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エッシャーの城>>接触>>4

 其の日の夜、アレクはまた霧の夢を見た。未だに夢に見るとは、悪魔の声はそんなに恐ろしいものだったのだろうか。アレクは果てしない霧の奥を見つめ、それから頭を振って歩き出した。悪魔のことなど考えてはならない。ただ、ここから抜け出す事を考えるのだ。

「風上に、風の音が聞こえる方に……」

 呟きながら、アレクはふと足を止めた。出口を教えてくれたのは、他ならぬ悪魔の声ではなかったか。悪魔ならば、なぜアレクを助けたのか。本当は、あれこそ主の導きではなかったのか。目の前の分厚い霧はあらゆる答えを覆い隠し、生暖かい静けさで踏み込むものを退ける。

 胸の奥に刻まれた鮮やかな女の声が、風の中に織り込まれるのをアレクはじっと待っていた。霧の深みに隠れ住むアレクを助けた声の主は、一体どこに居るのだろう。いくら耳をそばだてても声が聞こえることはなく、肩を落として風の音を遡ろうと歩き出したときだった。アレクはやにわに踵を返し、風の向かう先を目指して息せき切って駆け出したのだ。

 風上が上がりなら、風下は振出しだ。閃きは強かにアレクを深みへ弾き出し、まだ見ぬ声の正体目がけてアレクは真っ直ぐ落ちて行く。折り目のない霧の帳は軋む手足にまとわりついたが、アレクはそれを振り払いがむしゃらに走り続けた。止まることを忘れた体は力の限り前へ、前へ。暴れ狂う風切り音が擦り切れた息を剥ぎ取り、筋肉に振り回された骨がばらけそうになっても、益々アレクは歩幅を広げ謎の答えに引き寄せられた。あの時とは比べ物にならない速さで、アレクがこちらへ近づいてくる。今度は声が止める間もなく中心に辿り着き、立ち込める霧の中、アレクはとうとう私を見つけた。

「おーい!」

 霧の中から近づいてくる人影に叫びかけたが、人影は何も答えず、ただその姿だけが次第にはっきりと見えてきた。つなぎを着た目つきの悪いやせ気味のロシア人。散々走らされた挙句にアレクが初めて見つけたのは、まぎれもない自分の姿だったのだ。

「これは……俺?」

 アレクが己の形に向き合いその形を知ったとき、深い霧に閉ざされていた世界が大きく眼を開いた。三角形の大きな鏡に映ったアレクの背後には、切り抜かれた青空と大きな白いアーチが見える。アレクは目を白黒させもと来た道を振り返り、そして気付いたのだった。自分を取り巻くものが、法線の入り乱れた広大な城塞であるということに。

 回廊の手すりから大きく身を乗り出して、アレクは空に浮かぶ城を見上げた。青い屋根が四方に突き出し、歪んだ壁が繋がった、巨大な城のパッチワーク。壁面を走る階段は踊場で交錯し、ねじ曲った尖塔や渡り廊下が別の城につながっている。そのうちの一本が、この回廊にもつながっているようだ。城につながる階段を目指し、アレクは回廊を歩き出した。

 回廊の外にかかったアーチの影をくぐりながら、アレクは髪を掻き毟り、低いうなり声を上げた。アレクが走ってきた道は、決してこんな形ではない。人気がないのは相変わらずで、ワークブーツで床を擦るふてくされた音だけが、回廊にこだまする。今度は無事、帰り道を見つけられるだろうか。階段を上る途中でアレクは後ろを振り返り、漸く回廊の形を知った。回廊を囲むアーチは、別の回廊だったのだ。横向きに突き出した城塞の尖塔がお飾りでないならば、あの回廊も歩いて渡れるものなのだろう。回廊の渾天儀が内側に抱いているのは鏡で出来た八面体で、先ほどアレクが見た鏡はあのうちの一面ということになる。よく景色を覚えてからアレクは再び歩き出し、城門をくぐった。

 見てくれに負けず劣らず、城の中庭はでたらめだった。奥の方に行くにつれて石畳は反り上がり、垂直にそそり立つ石畳を貫いて、手すりのついた大階段が真っ直ぐに伸びている。

床の上に開いた窓を踏み抜かぬようよけて歩き、アレクは大階段に辿り着いた。床まで繋がっているのは階段の左半分だけで右半分は途中で途切れ、そのさらに右側には大階段と交差するもう一本の細い階段が伸び、石畳に影を落としている。ただ手すりだけは途切れた階段の先に突き出しており、垂れ下がった手すりの先が細い方の階段の裏側に続いて、これではまるでマジックハウスだ。アレクは首をかしげたが、階段の裏側を目で追いその先に答えを見つけた。細い階段の裏側に見えたものは、城門の中の詰所に繋がる別の階段だったのだ。大階段の左半分が手前から奥に上っているのに対して、右半分は奥から手前に向かって上っている。アレクはどうやら、デタラメに繋ぎ足したあべこべな迷路の中にいるらしい。

 ねじれて互い違いになった通路の上を歩いていると、現在地どころではなく、進んでいる方向さえも分からなくなってくる。城の外から見ているのとは、全くもって勝手が違う。脇の下に嫌な汗をかきながら、アレクは見えない出口を求めて破綻した迷路の中を彷徨った。

「くそ、また同じ広間か……」

 つなぎの袖で額をぬぐい、アレクは歪な吹き抜けを見上げた。何本もの階段が空中で絡み合い、波打った壁と床が所々で入れ替わる。この広間に戻ってくるのもこれで一体何度目か。分かれ道を通り過ぎ、螺旋階段を上る度、見えない過ちが積み重なり、疲れがたまったはずの足をしつこく急き立て追い回す。吹き抜けを横切る階段を渡って壁の上に乗り移り、広間の入り口まで戻ってみると、階段から途中で逸れる細い通路が見つかった。通路は階段の下をくぐり、壁伝いに外へつながり、柱のあるポーチからは温かな光が差し込んでいる。

「外か?」

 暗がりになれた目には外の光がきつく沁みたが、それでもアレクは引き寄せられ、いつの間にか息せき切ってひたむきに走り出していた。このいかれた迷宮も、これでようやく打ち止めだ。光の中へ飛び出したアレクが見つけ出したのは、しかし、夢の出口などではなかった。木漏れ日と葉擦れが溢れツツジの薫る庭園に、人影がたたずんでいる。夢の中で初めで出会う他人を前に立ち尽くしていると、やがて人影は芝生を踏みしめアレクへと歩み寄った。

「ようこそ、エッシャーの城へ。あなたの事を待っていました」

 木漏れ日を潜り抜け現れた女を見て、アレクは言葉を失った。アレクに話しかけたのは、白衣をまとった黒髪の天使、病院でカルラと呼ばれた女だったのだ。 


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