露寒の沁む頃
冬が近いことを思わせる、寒い朝だった。
処刑の行われる時間でもあるまいに、刑場に人だかりができている。身なりを見るとそのほとんどは、おそらく非人であるらしい。刑場の片隅で、罪を犯した非人の処罰が行われているのだと、えんは察した。
非人頭の支配になる非人は、身分が人の七分の一と言われ、罪を犯しても公に罰されることはない。代わりに非人頭の裁きを受け、独自に定められた法に従って、仲間内で制裁を受けることになる。非人の法はたいそう厳しいことが知られていた。
刑場の片隅に引き出されているのは、親子の者であるらしい。仲間内の犯罪であれば、非人頭の屋敷内で処罰されるはずであるから、なにか世間様に顔向けのできない罪を犯したのであろう。そうした場合は世間一般への侘びを兼ね、刑場の片隅を借りて処罰を行うことが多かった。
えんはそっと人だかりのうしろから、様子をうかがう。みすぼらしくやせこけた三人は父と兄妹であるらしい。三人とも膝立ちで十字に組んだ竹に縛り付けられている。父親の額には「犬」字の古傷がくっきりと残っていた。
───いぬのあし切り。
えんの頭にそんな言葉が浮かぶ。
それは、この辺りで盗みをした非人に課される罰であった。非人には物乞い門付けで暮らしを立てている者も多かったから、町屋からの盗みは厳しく戒められ、盗みが見つかれば初犯でも額に「犬」字の烙印が押される。「犬」は町方の人々に白い眼で見られ、物乞いに出ることができなくなった。手に職でもあればともかく、物乞い門付けで暮らす者にとって、烙印を押されることは、そのまま生きてゆくことが困難になることを意味した。そうした者は、暮らしに窮して再び盗みを働くことが多い。二度目に捕らえられた盗人に課される罰が、二度と盗みを働けぬように両手を切り落としてしまう「いぬのあし切り」であった。
刑場の隅には、火桶と古びた鋸が用意されている。まだ十にもならぬであろう幼い妹と、十を一つ二つ過ぎたかと見える兄には「犬」の烙印が押され、父は両手を切り落とされるのだろう。怯えて泣く妹を、兄が懸命にあやしているのが憐れだった。
非人の処刑は普通の処刑のように物々しくはない。罰を受けることさえ世間をはばかるように、ひっそりとしていた。罪状を読み上げる厳めしい声も、刑の執行を告げる打つような命令の声もない。処刑を行う非人たちは、その刑の凄惨さが身に染みているのか、無表情のままもくもくと事を行っていた。
───きゃあああっ。
子どものものとは思えないような悲鳴が上がる。幼い少女の額に焼けた鉄の印が押し付けられたのだ。泣き叫ぶ少女を押さえつけ、さらにぐいと一押しして離すと、くっきりとした赤い文字が刻まれていた。引き付けたのか少女ががくがくと震えて白目を剥く。失禁したのか膝元が濡れていた。
次は兄の番である。気丈にも目を閉じ覚悟を決めている兄の額に、ぐいと焼印が押し付けられる。
───うっあああぁ……
堪えきれず、目を見開いて兄が悲鳴を上げる。ゆっくりと焼印が引かれると、その額には妹と同じ「犬」の字が、赤くくっきりと刻まれた。火傷が痛むのだろう、呻きもがいている息子を、父が涙ながらに見つめていた。
非人たちが、気の毒そうな目で父であるおとこを見やる。おとこは観念したように、くちびるをかみ締めていた。のろのろと、おとこの両手に添え木を縛りつけ、挽き役が鋸を取上げる。おとこが身を竦めた。
しばらくは、鋸を引く音だけが聞こえた。しかし、やがて添え木の間に挟まれた腕に刃先が触れると、おとこは弾かれた様に首を上げ、悲鳴を上げて身悶えた。
───ぎゃあああっ、ぎゃあああっ……
間断なく悲鳴が上がり、血が滴る。少年が顔を背け、目を閉じた。
ぼとりと挽き落とされた手首が落ちる。添え木を外された左手首は血に染まったまま、目の前の台に釘付けにされた。荒い息をつくおとこの右手に、鋸が当てられる。
