エッシャーの城>>発火>>1
夕方のヴォロチャ通りは、くぐもった微熱にうなされていた。5月も始まったばかりだというのに、通りを行く人々は薄着を汗で濡らしている。アムール川からの生臭い風も力尽き、おまけにバンのエアコンがご臨終とあっては完全にお手上げだ。トラックに隠された赤信号はいつまでも続くかのように思えたが、不意にうなり声を上げ、直前のトラックが動き出した。夕食前のこの時間、食品・衛生課の連中はやたらと荒っぽい運転をする。余り近づきたくはないが、遠回りするよりは幾らかマシだ。
「ユーゴ、前。信号変わったぞ」
アレクは左手で顔を扇ぎながら、船をこぐ相棒を急き立てた。今日はもう帰って着替えるだけだ。後十分の辛抱じゃないか。ところがユーゴが鈍い返事を返し、並木が緩やかに流れ出したそのとき、突然目の前でトラックのハッチが開いた。白地に緑のラインが入った正方形の鉄板が内側に滑り込み、巨大な灰色の積荷が中から勢いよく飛び出してくる。
ユーゴの間抜けな叫び声に急ブレーキの悲鳴が重なり、垢じみたシートベルトがアレクを宙に吊り下げた。フロントガラスに広がり、バンに突っ込んでくる質量の塊。ぶつかる。アレクは歯を食いしばり、衝突に身構えた。
ところがバンに触れる寸前、積み荷は鋭い遠吠えを上げアスファルトに食らいついた。一瞬にして煙が広がり、窓の外は真っ白だ。その中から太いタイヤが現れ、短いボンネットを擦った。
バイクだ。ただ、四駆並みに巨大な。積荷の正体を掴んだ途端、アレクはシートに放り出された。白煙が希釈され、浮かび上がる猛獣の陰。長いコンテナを背負った車体が、陽炎を引きずりながら見る見る遠ざかってゆく。容易くトラックを追い越し、スレーキ音を刻みつけて横道へと吸い込まれていった。
息が落ち着き、クラクションの洪水に気が付くまで、数秒の時間がかかった。ホイールロックしてしまったのが却って幸いしたのだろう。後続車に追突されることもなく、アレク達のバンは無事に再スタートを切った。植え込みに輝くシャクナゲの白い花がゆっくりと流れだし、白いセダンがいらだち紛れに安全運転のバンを追い抜いてゆく。
「……見たかよ。ミサイル背負ってたぜ。軍隊かな?」
ユーゴの言う通り、今のは正月のパレードに出てくる軍用バイクに見えた。正月のパレードで、毎年先頭に並ぶ部隊の。めったに見れないスーパーマシンであることは間違いないが、しかしだ。ユーゴが目を輝かせる隣で、アレクは左右に目を走らせた。ラッシュアワーの街中で、果たして演習が行われるだろうか。
「おいおい、ヤバいんじゃないのか? 近くで何かあったのかも――」
警察ではなく、軍隊が出動するような何かが。アレクの疑念に答えたのは、ユーゴでなく、強く大きな遠鳴りだった。雷ではない。濁った爆発音に、動かぬ真昼の骸が震えている。ユーゴは慌ててブレーキをかけ、アレクは窓から空を見上げた。空に昇った、真っ黒な煙の柱。テロだ。凶悪な犯罪者が、街中で暴れている。
「マジか。どっちだ? どっちに逃げたらいい?」
6車線道路のただ中で、右にも左にもステアをきれず、ユーゴは空しく両手を震わせた。交差点はクラッシュで塞がり、逃げ惑う人々が角から溢れ出してくる。行き場を失った自動車の流れはゆっくりと硬化し、張りつめたクラクションでヴォロチャ通りが溢れかえった。
「クソッ、お手上げだ!」
ユーゴは平手をステアリングに叩きつけ、バンは情けない悲鳴を上げた。今や自動車の隙間さえ、逆走する歩行者で一杯だ。こうなってしまっては、後は神に祈る他ない。神よ、どうか我々を守りたまえ。ダッシュボードに肘をつき手を合わせて見上げた空を、大きな影が鋭くよぎった。
「あれは!」
鋼の四肢を伸ばし、空を流れる獣の影。ビルに触れた前足に大きなボディが引き寄せられ、しなやかに跳ね返ってビルの屋上を渡ってゆく。通りに渦巻く野次がおののきの混じった喚声に変わった。さっきと同じバイクだろうか。バイクの影が通りを外れ、山手に飛び去ってから、アレクはうわごとを漏らした。
「あいつ……背中のコンテナがなくなってる」
二人が黒煙を呆然と見上げバンのシートで固まっていると、やがて警察車両が交差点に入ってきた。パトカーのサイレンがビルの間に鳴り響き、スピーカーの割れた音が警告を繰り返している。
「この先は危険区域に指定されました。人民は警察の誘導に従い、指定された迂回路を通行して下さい。繰り返します――」
電装修理係の事務所は目と鼻の先だというのに、装甲車のバリケードは全く動く気配を見せず、19時を回ってからようやく大通りの封鎖が解かれたのだった。