王子の一目惚れ
短編を楽しんで頂けたら嬉しいです。
「婚約を解消してくれないか」
ぱちくり、と瞬きをする私から目の前の男は気まずそうに視線を逸らした。
彼の銀色の髪が目に映る。
灰色の瞳と相俟って、他の人より少しだけ大人っぽく見えるそれは、今日は何だか幼く感じた。
「何の冗談かしら?」
微笑みながら返せば「冗談じゃないんだ」という言葉が返ってきた。
婚約、解消?
誰が?
私と、彼が?
情けない顔を晒す婚約者にその言葉は本気なのだと悟る。
「何を言っているのかわかってるのかしら?」
「わかってる。けど……」
続く言葉は彼の顔が青醒め始めた頃に途絶えた。
微笑む私を見て怯えるだなんて、失礼な話だ。
金色の波打つ髪に、翡翠のようだと称される瞳を持つ私は女神のようだと言われることもしばしば。
そんな私を怖がるなんて。
しかし私が怒ることなど滅多にない。
どちらかというと私が彼を怒らせる側だ。
だから、きっとこんなに怒ってる私を見たことなどそうそうないだろう。
私自身、ここまで腹を立てることは滅多にない。
「婚約を、解消したいと、言ったわね?」
微笑む私に彼は恐る恐る首を縦に振った。
どうやら本気らしい。
私は彼に近付くと、思い切り手を振り上げた。
覚悟していたのだろう。
ぐっと歯を噛み締め、頬を晒す婚約者。
暫くたっても下りてこない手に不思議に思ったのだろう。
ちらり、と力を抜いて片目を開けた彼が私の視線と交差した瞬間。
肌を打つ高い音が部屋いっぱいに響いたーーー。
「さて」
気を取り直してソファーに座り直す。
赤く腫らし頬を冷たいタオルで冷やしながら、彼も私の目の前のソファーへと腰を下ろす。
「婚約を解消したい理由を教えてくれるかしら?」
さっきの微笑みとは打って変わって、真面目な顔で彼を見る。
先程まで涙目だった彼は申し訳なさそうな顔で理由を述べた。
「ごめんね、ユリィ。俺、好きな子が出来たんだ」
ユリィとは私の愛称。
ユリーシア・ハインベルクが私の名称だ。
彼の名はエルディス・ガウィン。
ガウィン王家の直系であるエルは第二王子であり、公爵令嬢である私と婚約関係を結んでいる。
幼馴染みの関係である私達は子どもの頃から仲が良い。
私達が婚約関係になるのは自然なことだった。
「エルに好きな人?」
一応、婚約の解消を申し出られた時、可能性としてあげた理由の候補ではあったが、実際彼の口からその発言が飛ぶとは思わなかった。
人付き合いは上手い方ではあるが、女性に苦手意識を持っていることを知っている。
可愛い顔してえげつない考え方をしている令嬢は多いし、第二王子という身分、整った容姿、紳士な態度を併せ持つエルは令嬢にとってはよだれものの優良物件である。
そんな令嬢らのアピールは本人を怯えさせるものでしかなかったらしい。
私は小さい頃からの付き合いだし、私もエルも自然体で話せる関係だから、何でも言い合える私のことは好きだと言ってくれていたけど。
「どこの令嬢?エルのお眼鏡に叶うご令嬢がいたかしら?どこであったの?どんな子?」
「そんないきなり言われても答えらんないよ」
身を乗り出してぐいぐい質問する私にエルは引き気味だ。
「そう簡単に婚約解消なんて出来ないわ。だから、私がその令嬢を確かめてあげる。それで私の太鼓判が押せるような子だったら、貴方をあげるわ」
安心して、という私にエルは脱力したようにどさりとソファーに凭れた。
「あー。ユリィ、俺を許してくれるの?」
「え?許すわよ。さっき思いっきり私の怒りをぶつけたでしょう?あれでスッキリしたわ」
「本当に?」
「あら。信じられない?」
「もっと怒ると思ったから」
「私としては結構怒った方だと思ったけど」
いきなり告げられた言葉は裏切りに近い。
だからカッとなってしまったのも仕方ない。
もう少し、冷静に話を聞いてあげてもよかったかもと今更思うけれど、まあいいか。
でも、まあ、確かに。
「何となくわかるからかしらね」
「何を?」
「私、エルのこと好きだけど、男性としてじゃないと思うの。家族愛のようなものね。エルからの好意もそういうものでしょう?」
見開いた瞳をそのままに、エルは頷く。
恐らくどこぞの令嬢を好きになって気付いたのだろう。
私も何となくこのまま夫婦となるだろうエルにもやもやしたはっきりしない気持ちを抱えることもあったが、エルに婚約解消を告げられ、怒りに任せて殴った後は、そんな気持ちは霧散している。
どちらかというと腑に落ちた、というべきか。
ああ、私のエルへの愛情は恋情ではないんだな、と自己分析さえしてしまっている。
「そうね。どちらかというと弟を婿に出す姉の気分かしら」
複雑そうな表情でこちらを見るエルにくすりと笑う。
「じゃあ、私に好きな人がいるっていったらどうする?」
「な!本気!?どこのどいつ!?」
急に食ってかかってきたエルに驚きつつ、どうどうと両手を前に出し、落ち着かせる。
「例えばの話よ。例えば!もう、びっくりしたわ」
「俺だってびっくりだよ」
はあ、とお互い溜息を漏らす。
「まるで姉を盗られる弟じゃない?」
「妹を盗られる兄、の間違いでしょ」
くすくす笑う私に、不貞腐れたように言うエル。
私達は年齢が一緒だからどっちともとれる。
「まあ、いいわ。とにかく私達は恋愛関係ではない。本来政略結婚の為の婚約だし、恋だなんだで相手を決めることなんて出来ないけど、それでも私は応援するわ」
「ユリィ!」
ぱっとエルの表情が明るくなる。
「でも、私が納得しない子だったらダメよ?」
「ユリィ……」
「当然でしょう?」
私は貴方の婚約者であり、姉なんだから。
そんな私の言葉に、エルは自身を兄だと主張することを諦めたらしい。
「それで、どこのご令嬢?」
さてさて、とうきうき気分で尋ねる私に、エルは頬をぽりぽりと掻きながら、あーとかうーとかはっきりしない態度でいる。
一体なんなのだ、と口を開こうとしたところでエルがこちらを向いた。
「貴族、じゃないんだ、多分。どこから来たのかもわからない、気付いたら俺のベッドの上にいた」
はあ?