「───助けてくれ!」
おとこが絶叫する。それは誰に向けられたものでもない。苦痛と恐怖に耐え切れず、思わず出た言葉であった。少年が、声を上げて泣いた。
再び悲鳴が上がり、しばらくの後おとこの右手がぼとりと落ちた。落ちた右手首を台に晒して、処刑が終わった。切り落とされた手首に血止めのさらしが巻かれる。白いさらしは流れ出る血で瞬く間に真っ赤に染まった。
ようやく目を覚ました幼い少女と兄に、三日の晒しが、両手を切られた父に七日の晒しが告げられる。幼い兄妹はともかく、ろくな手当ても受けられぬまま七日七晩晒される父は、命もおぼつかないであろう。実際「あし切り」された者の内、生き残るのは七、八人にひとりである。七日を生き延びても、放される時には傷が腐り爛れて虫の息の者も多い。夏でない分いくらかましであろうが、この寒空にあれだけ血を失っては凍え死ぬかもしれない。
夜にまた、来てみようと心に決めて、えんはその場を離れた。
案の定、凍えるような寒い夜である。えんはそっと刑場に向かった。
晩秋の冴えた月の光の下に、三人の親子が両手を広げてくくられていた。父はがっくりと首を落として両肩でぜいぜいと息をしている。熱があるのかも知れなかった。幼い少女は痛みに泣き寝入りしたのか、頬に涙の跡をつけたまま目を閉じていた。額には手当てもされず腫上がった火傷の傷が痛々しかった。
少年が、じっとえんを見ている。えんは入り口をまわって少年のもとに近づいた。
「だれ?」
えんが近づくと、少年は咎めるような目でえんを見つめてそう云った。
「誰だっていいだろう。」
えんはそう言って、腫上がった少年の額の傷に水で濡らした手ぬぐいを当ててやる。少年は小さく呻いて、心地よさそうに目を閉じた。
妹の傷にもそっと手ぬぐいを当ててやると、少年は小さな声でえんに礼を言った。
「こんなことは礼を言われるには及ばないけどね。」
利発そうな少年は、しかし町の者ではないようだ。おそらく在郷で暮らしが立たなくなって田畑を捨てて流れてきたのだろう。飢饉の年にはよくあることだった。
「どこから来たんだい?」
問うと少年は驚いたようにえんを見た。
「在から出てきたのはいつだい。さして古いことじゃないんだろう。」
「───うん。」
少年は肯いて、この秋に村を捨ててきたのだとそう言った。
「今年は大風が吹いて、田がだめになったから───」
収穫期になっても麦一粒の蓄えもない。このままでは、一家で飢え死にするしかないと、町へ流れて来たのだという。とはいえ流れ者の物乞いは許されていないから、彼らは生きるためにすぐに非人頭の配下に入ったのだろう。
「出てくるとすぐにおかあが倒れて、物乞いじゃあろくに食わせてやれないから、おとうが───」
少年は、そこで辛そうに顔をゆがめてぐったりと項垂れる父に目をやった。
「盗みをしたのか───ちょっとお待ち。」
えんは懐から散薬を出しておとこのもとへ近寄った。
「分かるかい?」
声をかけるとおとこはうっすらと目を開けて肯いた。額に触ると驚くほど熱い。
「飲めるかい?」
包みを開け、水とともに流し込むと、おとこは少しむせながらそれを飲み込んだ。さらに二口三口水を飲むと、おとこは少し楽になったのか、穏やかな顔になって目を閉じた。
「毒にゃあならないよ、安心おし。」
心配そうに見つめている少年にそう言ってえんは少し微笑んで見せた。もっとも彼等と大して変わらぬ境遇のえんに、高価な薬など買える訳がない。毒にならないにしろ、薬になるような代物ではなかった。それでも、気の持ちようというのはあるのだろう。明らかにおとこの息遣いは穏やかになっている。
「おかあはどこにいるんだい?」
一家が住みかにしている場所を聞いて、えんは内心顔をしかめた。そこは非人だまりのさらにはずれだった。一家の泥水を啜るような暮らしが容易に想像された。
