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エッシャーの城>>報酬>>6

 着替えもせず横になり毛布を被ってみたものの、寝返りを打つばかりで眠気が全く湧いてこない。耳の奥に、まだ薄紅色の囁きが染みついている。甘く、恐ろしい声音だった。いとも容易く、死を選ばせてしまえるほどに。

 諦めて起き上がると、アレクは冷蔵庫に残った水を飲み干し、それから壁に寄りかかった。コルレルに教わった安眠用の呼吸法は、座った方がやりやすい。仄かな壁の冷たさ。緩んでいく瞼。穏やかに打ち寄せる鼓動。目を瞑って息を数えるうちに、アレクの周りは石造りの廊下になっていた。後はカルラの顔を見れば、幾らか気も鎮まるだろう。

「カルラ様?」

 ところが、中庭にカルラの姿はなかった。まだ眠っていないのか、既に目覚めてしまったのか。パーティーと不眠のせいで、今が一体何時なのかまるで見当が付かない。ただ待つのも勿体なく、アレクは一足先に作戦の成果を確かめることにした。

 白い宮殿の、屋上から降りてすぐの広間。入口から見て一番奥の階段がイポリートの扉に繋がっている。養護センターの実態が明らかになり、今頃頭を抱えているはずだ。オレンジ色の扉を開くと、次第に穏やかなランプの明かりが見えて来た。

 窓の上に映っているのは、和紙でできたランプシェードと透き通った自分の影。残りはささやかなウッドデッキと、一面のベーリング海だ。自分の顔に見覚えがない。これがあのイポリート姿か。青みを残す宵の海に翻る満月を、イポリートは溜め息とともに見つめた。この眺めを、本当に目にする日が来ようとは。リビングの窓からは、領内で一番早い朝日が見えるように。一生使うことはないと高をくくっていなければ、あれほど熱を上げはしなかった。あの頃思い描いた通り窓際で安楽椅子に揺られていても、何の感慨も浮かんでこないのがその証拠だ。

 体が、嫌に冷える。たとえ窓を開け放ったところで、吹き込むのは暑苦しい潮風だというのに。イポリートは汗ばんだ手で椅子の肘掛けを握りしめた。ここで鳴りを潜めているだけで、最後までやり過ごせるだろうか。この場所を知っているのは、長年付き添った数名の部下のみ。建造時の打ちあわせも全て秘書に任せ、着工に関わった人間も、皆記憶を封じてある。それでもキリールは、この孤島を見つけるだろうか。

 孤島の別荘。身を隠しているのだ。それも本来の味方から。キリールだけではない。イポリートは、イブレフスキをも欺いていたのだろう。月明かりが雲に沈み、窓に映った部屋が色濃く浮かび上がる。

「クラーラ。コーヒーを頼む。ブルボンはまだ残っているかな」

 愚問だ。見つかるに決まっている。今まであの男が始末してきた者達とて、皆十分すぎるほどに用心深く身を守っていたのだ。ジュノーか、天津か。船を手配しなければならない。慇懃な海の上に一人で駒を並べるうちに、イポリートはコーヒーがまだなのに気付いた。大きな声で2、3度呼び直したが、クラーラの返事はない。もう、始まっているようだ。

「入りたまえ」

 磨かれた金具の立てる、滑らかな音。肩の筋肉に力が入る。

「邪魔するよ。随分と辺鄙なところまで逃げると思ったら、なるほど、贅沢な別荘じゃないか」

 どす黒く濁った女の声。間違いない、キリールの副官だ。イポリートには振り向くことができず、ガラスに映った女を見据えた。

「折角ここまで来たのだ。ダリア君、是非くつろいで行ってくれたまえ」

 恵まれた体躯、赤くウェーブした髪、アクが強く険しい顔つき。いつかアレクも覗いたことがある、シャワールームの女だった。

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