思いっきり眉間に皺を寄せた私に、エルの眉尻が下がる。
「ちょっと待って。どういうこと?ベッドの上に気付いたらいたですって?夜這いをかけられたってこと?暗殺者?」
「あ、いや、違うんだ。彼女自身、なんで俺のベッドにいたのかわからなくて。俺としても一瞬の間にベッドに女の子がいたことに気付いたというか。いや、あれはもう本当に驚いた」
息を吐くエルに私の頭の中は全く整理しきれていない。
何故そんなにも冷静なんだ。
知らない女が自分のベッドの上にいるとか有り得ないでしょう。
すぐに衛兵呼んで牢屋行きでしょう。
不審者極まりない。
けれど、そうはなっていないらしい。
「ねえ、ちゃんと説明して?」
私の言葉に真剣に頷いたエルは彼女と出会った経緯を話してくれた。
結果、最初のエルの言葉通りだった。
まず、エルが好きになった子は貴族ではないらしい。
貴族としての立ち振る舞いが出来ておらず、庶民のようだという。
そして彼女は何故自分がエルのベッドの上にいるのかわからず、だいぶ混乱していたという。
それを落ち着かせ、話を聞いたというエルは馬鹿と言う他ない。
優しいとも言えるが、彼は第二王子という身分で自分の立場を弁えているのであれば、その対応は正しくない。
だが、その説教は後だ。
落ち着かせ、話をしていくと、彼女とエルの会話の噛み合わなさに驚いたという。
彼女は常識をほとんど知らなかった。
まず、この国の名を知らない。
エルの名も知らなければ、王族や有名な貴族達の名も知らないという。
身分制度についてもあやふやで、魔法や精霊の話も御伽噺のようだと驚いていたらしい。
逆に彼女の話ははっきり言って夢でも見ているのではないかと現実には疑わしいことを言うらしい。
遠く離れたところでも顔を見て話が出来るとか、隣国まで1日かけずに移動が出来る乗り物とか。
瞳の色を変えたり、音楽をいつでも聞くことが出来るような環境にいたという。
それだけ聞けばどこの王族だ、と聞きたくなるが彼女はそのような身分ではなさそうだし、誰だって当たり前に出来ることだというのだから、尚驚くとのこと。
そんな彼女と出会ったのは昨日らしい。
え、昨日?
「エル?昨日初めて彼女と出会って好きになったの?」
「俺も自分でびっくりしているんだ。でもすごく可愛いし、話は面白いし、それでいて時々怯えたり悲しそうにしたりするから守ってあげなきゃって思って。他の誰でもなく、俺が彼女を支えたいと思ったんだ」
多分、一目惚れってやつだ、という。
「それにそんなに彼女を長い間隠せるはずがないだろう?ユリィには相談したいと思っていたし。ただ、彼女を好きになってしまった今では、ユリィを婚約者として見ることは出来なくて。そんな自分をユリィはすぐに気付くと思ったし、黙ってるのは嫌で」
だから、とエルは頬に当てていたタオルを持ち直した。
「それで嫌われても仕方ないと思ったんだ。でも自分に嘘はつきたくないし、ユリィにもつきたくはなかったから。殴られるだけで済んで本当に良かったと思ってる」
思わず息を呑んだ。
真摯な瞳でこちらを見るエルに惚れ直してしまった。
あ、いや、惚れてなかったから見直したが適切か。
とにかく、彼は思った以上に立派な人になっていたことに驚いた。
深く息を吐き、私は負けたと思った。
途端情けない顔をする元婚約者、いや、弟か、もしくは親友か。
くすりと笑って私は言った。
「負けたわ。全力で貴方を応援する。そのお相手の気持ち次第だけど、彼女も貴方を好きだと言うなら、私が立派な淑女にしてあげる」
彼が幸せになるのであれば、それはきっと素敵なことだろう。
きょとん、と間抜けな顔をした後、綻んだ笑顔に私は温かい気持ちになった。
その後、エルの想い人の彼女を気に入ってしまい、なんだかんだ世話している間に彼女にも慕われ、まるで姉妹のように仲良くなった私達をエルがずるいずるいとむくれる光景が当たり前になる未来があるなんて、今の私たちはまだ知らないーーーーー。
本当の主人公は誰だろう。