「おかあの様子を、見てきてもらえないかい。」
少年が、半ば拒絶されるのを覚悟したように、おそるおそる頼みを口にする。まっとうな者ならけして近づかないような場所であるが、えんは肯いた。
「行ってみるよ。ともかく今夜は辛抱しな。」
えんは小さな饅頭を少年の口に押し込んでやる。ちょうど三つ、閻魔堂に供えられていたものだ。処刑された罪人のために供えられたものだろうが、口に入れば何でもかまわない。父と妹にも饅頭を含ませて、えんはそっと刑場をあとにした。少年がじっとえんの背中を見送っていた。
次の日は、めずらしく穏やかな小春日和だった。
これならば、親子もいくらか辛抱しやすいだろうとえんはほっとした。
少年との約束どおり、えんは非人だまりのはずれに向かった。非人ではないえんが正面から入っていくことははばかられたので、わざわざ大きく回ってゆくと、少年が言っていた場所に斜めに傾いだ小屋がかろうじて立っていた。えんが幼いころねぐらにしていたものよりも、さらに数段ひどい有様である。
戸もろくろくないような戸口から、えんは声をかける。ひとのいる気配がわずかにした。
かまわず開けると、死人のような女がひとり寝ていた。すでに冬が近いというのに夜具もないような有様で、寝ているというよりは転がっているのに近い。ますます死人のようだった。
「あんたの子に頼まれてきたんだ───」
そういうと、女はわずかに身を起こした。病人の臭いがした。
───長くはない。
えんはそう直感した。
「───夫と、子ども達は───」
かすれがちな細い声で、女が問う。
「子ども達は───心配要らないだろうさ、すぐに帰ってくるよ。」
強いて明るい顔で、えんはそう云う。しかし女はその言葉の底から、夫の身が危ないことを読み取ったらしい。
「それでは、夫は───。」
涙を浮かべる女に、えんは慌てて言う。
「死んじゃあいないよ、安心おし。子ども達よりは帰りが遅くなるだろうけどね。」
それを聞いて、女は幾らか安心したようだが、それでも無事でないことは判ったのだろう。不安げな表情を隠さない。
「───大丈夫さ。それより、あんたが先にくたばっちまったらどうするのさ。」
えんはそう言って、手にした包みを開けた。中には粗末な煮しめと握り飯が入っている。それでも、女はありがたそうにえんを見上げる。ここしばらくまともなものを腹に入れていないのだろう。
「かゆにするかい。」
女はためらったが、この体では握り飯など受け付けないだろう。えんは返事を待たずに立ち上がったが、辺りを見回しても鍋すら見つからない。
「───ちょっと待っておいで。」
少しばかり躊躇われたが、仕方がない。えんはだいぶ離れた隣家の戸を叩いた。薄汚れた子どもが顔を出す。わずかな銭を渡すと、子どもは妙な顔をしながら、それでも鍋と七輪を使わせてくれた。
「遠慮はいらないよ。といっても、遠慮するようなものは入っちゃいないけどね。」
欠け茶碗にゆるく炊いたかゆを入れて出す。握り飯から炊いたものだから、本当は雑炊のようなものであるが、女は押し頂くようにゆっくりと流し込んだ。
「ともかく、二、三日何とかしておいで。その間のことは、隣の子に頼んでおくから。」
そう云って、えんはその小屋を出た。そのまま隣へいって、さっきの子どもに少しばかりの米を渡し、銭を渡して女の世話を頼んだ。銭が利いたか、子どもは喜んで引き受けてくれた。
夜半、えんは再び刑場に向かった。昨日とは打って変わって穏やかな夜である。えんは懐に、小さな握り飯を入れていた。
「ねえさん。」
えんの姿を見て、少年が目を輝かせる。えんは苦笑して云った。
「えんでいいよ。確かにねえさんには違いないが。」
