらとカルラの表情を伺っていると、カルラは青ざめたため息をつき、芝の上にへたり込んでしまった。広がった白衣から、青いチュニックと白い膝が飛び出している。
「そ、そんなにがっかりしなくても」
落ち込んだのを隠しもしないカルラの仕草に耐えかねてアレクは小さくこぼしたが、それに答えたカルラの言葉は更に信じ難い物だった。
「よかった、彼とは無関係だったのですね」
かろうじて分かるのは、どうやらこれが良い方の人違いらしいということだけ。カルラの隣に腰を下ろし、アレクは素直に訊ねてみた。
「それで、何が起こってるんですか? この夢の中では」
何もおかしなことは言っていないのに、カルラは間の抜けた顔でアレクを見つめ返した。カルラは東洋系なのか、あどけなさの残るほっそりした顔をしている。
「夢……そうですね。確かにこれは夢ですが……危険な夢です。あなたにとっては、恐らく。ましてこの夢を見たことが党に知られれば、むごい結末を迎えることになるでしょう。この夢を見たことは、絶対に誰にも話さないでください」
カルラは影の中に目を落とし、彫りの浅い顔が陰に沈んだ。
「むごい? でも党ですよ。ちゃんと丸く収めてくれるでしょ」
笑うアレクの目をまっすぐに見つめ、カルラは鋭い釘を刺した。
「党の中には、己の野心のためにエッシャーの城を利用しようとしている者達がいるのです。この城に入り込むためなら、彼らは手段を選ばないでしょう。それこそ、あなたのことを解剖してでも」
アレクはあまりの険しさにたじろいだ。
「で、でも、天使様がそんな……」
神に遣わされた天使に、悪だくみなどありえない。そしてそれは、嘘でも同じことだ。目の前にいる怪しげな天使を見つめ、アレクはわずかに後ずさった。
「ああ、もう……では天使として命じます。この夢のことは胸の内にしまい込み、決して誰にも話さぬように」
天使の手首には、赤いブレスレットが厳めしく輝いている。少し間を置いて、アレクは渋々頷いた。
「分かりました。この夢のことは、秘密にしておきます」
柔らかな風がそよぎ、瑞々しい輝きが刈り込まれた芝を撫でた。
「分かって頂けて、安心しました。私の名前はカルラ。この城に出入りしていれば、またお会いすることもあるでしょう」
カルラが僅かにほほ笑んだ気がして、アレクも笑顔を返してみせた。
「アレクです。宜しくついでにお聞きしたいことがあるのですが、構いませんか」
ええ。カルラにうながされて、アレクは胸をなで下ろした。カルラなら、帰り方も心得ているだろう。
「霧の中に帰る方法をご存じありませんか? 俺、帰り方が分からなくって」
ああ。カルラは小さく声を上げた。
「あなたが霧と呼ぶのは、この城の不完全な姿です。以前と同じように、風の音を辿って下さい。そうすれば、あなたの扉が見つかるはずです」
風の音は分かるが、アレクの扉とは何だろう。出口に辿り着くのではなかったのか。
「俺の? この城の中に、俺の部屋があるんですか?」
アレクは掌を返し、ほどけた顔でカルラに尋ねた。
「あなたのうつつが、そこにあります。入ってみれば、分かるでしょうが……ただし、他の扉は絶対に開けてはなりません。約束していただけますか?」
カルラの纏う静けさには、計り知れない凄みがある。アレクは何も問い返す事が出来ずに、すごすごと退散した。
「はい、必ず……ご親切に、どうもありがとうございました」
それでは、ごきげんよう。涼しく、平らなカルラの挨拶に追い立てられ、アレクは来た道を引き返した。幸い風の音は直ぐに見つかりアレクはいつものように風の音を辿り始めたが、そこから先は一筋縄ではいかない。目に見えている出入り口を目指すにも、反り返った床を歩き、或は回り道をして正しい向きで戻ってこなければならないのだ。階段を上るにも向きを間違え、堂々巡りを繰り返した末、漸くアレクは一本の短い廊下に辿り着いた。
廊下の突当りには窓があり、左右に三つずつ扉がある。閉まっているにもかかわらず風が少しずつ漏れ出しているのは、左側にある一番手前の扉だ。アレクは素直に扉を開け、中から勢い良く風が噴き出した。温かく、懐かしい匂いがする、柔らかい風。頬を撫でる風が通り過ぎ、アレクが気付いたその時には、そこはもう、寮の自室だった。
翌朝、アレクは再び大学病院を訪れた。テルミンは大丈夫だと言っていたが、知らぬ間に脳が萎んでしまってはたまらない。念願のレントゲンには委縮の進行が認められず、検査の結果も良好だとピョートルは太鼓判を押してくれた。
「いかがです? 発作以降、何か変わったことはありませんでしたか?」
変わったことも何も、信じがたいことばかりだ。霧の夢、鏡の多面体、宙に浮かんだ巨大な城塞、白衣の女と、城を利用しようとする連中。窓の外からかすかに聞こえる風の音に巻き上げられ、いくつもの答えが宙を舞った。
『酷い結末を迎えることになるでしょう』
カルラの声が耳元によみがえり、アレクは体をこわばらせた。あれはただの夢なのか、それとも本当に起こったことなのか。脳の損傷と、何かしらの関係があるのではないか。病棟に吹き付ける風の音はいよいよ激しく、幾重にも折り重なってゆく。張りつめた表情で押し黙るアレクに、ピョートルは優しく語り掛けた。
「大丈夫。私はアレクさんの味方です。私が力になれる事があるなら、何でも相談してください」
一応この界隈では、腕利きで通っていますからね。ピョートルはおどけて力こぶを作ってみせた。この医師なら、アレクを悪いようにもするまい。風の音はさらに強まり、とうとうアレクの口をこじ開けてしまった。
「夢を……見たんです。宙に浮かんだ城の夢を。そこでは上下左右がめちゃくちゃに入り組んでいて……まるで向きの違う城同士を混ぜ合わせたみたいに。俺はその中を、出口を求めてさまよっているんです」
上目づかいで恐る恐るピョートルを窺うと、この天使は存外難しい顔をしていた。
「城ですか……ふむ。夢の解釈は私の専門ではありませんが、学生時代に教授から似たような話を聞いた覚えがあります。機を見計らって、一度問い合わせてみましょう」
いつの間にか、窓を横殴りの雨が流れている。アレクはピョートルに傘を貸してもらい、再診の際返しに来ることに決まった。