春雨の幹線道
ときは、西暦二〇三〇年の三月初めの午後。
ところは、空中都市国家ハチドリ市郊外から中心街へ向かう幹線道。
春先特有の、細い糸のような冷たい雨が降る中、アスファルト舗装の黒い道を走る黒塗りのセダンが一台。
前フェンダーのポールに縛られた小さな三角旗が、走行風を受けて旗めいていた。書かれているのは『ハチドリ日日新聞』の文字。
どうやら、新聞社の報道用自動車らしい。
制帽・白手袋の運転手の他に、後部座席に二人の人物が乗っていた。
運転席の後ろには二十代後半の男。
助手席の後ろには十代半ばの少年。
どちらも地味な色の背広にネクタイ姿だ。
「ああ、そんなに急がなくても良いよ」二十代の男が、後部座席から運転手に向かって言った。「どうせ夕刊には間に合わないんだ」
なかなか美い男だった。
ガッシリとした肩幅。上背もありそうだ。
「しかし、嫌な事件だったな」
ポケットから手帳を出して読み返しながら呟いた男に、隣に座る少年が「そうですね」と相槌を打った。
大人の男の方は、鴨凪正二という二十七歳の新聞記者。
性格は馬鹿がつくほど正直。
記者仲間は、冗談まじりに彼を『お人好しの鴨』と呼んだ。
いつも編集長から「この仕事をするには真面目すぎる」と言われていた。新聞記者のくせに、人の心や事件の裏を読む力の足りない男だった。
身長一八〇センチ。大学時代ボクシングに熱中していたから、腕っぷしは強かった。
鴨凪記者の横に座っている少年は、名を扉板啓一という。
もうすぐ十五歳になる記者見習。大人の本職記者に付いてその手伝いをするのが仕事だ。ここ半年間は、ほとんど鴨凪記者に付いて現場を回っていた。
この日、二人は、郊外に住むある裕福な家族を襲った陰惨な事件を取材して、市内の本社へ帰る途中だった。
「家の主人に、奥方、幼い息子が二人、主人の老いた母親と、住み込みの家政婦……合わせて六人を短剣でメッタ刺しって言うんだから」
鴨凪正二が手帳を見ながら言った。
「一家全員を殺してまで奪った品が、さて何かといえば……暖炉の上に掛かっていた油絵が一枚だけ……たかが絵一枚で皆殺しにされたんじゃあ、犠牲者たちも浮かばれん」
「絵を盗んだのは偽装で、本当の動機は怨恨か何かじゃないでしょうか?」と記者見習いの扉板少年が、先輩記者に尋ねた。
「そうかも知れないが……実際のところは分からん。盗まれた絵は初期天空派の隠れた名作らしい。百号キャンバスだって話だから、そこそこの大物だ」
「つまり、価値が高い……闇で売れば、それなりの現金になる……って事ですか?」
「まあ、そういう見方も出来る、ってだけの話だ……それにしたって奇妙だよ」
鴨凪記者は手帳のページを繰った。
「家の中には金目の物が他に幾らでも有ったろうに、それらには目もくれていない。現場の様子から複数犯であることが分かっている……つまり、ある程度、大掛かりな仕事だったんだ。それなのに戦利品が絵一枚とは……」
「捜査指揮は只羅木警部でしたね」
「ああ。あの狸親父、何か隠してそうな雰囲気だった……『明日の記者会見を待っていろ』なんて言ってたけど……何とかスッパ抜けないかなぁ」
それまで後部座席の会話を黙って聞いていた新聞社のお抱え運転手が、ボソリと呟いた。
「嫌な世の中になったもンだ」