近くへ寄ってみると、二人の兄妹は思ったより元気そうだった。昼の内に何がしかのものを口にしたのかもしれない。額の傷は腫れが引いていたが、その分忌まわしい文字がくっきりと浮き上がっていた。これから先のことを思って、えんはそっと彼らの額から目を逸らした。
父親の方は、今日もぐったりと首を垂れている。腕の先に巻かれたさらしは、いまもわずかに濡れていた。七日は持たないかもしれないと、えんはそう思った。
それでも握り飯を含ませ、水を飲ませるとおとこはいくらか元気を取り戻した様子で頭を起こした。まだ熱は引いていない。えんはまた、薬になるかはあやしげな散薬をおとこに含ませておいた。
「おかあは、どうだった?」
少年が尋ねる。
「ちょっと元気をなくしちゃいたけどね、あんたらが帰ってやれば大丈夫さ。」
えんの言葉に、おとこが少年に叱るような目を向けた。えんは慌てておとこに云う。
「叱らないでやっとくれ。その気がなきゃ、あたしだって引き受けやしないよ。あたしの勝手なお節介さ。」
そういうと、おとこは無言でえんに頭を下げた。
「よしとくれ。ひとにあたまを下げられる柄じゃないのさ。」
えんは幼い少女の頭に手を置く。
「明日一日がんばりなよ。」
少女は、うん。と肯いた。
次の日も、親子には幸いなことに、穏やかな天気が続いた。このまましばらくこの天気がつづいてくれればいいと願いながら、えんはまた非だまりのはずれへと向かった。
小屋の前に立ったとき、なにやら胸騒ぎがした。
えんは急いで戸を開ける。
───いけない。
中をのぞいた瞬間、そう思った。
女がぐったりと横たわっている。その顔には血の気がない。これは死んでいると思った。
しかし、手を触れてみると、女は虫の息ながら辛うじて生きている。とりあえず夜具代わりの古着をかけて置いて、えんは隣家に走った。
戸を叩くと上手い具合に今日は子どもの母らしい、これも薄汚れた身なりの女が顔を出す。えんがわけを話すと、ともかく一緒に来てくれた。
「───だめだね、こりゃあ。」
見るなり女はそう小声でえんに囁いた。
「そうだろうね。だけど、せめて子どもが帰るまでなんとかしてやりたいんだよ。」
えんの言葉に女は肯いた。
「亭主も子どももこのひとのために無茶したようなもんだからね。子どもだけでも間にあやあいいんだけど。」
女はそう云って、
「せめて、少しあっためてやろうか。うちにも七輪ぐらいしかないけどね。」
と、出て行った。
えんは一層青ざめてきた女の顔を見る。わずかに胸が動く以外は、晒されたばかりの獄門首より死人らしかった。昨日見た時に幾らか元気に見えたのは、亭主子どもを心配する余り、つきかけた命に火がついていたのかもしれない。わずかに気が緩んだとたん、その揺り返しが来たのだろう。
隣家の女が七輪を抱えてくる。えんにはもう、祈ることしかできなかった。
夕刻、闇の迫った処刑場に、えんの姿があった。
間もなく、二人の兄妹が解き放たれる刻限である。世間にはばかってか、これも普通の晒し者より遅く、辺りが闇に包まれるのを待って、ひっそりと解き放たれる。辺りにはもう、夕闇が迫っていた。
じりじりとした時が過ぎ、ようやく闇が辺りを包む。刻限を見計らっていた非人が、兄妹の縄を解いた。妹はすぐに立ち上がろうとするが、手足がしびれているのか立ち上がることができない。兄はよろけながらもゆっくりと立ち上がり、妹に手を伸べた。父の方を見やる兄妹を、非人たちが追い払う。父がゆっくり肯くのを見て、二人はやっとその場を離れた。
「大丈夫かい、よくがんばったね。」
刑場の外へ出てきた二人に、えんが声をかけた。二人はわずかに笑みを浮かべる。
母の待つねぐらに向かって歩き出そうとするふたりを、えんは止めた。
「お待ち。もうすぐ、お前たちの縄を解きに来た連中が帰るだろう。そうしたら、連れて行きたいところがあるんだ。」
そう云うと、妹が口をとがらせた。
「でも、あたいおかあに早く会いたい。」
えんは、笑って云う。
「おかあも来るから、大丈夫さ。」
少年が、はっとしたようにえんを見た。えんは少し悲しそうな顔で肯いてみせる。少年は、泣きそうな顔をした。
「おかあに会わせてやるから、ちょっとだけ待っておいで。」
えんは少年の目をじっと見つめてそう云った。
しばらくして、非人たちは兄妹が晒されていた場所をきれいに片付けて帰って行った。ひとり晒されている父を気遣うように見やる兄妹を促して、えんは閻魔堂に向かう。閻魔堂は、闇の中にぼんやりとした明かりを放っている。えんはそっととびらの隙間から堂の中をのぞいた。
正面の高い壇の上には厳めしい閻魔王。
黒々とした鉄札を手にした倶生神。
左右に赤と青の獄卒鬼達。
壇荼幢、業の秤、浄玻璃鏡───。
浄玻璃の鏡がきらりと光ると、閻魔王の前にひとりの女が額づいていた。少年が妹の手をぎゅっと握る。
───おかあ。
少女が小さな声でつぶやいた。
堂の中では女の裁きが始まる。閻魔王が威すような声で女に問う。
「さて、女。お前はこの人の世に生まれ、後の世の善因となるようなことを、何かひとつでもしてきたか。」
女は項垂れる。生きるのさえもままならぬ身に、その問いは酷であろう。女はなにも答えなかった。
「どうした───後の世に善因を残せなかったというなら、人には生まれ変われぬぞ。たとえ悪をなさぬといえども、次の世には畜生となって他人に尽くすか、餓鬼となっておのれの愚かさを償うか。いずれにせよ苦の世界へ堕ちねばならぬ。倶生神、どうだ。」
は、と具生神がかしこまる。
「申し上げます。この女は在郷の水呑百姓の娘と生まれてからこれまで、別段これといって善因となる徳を積んだとは申せませぬ。後を弔う子が二人、居るにはおりますが、これらはすでに悪人としての性を萌芽させ、盗みを働くなど、この者の追善となるどころか、罪を増すような有様にてございますれば、極楽へやるはもちろん、人の世に生まれ変わらせることも難しいかと存じます。ここはやはり、畜生にでも生まれさせ、他人のために働かせて、善根を積ませるがよろしいかと存じます。」
うむと閻魔王が肯く。
「聞いたか。そう云う事ならば、次の世はお前をひとに仕える畜生となし、他人のために働き善根を積むことを命じる。またひとの世に生まれ出るためには、骨身を惜しまずよくよく働き、他人のためになることだ。獄卒鬼ども、この女を連れてゆけ。」
───お待ちください。
驚くほどの強い声で、女が云った。
「どうした、女。不満を云ったところでどうにもならぬぞ。」
睨む閻魔王を、女は負けぬ勢いで睨み返す。
「わたしのことではございません。わたしはそりゃあ、なにひとつの善い事もせず、ただ無駄にひとの身を生きた愚か者でしょう。どう言われようと不満はありません。でも、子ども等は違う───。」
女は鋭い目で閻魔王を見上げる。
「あの子らは確かに盗みをしたか知れない。だけどそれは、わたしが寝ていて何もできないから、三度の飯とはいかずとも、少しでもわたしの口になにか入れさせたいからと、悪いこととは知りながら働いた盗みだ。それを悪人だなんぞとは───」
───閻魔様だとて言わせない。
女は怒りに満ちた目で、閻魔王を睨み上げている。
幼い妹が、呆気に取られた顔で母を見ている。少年が、そっと妹の肩を抱いた。
「閻魔様の負けだねえ。」
えんがとびらを開けてそう云った。
「えん、生きている者を連れてきてはならぬと云って置いたはずであろう。」
閻魔王が、怒りの矛先をえんに向ける。
「そんな事より、そのひとに謝った方がいいんじゃないかい。その鉄札にも、この二人のことは孝行者と書き直しておいたほうがいい。」
えんが涼しい顔で云う。
「なにを言う。その者どもには盗人の印がはっきり刻まれておるではないか。」
閻魔王の言葉に、少年の手が額の傷に触れる。
「隠すことはないよ。さっきおかあが言っただろう。それは孝行者のしるしじゃないか。」
えんが少年を真っ直ぐに見て云う。
「そうだろう。父親が仕方なく盗みを繰り返すのを見て、自分達なら捕まっても一度は額の焼印ですむと、そう思ったんだろう。それなのに、おとうまで捕まって。」
少年が、えんを見上げたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。
「───いいんだよ、泣いたって。」
肩を抱いてやると、少年はえんにすがり付いて泣き出した。妹がつられて泣き出す。
「この子だって、なんとか役に立とうとして、見よう見まねで盗みをしたんだ。物乞いだって辛かったろうに。」
母が、泣き崩れた。
「どうだい、これでもこの子らが、悪人だなんて云うのかい? その鉄札に刻んであるのかい? そうだと云うんなら───」
───そんなものは鉄くず以下だ。
えんは、はき捨てるようにそう云った。
「───申し訳御座いませぬ。わたくしの口が過ぎましてございます。」
倶生神が、静かにそう言って頭を下げた。
「聞いたかい。」
えんが少年の顔を上げさせてそう云うと、少年は強い目をして涙を拭いた。
「女。お前の子らのことは、我等の見込み違いであった。許せ。」
女が涙に濡れた目で、閻魔王を見上げる。その目には、もう先程の激しさはなかった。
「おかあ。」
少女が走りよると、母は優しく笑った。
「さて───おまえ自身はこの世でさしたる善根も積むことはできなかったようだが、この子らはお前を思ってくれるだろう。この子らが、お前に代わってこの世で善根を積むというならば、次はまたひとの世に生まれることを許そう。」
───今度は幾分安楽な人生を歩むがいい。
閻魔王はそう云って、すこし優しげな顔をした。
「さあ、もうゆかねばならぬ。」
閻魔王に促され、母は小さな娘になにやら囁いた。少女は肯いてにっこり笑った。
───妹をたのむねえ。
そう、ひとこと言って、母は少年をじっと見つめた。少年はそれに応えるように、母の顔をじっと見つめていた。
ふうと辺りが暗くなって、すべてが闇の中に消える。気がつくと、木造りの閻魔王が、倶生神が、赤青の獄卒鬼が、闇の中に沈んでいる。一条の月明かりがとびらの隙間から差し込んで、浄玻璃の鏡がのっぺりとした木の面を白々とした月の光に晒していた。
「───ありがとう。」
少年がえんを見上げてぽつりと言った。
───そんな柄じゃ、ないってば。
えんはそう、つぶやいた。
少年は、大人びた目でもう一度、頭を下げた。
五日目の朝早く、兄妹の父は静かに息を引き取った。急に冷え込みが厳しくなった朝のことだった。
兄妹が解き放たれた後、子達の前で張りつめていたものが緩んだか、傷に毒が回り、手首の切り落とされた両腕を倍にも腫らして、二昼夜苦しみ悶えた末の死だった。
死してまで晒されるほどの罪ではなかったのか、また非人の死骸など晒すのもはばかられたのか、父の遺骸は兄妹に下げ渡され、おとこはようやく晒し柱から解放された。
「今夜、閻魔堂に来るかい。」
えんの問いに、兄妹はそろって首を横に振った。
もう、わかれは言ったからと、兄は気丈な目で答え、妹は泣きはらした赤い目でそれでもしっかりと肯いた。
「───そうかい。」
えんはそう云った。
そしてえんも、その夜は、閻魔堂には行かなかった。
ちらちらと雪が舞い落ちている。空には薄雲に覆われて、にじんだような月が見え隠れしていた。
兄妹が非人寺で投げ込み同然の二親の弔いを済ませてから、一月近くが経っている。久方ぶりに、えんは閻魔堂へと足を向けていた。
ちらつく雪の中に、ぼんやりと閻魔堂の明かりが揺らめいている。えんはとびらの隙間から、堂内をのぞいた。
「入れ、えん。」
と、待ちかねたような声がして、閻魔王が鮮やかな衣の裾をひるがえす。浄玻璃の鏡が明かりを映してきらりと光った。
「久方ぶりであったな、えん。あの兄妹はどうしておる。」
やはり気になっているのか、えんがとびらを開けると同時に、閻魔王はそうえんに問う。
「あの二人の父親はどうしたのさ。あれからすぐに此処へ来ただろう。」
えんは閻魔王に問い返した。
「あのおとこか。無論、盗みの罪を犯したものを許すわけにはゆかぬゆえ、黒縄地獄へ追い落としてくれたわ。」
厳めしげな顔をことさらに作る閻魔王に、倶生神や獄卒鬼たちが苦笑する。
「心配はございませぬ。確かに地獄行きとはいたしましたが、充分に反省している者のこと、一年の忌日までにはひとの世に生まれさせてやることが出来ましょう。」
倶生神が、にこやかにそう云った。
えんはほっと胸をなでおろす。
「おのれの両手を見つめて涙をこぼしておった。二度と、盗みをするような人間にはならぬであろう。」
閻魔王の言葉が、胸に染みた。
「それで、あの兄妹はどうなったのだ。どこか落ち着く先は見つかったか。」
気がかりな様子の閻魔王に、えんは言った。
「あの子らは、皮やの親方のとこで働いてるよ。どうにもなかなか、骨のある子でねえ───。」
両親の弔いを済ました翌日、兄は皮革職人の仕事場の入り口に手をついた。弟子にしてくれというと、親方は渋い顔をして少年を怒鳴りつけた。
「たとえ同じ非人とはいえ、犬など弟子にできると思うか。さっさと出て行け。」
蹴りだそうとする親方を、少年は額の烙印を隠そうともせず顔を上げ、真っ向から見つめた。
「確かに、犬です。弟子にしていただいて、手に職をつけても、盗みをすればすぐに両手を切り落とされる、犬です。」
───それ見ろ、出てゆけ。
そう云う親方に、少年は再び両手をついて言った。
「わたしはもう盗みはしたくありません。もう、あんなことはしたくない。でも、妹に日に三度どころか一度さえ、まともに食わせてやることができないような有様では、いつまた盗みをしなくてはならなくなるか分からない。だから───」
───働かせてください。と、少年は土間を叩いて涙をこぼした。
「───二度と盗みはしないか。」
親方が問う。
「しません、したくありません───」
涙に濡れた強い目で自分を見上げていう少年に、そうかと親方は肯いた。
「皮は非人の特許だが、不浄と忌まれるし、このとおり臭いが染み付く。まともに町中へも出られなくなるぞ。それでもいいか。」
少年は肯いて、額に手をやる。
「どうせ、町中には出られません。」
親方は少年をじっと見下ろした。少年は両手をついたままじっと見上げていた。
───さっさと立って仕事をしろ。
親方は無造作にそう云った。
「裏へ回れば、新入りの仕事は山ほどある。すぐにかかれ、怠けたりすると殴りつけるぞ。」
はい、と立ち上がる少年の背中に、待てと声を掛け、親方は尋ねた。
「お前の妹はいくつだ。」
「七つです。」
「なら、明日ここへ連れてこい。ここは住み込みしか置かねえ。妹は台所でも手伝えるだろう。」
───少なくとも日に二度はまともな飯が食えるぞ。
深く頭を下げたまま動かない少年を、親方はさっさと行けと怒鳴りつける。
少年は、涙を拭いて裏へと走っていった。
───そんなところさ。
えんが言った。
「そうか。」
閻魔王が肯いた。
「それもまた、ひとの世というものでございますか。」
倶生神が、しみじみと言う。
「ひとってのも、捨てたもんじゃないのかもしれないねえ。」
えんはつぶやく。
そっと堂のとびらの隙間からのぞく空を見上げる。いつの間にか雪が激しく舞っていた。
堂をやわらかな闇が包む。季節は凍えるような冬であるが、なにか心の中がぽかりと暖かいような、そんな気持ちでえんは木像の閻魔王を見上げ、堂を出た。のっぺりとした木の板の浄玻璃の鏡が、えんの背中を見送っていた。